日: 2015年11月30日

オーストリアの大坂図屏風に見て取れる“豊臣残党狩り”の影 ?



オーストリアの大坂図屏風に見て取れる “豊臣残党狩り” の影?

先日、NHK番組の「ハイビジョン特集 新発見大坂図屏風の謎 ~オーストリアの古城に眠る秀吉の夢~」(初回放送2009年)の再放送が深夜にありまして、たいへんに遅ればせながらも、この機会をとらえて、この屏風にある “大坂城天守の描写のナゾ” について申し上げておきたいと思うのです。

2006年にオーストリアで発見された「豊臣期大坂図屏風」(部分)

もう良くご存知のことでしょうが、ご覧の屏風は、記録では17世紀後半にはオーストリア南部のエッゲンベルク城に収蔵され、その後に城内の「日本の間」の壁面に貼り付けられて、そのまま今日に至ったものです。

そして当地の博物館学芸員や大学教授から相談を受けた高橋隆博先生らによって「豊臣家が栄華を誇った時代の大坂城とその城下を描いた絵」と鑑定され、話題になりました。

当時のニュース報道は「どうしてオーストリアの古城に?」という意外性に焦点が当てられ、1640年代前半(=寛永年間)にオランダ東インド会社が長崎の出島から何十点かの屏風を輸出した経緯があることから、そのあたりの時期に描かれ、ヨーロッパに渡ったのだろう、などと報道されました。
 
 
で、ご承知のとおり、この絵には華麗な「極楽橋」が描かれ、天守は「望楼型」であり、豊臣大坂城に特有の巨大な「馬出し曲輪」もあるため、描かれたのは豊臣秀吉や秀頼の頃の大坂城と思われるのに、人物の顔の描き方などは、京都の町絵師による「洛中洛外図屏風」と同系統のものだそうで、そうなると制作は江戸時代の17世紀中頃になってしまう、という点(制作年代と景観年代のズレ)が大きな謎だと言われました。

そこで、おそらくは、より古い豊臣全盛期に近い頃の屏風を手本にしながら、17世紀に改めて制作された屏風なのだろう、と推定されています。

同屏風に描かれた大坂城天守

―――という屏風絵ですが、「極楽橋」の文献どおりの華やかさ(=正確さ)に反して、最近では、ご覧の天守の描き方が、他の豊臣大坂城天守の描写に比べて色々と相違点のあることが、やや問題視され始めています。

と申しますのは、天守の最上階には高欄廻縁があって「望楼型」らしき様子があり、その天守にシャチ瓦が無い!! のは豊臣大坂城らしい特徴ではあるものの、以下の白壁に黒い柱を見せた「真壁づくり」の建物として描かれた点は、他の絵画史料(=多くは天守の全体が黒っぽく、おびただしい金具や金箔瓦、金色の紋章群が光り輝く印象)とは、ずい分とかけ離れた描き方になっているからです。

(※ちなみに、豊臣大坂城天守を “白い天守” で描いてしまった例は、出光美術館蔵の大坂夏の陣図屏風など他にもありますが…)

そして、そういう壁面とは打って変わって、まるで小倉城天守の「黒段」のごとき真っ黒いだけの最上階はどういうことなのか?(→「黒段」は戸袋や雨戸を黒塗りしたものですから高欄廻縁とは矛盾する!)という不思議な点もあります。

さらに申せば、ご覧の天守は二重目の屋根に「唐破風」が描かれていて、<天守の下層階の妻側にある唐破風>となると、私なんぞは思わず(当サイト仮説の駿府城天守など)小堀遠州が関与した徳川の城の天守群を連想してしまい、これは徳川の天守か??と叫びたくなってしまう方なのです。…

豊臣大坂城天守の描き方の代表例 …大阪城天守閣蔵「大坂城図屏風」より

むしろ、こちらの方がそっくり!?
左側は京都国立博物館蔵「洛中洛外図」に描かれた徳川の二条城天守(慶長度)

! ! ! 左右の絵をじっくり見比べてご覧になればお判りのとおり、オーストリアの屏風絵の天守は、実は、様々な点において、徳川の天守(とりわけご覧の二条城天守)を描いた事例にたいへん近い表現がなされている、という風に言えるでしょう。

…… となると、様々な相違点を抱えた天守の “ナゾの描写” はいったい何に起因したのか、この際、思い切った想像をめぐらせてみたいと思うのです。

豊臣大坂城の落城を伝えた最古のかわら版(大阪城天守閣蔵)

そこで、屏風絵の背景をさぐるうえで私なんぞが注目したいのは、豊臣大坂城が大坂の陣で落城し、徳川による天下の支配が加速していくなかで行われた、いわゆる “豊臣残党狩り” です。

例えば大坂陣の直後ですと、宣教師が記録した「京都から伏見に至る街道に沿ふて台を設け首級をその上にさらしたが、その台は十八列あり、ある列には千余の首が数えられた」という話が有名ですが、残党狩りの対象は幅広い人々に及んだようで、狩野派の絵師・狩野山楽なども、豊臣家との関わりがあって追及を受けたことが知られています。

そうした豊臣残党狩りがいつまで続いたのかと言えば、豊臣方のキリシタンの猛将・明石全登が消息不明のままであった中で、やがて島原の乱(寛永14年1637年勃発)が起きると、時の将軍・徳川家光は、改めて大規模な「明石狩り」を命じたことが知られています。
 
 
つまり、今回話題のオーストリアの屏風絵が描かれたとされる17世紀中頃というのは、そんなキリシタン鎮圧や豊臣残党狩りの余韻がまだ世の中にただよっていた頃のはずです。
 
 
何を言いたいのかと申せば、この屏風は、いよいよ徳川の支配が定まる頃の、ある種の虚無感のなかで、あえて豊臣全盛期の大坂城を描こうとした(意図はそうとうに挑戦的な)屏風であった、という点なのです。
それを考えますと、様々な相違点を含んだ天守の描き方についても、その動機が見えて来るのではないでしょうか?

なぜ天守だけが徳川風なのか…

結論から申しまして、この屏風の全体は、華麗な「極楽橋」がより正確に描かれた点などを考慮しますと、やはり高橋先生らの鑑定どおりに「豊臣家が栄華を誇った時代の大坂城」を描こうとしたことに間違いはないのでしょう。

ただし、先ほど申し上げた当時の世情と、天守だけが部分的に徳川風であるという矛盾点は、こんな可能性も示しているのではないでしょうか。

すなわち、挑戦的な画題ではあったものの、イザという時の危険回避のために、天守だけは徳川風の描写… 例えば前出の二条城天守とか、または寛永年間に再建された二条城天守や大坂城天守などの明らかな特徴を、巧妙に、ずい所に採り入れて描いたのではなかろうか? という可能性です。(例えば白壁、真壁の柱、唐破風…)

いつものごとく考え過ぎ、と言われてしまうのかもしれませんが、こんな手前勝手な見方で改めて屏風絵を見直しますと、この屏風が結局はオランダ商人に転売されたことや、前述の小倉城天守「黒段」に似た最上階の描写についても、まったく次元の異なる経緯によるものと思えて来てしまうのです。
 

これは、屏風を売却する際に、墨塗りで “危険な何か” を塗りつぶした跡!?なのでは…

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