日: 2016年1月11日

時系列のイラストで追う豊臣大坂城の姿 …最大の謎「千畳敷は地震で倒壊したのか?」を焦点に



時系列のイラストで追う豊臣大坂城の姿 …

現在も、大阪城天守閣3Fに展示中の <豊臣時代 大坂城本丸復元模型>
手前の堀に渡された屋根付きの橋が「千畳敷に付設の廊下橋」!…

ご覧の模型は、1992年に宮上茂隆先生の復元図を参考にしながら製作され、この20年以上、館内に展示されて来たものですが、この写真ですと「極楽橋」は本丸の向こう側の見えない所にあります。

そして手前に見えるのが「千畳敷に付設の廊下橋」であり、このように慶長元年1596年に造営された廊下橋は「極楽橋」ではなく、ご覧の「千畳敷に付設の廊下橋」である、とした宮上先生や櫻井成廣先生の見解にならったものと言えましょう。(作:馬場勇/建築家)

で、昨年末の当ブログ記事では、この極楽橋と 千畳敷に付設の廊下橋をめぐる混乱ぶりについて申し上げたものの、それらの <位置関係>や<時系列> が若干、解りにくいままに話を進めてしまったようで、今回はその点をおぎなうため、当サイトの仮説どおりに描き分けた豊臣大坂城の移り変わりをイラストでお目にかけようと思います。

その第1図は、これまでに何度もご覧いただいたものですが…

【第1図】当サイトの2010年度リポートより
築城当初(輪郭式の二ノ丸の造成前)を推定した略式イラスト

冒頭の復元模型に比べますと、このイラストの視点はほぼ反対側(北西)から眺めた状態であり、時期的には築城当初の天正13年(1585年)を想定したものです。

そしてこの状態から、豊臣大坂城は豊臣時代の中においても激変をくり返すことになるわけで、それを強めた第一の要因は、かの「千畳敷」が慶長元年の慶長伏見地震で完全に “倒壊” したという、おなじみの「1596年日本年報補筆」に書かれた宣教師の記録に他ならないでしょう。

この「千畳敷」が本当に倒壊したのか? という問題は、もしそうであれば、千畳敷が描かれていない! しかも「極楽橋」がただの木橋になっている!! 中井家蔵『本丸図』は、いったいいつからいつまでの状況になるのか??
(→ 例えば冒頭の復元模型では、ほぼ『本丸図』どおりの表御殿が、築城から30年後の落城の時まで、二階の増築のみでずーっと存在し続けた!想定のようであり、ならば東西25間×南北20間とも伝わる巨大な千畳敷はいったいどこに!?…)
という未解決の大問題を含めて、いまだに合理的な解釈や定説を見い出せておりません。
 
 
ではひとまず、当サイト仮説の地震直前の本丸周辺をご覧いただきますと…

【第2図】慶長元年(1596年)慶長伏見地震の直前の最盛時
明国使節を圧倒するために千畳敷・廊下橋・大舞台が造営された

ずばぬけて巨大な「千畳敷」が、本丸の南側に造営された様子がお分かりでしょうが、このとおり、当サイトの仮説では「表御殿」はこの頃も後の山里曲輪にあったという想定ですから、巨大きわまりない「千畳敷」も、表御殿とは一切バッティングすることなく、ご覧の “通説どおりの位置” に建てられたことになります。

もちろん、そこには1596年日本年報補筆にある豪華な「付設の廊下橋」や「大舞台」もあったわけで、この一時期、「極楽橋」と「千畳敷に付設の廊下橋」は本丸の北と南にこうして並存していたはずです。

しかし間もなく…

【第3図】慶長伏見地震の甚大な被害状況の推定
千畳敷は「倒壊」、全く無事だったのは表御殿と「極楽橋」だけ?

伏見城を一撃で壊滅させた慶長伏見地震は、大坂城など畿内各地にも甚大な被害をおよぼし、その様子は1596年日本年報補筆にも詳しく記されています。
 
 
【ご参考】(松田毅一監訳『イエズス会日本報告集』所収「1596年度の年報補筆」より)

まず、大坂に居所を有する我らの司祭は次のように報告している。
本年(一五)九六年八月三十日夜八時に、地震が起こった。地震はしばらく続いたが何らの被害ももたらさず、ただ来るべきことを警告しただけであった。
九月四日の真夜中に、突然非常に恐ろしく、震動の激しい地震が起こったが、人々にとっては屋外に飛び出す余裕もないほどであった。

