日: 2015年12月24日

正確な極楽橋の描写は、瓦葺きではなく、総「檜皮」葺きで描いた方か



正確な極楽橋の描写は、瓦葺きではなく、
総「檜皮(ひわだ)」葺きで描いた方か

~秀吉時代の大坂城に架かっていた特別な建造物「極楽橋」~
YOMIURI ONLINE 中部発「図解 天下人の城」より引用/絵:富永商太/監修:千田嘉博

前回の記事では、オーストリアの大坂図屏風にある「極楽橋」の豪華な描き方の“隠れた由来”について申し上げましたが、やはりあの屏風絵のインパクトは大きかったようで、例えば2015年に千田嘉博先生が注目すべき指摘を行った <YOMIURI ONLINE 中部発「図解 天下人の城」権威象徴する極楽橋> のイラストもまた、基本的にオーストリアの屏風絵にならったものでした。

そしてこれ以外でも、昨今では諸誌を飾るCG等で豊臣大坂城の「極楽橋」が登場すると、これでもかっ! というほどの、ものすごい豪華版が描かれるようになったのはご承知のとおりで、こうした状況はぜんぶ、オーストリアの屏風絵とその解釈による結果なのでしょう。そして、あろうことか…

すべて! 瓦葺きの「極楽橋」まで登場―――
NHK「歴史秘話ヒストリア 古城に眠る秀吉の“Beobo”」平成21年放送より引用

NHKは私も長いこと出入りして来た局ですので、あまりケチをつけるような事をしたくはありませんが、さすがに、この映像を観た時は「ぁ……」と力の抜ける思いがしました。

何故こんな風に申し上げるかというと、長い間、極楽橋を描いた絵画史料といえば、以下の写真の大阪城天守閣蔵「大坂城図屏風」や大阪歴史博物館蔵「京・大坂図屏風」のように、総檜皮(ひわだ)葺きで描いたものしか知られていなかったところに、オーストリアの屏風絵の “瓦葺き” が発見されるや、たちまち状況が一変してしまったからです。

思いますに、檜皮葺きと瓦葺きの間には、けっこう大きな意味の違いや景観年代の問題も付随するでしょうから、この件を、そう易々と断定することは出来ないはずです。
 

<<対照的な「極楽橋」の描き方>>
総檜皮葺き
で描いた古風な二例=「大坂城図屏風」と「京・大坂図屏風」
VS
瓦葺きを取り入れた豪華なオーストリアの「豊臣期大坂図屏風」

で、前回も申し上げたとおり、当時の人々を驚かせた豪華な廊下橋というのは、「極楽橋」に関する記録ではなくて「千畳敷に付設の廊下橋」の方だ、という動かしがたい文献上の “事実” があります。

この際、是非とも申し上げたいのは、現在の「極楽橋」をめぐる無用な混乱をおさめるためにも、オーストリアの屏風絵の解説でよく引き合いに出された「1596年日本年報補筆」の全文を、一度、じっくりと読んでみて下さい。

そうすれば、そこで「政庁」と何度も書かれた建物が「千畳敷」に他ならない!! ことは、だれにでも分かるような文章になっているのですから、当然、そこへの「通路」として架けられた廊下橋は「千畳敷に付設の廊下橋」でしかありえないはずなのです。――
 
 
【ご参考】(松田毅一監訳『イエズス会日本報告集』所収「1596年度の年報補筆」より)

堺から三里(レーグア)隔たり、都に向かう街道に造られた大坂の市には、民衆がその造営を見て驚嘆に駆られるように、太閤の宮殿と邸に巨大な装置ができた。(太閤は)その政庁に千畳の畳(それは非常に立派な敷物の一種である)を敷き、それをダマスコ織と全絹の黄金色の縁で覆うよう命じたが…(中略)
デウスはこのように豪壮な造営における、かくも空しい誇示を本年 懲らしめ給うたように思われる。なぜなら大坂では豪雨のため政庁が支えられていた一方の壁面が崩壊したからである。この崩壊によって政庁に少なからぬ傾斜が伴った。しかし太閤はいっそう熱をあげて気をもみ…
(中略)
(太閤)はこの政庁の前の非常に美しい広場に狂言を上演するために舞台を構築するよう命じたが、その舞台の両脇に、或る程度の間を隔てて三、四層造りの二基の櫓を(構築したが)、その一基は降り続く雨のために、長く保たずして転倒し…
(中略)
(太閤)はまた城の濠に巨大な橋が架けられることを望んだが、それによって既述の政庁への通路とし、また(橋に)鍍金した屋根を設け、橋の中央に平屋造りの二基の小櫓を突出させた。その小櫓には…

 
 
という最後の部分に続くくだりが、「豪華」説の紹介でさんざん引用された部分でありまして、このとおり、何度も申し上げて恐縮ですが、豪華なのは「極楽橋」ではなくて「千畳敷に付設の廊下橋」の方なのです。

(※「政庁の前の非常に美しい広場」とはきっと桜の馬場のことなのでしょう)

(※さらに追記:この「極楽橋」の豪華さをめぐる混乱の背景を皆様にお解りいただくために、勇気をもって追記いたしますと、この1596年=慶長元年に造営された廊下橋を「極楽橋」だと断定する「慶長元年説」を主導した北川央先生が、昨年から大阪城天守閣の館長に就任しております。北川先生は年齢で言えば私の一歳年下だということに免じて書かせていただきますと、先生は大阪城天守閣の言わば叩き上げの学芸員として活躍して来られた方ですが、得意な分野は織豊期の政治史や庶民信仰、大阪の地域史だそうで、絵画史料の分析でも権威とされています。ただ、私のような「城」にドップリの城郭マニアとは、興味や観点=城郭研究の先人達に対する思いが、やや違うのかもしれない… つまり、1596年に造営された廊下橋は「極楽橋」ではなくて「千畳敷に付設の廊下橋」であるとした櫻井成廣先生や宮上茂隆先生の業績を尊重する気持ち → 旧説の城郭論を否定するのならせめてその論拠を城郭論で示す姿勢が、やや違うのかもしれない… というあたりが、昨今の混乱の背景にあるのではないでしょうか?)

ということで、今回は、より正確な「極楽橋」の描写はどちらなのか? というテーマで、当サイトなりの解釈を申し上げておきたいと思うのです。
 
 
 
<「極楽橋」が “瓦葺き” だという文献を見ると>
 
 
 
(太閤)はまた城の濠に巨大な橋が架けられることを望んだが、それによって既述の政庁への通路とし、また(橋に)鍍金した屋根を設け…

という風に、先ほどの1596年日本年報補筆には「鍍金した屋根」とだけ書かれていて、ここでは特に屋根の材料は限定されていません。(→ 柿葺きや檜皮葺きでも垂木に「金具」をあしらうケースはありますので…)

では、どこから “瓦葺き” という話が具体的に出て来るのか? というと、前回の記事でも挙げた「千畳敷に付設の廊下橋」のもう一つの記録の方に、それが登場するのです。
 
 
(ジャン・クラセ『日本西教史』太政官翻訳より/※細字だけ当ブログの補筆)

城外には湟(ほり)を隔てゝ長さ六丈、幅二丈五尺の舞台を設け、(中略)舞台の往来を便にせんと湟(ほり)を越して橋を架す、長さ僅かに拾間(じゅっけん)(ばか)りにして其(その)(あたい)一萬五千金なりとぞ。
鍍金したるを瓦を以て屋を葺き、柱 欄干 甃石
(いしだたみ)等も金箔を以て覆はざるなし。其頃大坂に在て此荘厳を目撃せし耶穌(やそ)教師も、此の如き結構は世に類なしと云へり。
 
 
と、こちらの記録で「鍍金したるを瓦を以て屋を葺き」という風に、はっきりと “瓦葺き” と明言した形になっていて、この記録が千畳敷に付設の廊下橋のことであるのは誰の目にも明らかでしょう。

しかも絶対に見逃せないポイントは、最後の「此の如き結構は世に類なしと云へり」という部分でありまして、つまりは、この千畳敷に付設の廊下橋こそ、当時の日本はおろか世界的な観点で見ても、地球上で最も豪華な橋であろう、と記録したことになる点です。

ということは、もちろんそれは「極楽橋」よりも豪華であったはずで、この際、城郭論の立場から考えてみますと、豪華さ(→明国使節の目を驚かすこと)が「極楽橋」の命ではなかったはずであり、極楽橋が極楽橋たりえた最大の要件というのは、もっと別のところ―――それは、大坂城本丸から“北”に向けた出入口、すなわち都の朝廷を意識した出入口、という点にあったはずではないのでしょうか?
 
 
 
<そもそも「極楽橋」は誰が渡る橋だったのか??
 → それを本丸の搦め手(からめて)門や臨時の大手門とする 諸説の限界…>

 
 
 
ここで冒頭の、千田嘉博先生の注目すべき指摘について、改めてご紹介する必要があると思うのですが、そのYOMIURI ONLINEの記事には、

… 天下人とそれに準じる大名の城には、さらにある重要な建造物があった可能性がある。「極楽橋です」と、千田嘉博・奈良大学長(城郭考古学)は言う。(中略)千田さんは「官位で大名を序列化した秀吉は、権威を象徴する特別な施設として、極楽橋を架けさせたのではないか」と言う。…

とありまして、千田先生の関心もやはり豊臣関白政権を支える「権威」の一環としての極楽橋にあるようです。

であるならば、いったい「極楽橋」とは誰が渡る橋だったのでしょう?