(中略)
しかも(地震)は、(太閤)がシナ使節たちを迎えようと考えていて、その荘重さと多彩なことで一同の目を集中させていた千畳敷のあの広壮ですばらしい宮殿を最初に倒壊してしまった。
(中略)
天守(閣)と呼ばれる七層から成るすべての中でもっとも高い宮殿の城郭(propugnaculum)は倒壊はしなかったが、非常に揺れたために誰もそこに住まおうとせず、また全部を取り壊さぬ限り修復はできない。
 
 
という風に、豊臣大坂城は千畳敷が「最初に倒壊してしまった」と明記した形になっていて、ほぼ全滅の伏見城が「大坂のそれに似た千畳敷の宮殿しか残らなかった」という風に、対照的な被害を伝えた点は興味深く、そうした被害状況の把握は次の「太閤がシナ使節一行を謁見した次第」という(…若干の情報の錯誤が感じられる)くだりでも一貫しています。
 
 
(上記の同書より)

この地震によって伏見の市、とりわけ城郭(propugnaculum)は非常に震動して荒廃したので、使節一行のための住居と謁見に適当な場所が残らなかったほどである。
太閤は彼らを大坂で謁見することに決めたが、そこでは非常な震動があった唯一の(天守)閣(turris)と、山里と言われた或る屋敷と極楽橋〔または楽園の橋と言ってもよい〕と言われ一万五千黄金スクードに値する非常な黄金で輝くいとも高貴な橋を除いては、地震のため城郭(propugnaculum)内には何も残らなかった。

(中略)
他の諸建造物は千畳敷の政庁とともに倒壊したり、または何らかの害になるので国王(太閤)の命令によって倒壊させられ…
 
 
という風に書いてあり、ただお気付きのとおり、こちらの文章では「一万五千黄金スクードに値する非常な黄金で輝く」という一部分だけは、情報の錯誤で「千畳敷に付設の廊下橋」の説明文がまぎれ込んでしまった!ようであり、その点では注意が必要でしょう。

(※ただし、前回の記事で申し上げた北川央・大阪城天守閣館長は、逆に、この一部分だけをよりどころにして「極楽橋」の慶長元年造営説を説明しておられますので、皆様には是非とも1596年日本年報補筆の全文を通してお読みいただきたいところです)

そして絶対に見逃せないのが、この錯誤の部分を除けば、実は、この文章には大変に重要な情報が隠れているのかもしれない、という点が、今回の記事の一大焦点なのです。すなわち…

「唯一の(天守)閣と」「山里と言われた或る屋敷と極楽橋」
「を除いては」「何も残らなかった」

ということは、後の山里曲輪の周辺だけが被害をまぬがれたことに!!?

大変に重要な情報かも、と申し上げたいのはこの点でありまして、1596年日本年報補筆に書かれた被害状況を総合しますと、ご覧のように、城内で奇跡的に無事であったのは後の山里曲輪の周辺に限られて来ます。

ということは、この記録で「山里と言われた或る屋敷」と書かれた建物は、実際には、ここにあった「表御殿」であったのだと思い切って解釈しますと、前述の未解決の大問題(→ 表御殿と千畳敷との入れ替わりの関係 → 詳しくは後述)に対して、ある程度の、合理的な解決策が見えて来そうなのです。
 
 
1596年日本年報補筆に基づく被害状況の解釈

■千畳敷は完全に倒壊した(付設の廊下橋や大舞台も一緒に倒壊した)
■主要な建物では(後に山里曲輪となる)表御殿と極楽橋だけが残った
■天守は使用不能の危険な状態におちいった
■奥御殿はまだら状に被害が広がり、個々の建替えと修理で対処した
■櫓群も多くが建替えを余儀なくされた
■輪郭式の二ノ丸(西ノ丸御殿など)は不明
 
 
このところ話題の1596年日本年報補筆に基づけば、上記のような被害状況と思えるものの、ところが、ご承知のごとく、地震の直後に豊臣大坂城で行われた明国使節との対面(明使登城)は、その千畳敷で!! 儀式が行われた、とする国内外の記録が一方にありまして、果たして本当に千畳敷は倒壊したのか? しなかったのか? という大きな矛盾を抱えた状況が、今日に至るまで続いております。
 
 
(諸葛元声『両朝平壌録』より)

正使楊方亭前に在り、副使沈惟敬金印を捧げて階下に立つ。
良や久しうして殿上黄幄
(あく)開く、一老叟杖を曳き二青衣(=小姓)を従えて内より出づ、即ち関白(太閤)なり。
侍衛呼吶し人皆竦慄
(=身がすくんでおののく)す。
 