その疑問について同記事には言及が無いため、まことに手前味噌ながら当サイトの大坂築城当初の想定をご覧いただきますと、図のように本丸北部の表御殿には「主門(礼門)」と「脇門」という二つの門があったはず、と考えております。

これらは足利将軍邸の門の形式を意識したもので、まさに築城当初から! こうした形が採用されていたという想定であり、ちなみに千田先生も著書の中で、洛中洛外図屏風に描かれた足利将軍邸を、以下のように解説しておられます。

洛中洛外図屏風(歴博甲本)の足利将軍邸

(千田嘉博『戦国の城を歩く』2003年より)

… 館の正面には平唐門形式の礼門(らいもん)とよぶ正式の門と、四脚門形式の日常の通用門という二つの門があったことも見てとれます。
礼門は将軍のお出ましなど特別なときしか用いませんでした。ちょうどこの「洛中洛外図屏風」が描いた「将軍のある日」は特別な日ではなく、正式の門(向かって左側)は門扉が閉じたままでした。将軍は館にいるのでしょう。
日常使いの通用門は戸が開いていて、人びとが出入りできました。正門と通用門との違いも意図的にしっかりと描き分けています。

 
 
といった足利将軍邸の門の形式を、豊臣大坂城の表御殿も踏襲していたはず、というのが当サイトの基本的な考え方でありまして、ですから「極楽橋」というのは、本丸の搦め手門でも臨時の大手門でもない、最初から渡れる人物を厳しく限定した “特別な門” に直結した廊下橋なのだろうと思うのです。

当サイトの2010年度リポートより
築城当初(輪郭式の二ノ丸の造成前)を推定した略式イラスト

淀川に通じた舟入堀から入城すれば、極楽橋を経て表御殿に…

(※ご覧のうち極楽橋の望楼の屋根が薄青色なのは描画の都合ですのでご容赦を…)

そこで豊臣大坂城の「極楽橋」に限って申しますと、それは本来、城主の羽柴(豊臣)秀吉よりも高位の人物を迎えるための橋であった、と考えても良いのではないかと思われますし、千田先生が指摘された大大名らの「極楽橋」は、そうした大坂城の用法にならって、天下人・秀吉を各城に迎えるための御成り橋であった、と考えてみても良いのではないでしょうか。

で、そのうえに付言させていただくなら、そうした「橋」が築城まもない豊臣大坂城に必要とされたのは、やはり豊臣関白政権の異例の成り立ちや、かの「大坂遷都計画」の推進との関わりを、どうしても考えざるをえないように感じるのです。!!

檜皮葺き「勅使門」の一例、大徳寺・勅使門(創建は慶長年間)


宇佐神宮の呉橋(創建は鎌倉時代以前/これも勅使を迎えるための屋根付き橋)


そして何より実際の「極楽橋」そのものの現在の姿、宝厳寺・唐門

(※上記3写真はいずれもウィキペディアより)

ご覧の門や橋はもうよくご存知のものでしょうが、改めてこのように並べてみますと、総檜皮葺きの「極楽橋」というのは、大坂城の本丸から内裏移転候補地の天満地区に向けて、さらには京の都に向けて北向きに架けた廊下橋だった、という理解が深まる感がして来ますし、完成直後の「極楽橋」はまさに朝廷からの勅使(=大坂遷都の吉報!)を待っていたのではなかったでしょうか。

再びオーストリアの「豊臣期大坂図屏風」より
極楽橋の先、淀川の流れの先には、京の都が。…

かくして、オーストリアの屏風絵の極楽橋の方は、言わば <情報の折衷(せっちゅう)案> として、絵師が独断で瓦葺きと檜皮葺きの両方をとり入れて “作画” したもののように見えて来ますし、ましてや、この極楽橋をよーく見ると、その前には魚をのせたまな板をもつ庖丁師ら?が描かれていて、この廊下橋はいったい何なのか=超豪華な家臣の通用門!??…という、絵師の無謀な画面操作が暴露されているかのようです。

……以上のごとく、「極楽橋」とは一言で言えば、秀吉の政権構想のあらわれであり、総檜皮葺きこそが「極楽橋」にふさわしい屋根の意匠と思えてなりませんし、そういう考え方の裏側では、極楽橋を本丸の搦め手門や臨時の大手門としか(構造的に)扱えない諸説の “限界” が露呈していると思うのです。
 

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