 
明国使節と太閤秀吉との対面の様子を伝えた文章ですが、これをご覧になって、やや奇妙で、意外に感じられたのは、儀式は御殿の前庭に明国使節(正使・楊方亭と副使・沈惟敬)を立たせて、その眼前で御殿の黄色い幕があいて秀吉が姿を現す、という風に「屋外」で行われたことではありませんでしょうか。

――― 黄色い幕、と言いますと、私なんぞは映画「ラストエンペラー」で幼児の頃の溥儀(ふぎ)が、太和殿の前庭に居並ぶ大勢の臣下に気づかずに、無邪気に黄色い幕で遊んでしまうシーンを連想しますが、黄色い幕とは、取りも直さず「皇帝」を意味したのでしょう。

ですから、秀吉の場合も「黄色い幕」というのは、鳥肌が立つような、ただ事ではない事態が明国使節の眼の前でくり広げられた疑いがありそうで、これは「中国式」の儀式を逆手にとって行ったものに違いない、と解説した書物もありましたが、本当にそれだけが「屋外」開催の真の理由だったのか??…
 
 
ここで、さらなる大胆仮説を申し上げてみたいのですが、この明国使節との対面儀式というのは、実際には、奇跡的に無事であった「表御殿」の玄関前の白洲!! か、その近くの渡り廊下の前の「勢溜り」において、それがあたかも「中国式」であるかのような体を装いつつ、場合によっては眼前の建物が「千畳敷である」とさえ言い放って、挙行したのではなかったか… と邪推するのですが、いかがでしょう。

……これには異論もございましょうが、様々な条件をかいくぐりながら、何とか物理的に成り立ちうる、矛盾の解決策の一つと思われますし、また上記のようにして、「表御殿」が全く無事であったと解釈しうる “当サイトならでは” の解決策であることを、重ねて強調しておきたいと思うのです。

【第4図】慶長3年、再建計画としての中井家蔵『本丸図』の姿へ

さて、ここに至って、ようやく中井家蔵『本丸図』にある城の姿が実現に向かったのだと考えておりまして、秀吉の最晩年の大坂町中屋敷替と三ノ丸の築造に合わせて、豊臣大坂城の大手を南に変更すべく、本丸の大改造が行われたはず、と申し上げて来ております。(→2010年度リポート)

具体的には、幸いにして被害をまぬがれた「表御殿」を、まるごと本丸の南側に移築することで、城の大手を南に変え、それとともに、修築中の奥御殿を含めて、ほぼ全ての殿舎を「瓦葺き」に改めたのではなかったでしょうか?(→『大坂冬の陣図屏風』『大坂夏の陣図屏風』の城内はほとんどが瓦葺き屋根であること)

そして1596年日本年報補筆に「全部を取り壊さぬ限り修復はできない」と書かれた天守については、やはり一旦は、全面的な解体修理がなされた、と考えることが出来るのかもしれません。

と申しますのは…

2010年度リポートより / 中井家蔵『二條御城中絵図』の色分けの意味


ならば、同じ中井家蔵『本丸図』の色分けは?(当サイト仮説)


ちなみに同図の天守の色は… 無色!紙の地の色のまま!!


で、もう一度『二條御城中絵図』を見れば、左下の天守はちゃんと「継続使用」の色! ! !

あまりに単純な話であり、そのせいか、これまでどなたも両図の天守の「色」の差異をおっしゃったことは無いように思いますが、これはいったいどうしてなのか?と、めいっぱい想像力を働かせますと…

おそらく天守は1596年日本年報補筆のとおりの危険な状態になり、「解体修理」という方針が決まって解体したものの、その時点で秀吉が死んでしまい、一方、西ノ丸天守(≒代替天守)の方が、政治状況の流動化でどんどん話が進んで行き……

というような、図には「御天守」と墨書したものの、結局、そこを「色分け」出来るような状況にならなかったのではないか、と。

そこで上記の【第4図】は、幼き後継者・豊臣秀頼による再建天守(当サイト仮説)の建造がスタートするまでの “空白期間” に、『本丸図』は該当するのかもしれない、という可能性を示す状態で描いてみました。
 
 
かくして、豊臣大坂城は秀吉死後のさらなる激変を強いられて行くのですが、今回の記事はすでにかなりの長文になっておりまして、これ以降については、まことに勝手ながら、次回に改めて申し上げさせていただきたく存じます。…

【第5図】慶長5年、徳川家康の上杉討伐軍の出陣とほぼ同時に「極楽橋」を移築
豊臣秀頼のいる本丸の有名無実化がいっそう進む……

(次回に続く)

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