日: 2016年3月29日

続・豊臣大坂城天守も階段群が2系統 →「2系統なのは何階までか?」で各天守を区分すると…



続・豊臣大坂城天守も階段群が2系統 →「2系統なのは何階までか?」で各天守を区分すると…

(※前回も引用の『完訳フロイス日本史』より)

(最上階の)この席において関白は大いに心をこめて決意を述べ、下(しも)の九ヵ国を豊後、薩摩、山口の諸国主に分配するつもりだが…(中略)こう述べると関白は立ち上がり、種々の別の階段から降り始めた。

→→ 最上階に登った豊臣秀吉と宣教師らは、降りる時だけ、複数の階段群を使った…
これはすなわち「表の階段・奥の階段」という構造ならではの出来事か!?

ご覧のとおり、天正14年のコエリョら宣教師一行の大坂城訪問において、関白秀吉と宣教師は天守の最上階に登ったあと、降りる時になると突如、複数の階段群を使ったことがフロイスの『日本史』に書かれています。

細かい事を申し上げて恐縮ですが、この「降りる時だけ複数の別々の階段」という妙な現象は、よくよく考えますと、表・奥の2系統の階段群であれば、なんら不思議ではなかったことが解ります。

つまり、登りの行程では、秀吉がアレコレと天守内を案内しつつゾロゾロと行くため、一筋のルートしか行けなかったわけですが、最上階から降りる場合は、三十人以上の一行が(例のごとき急階段を)スムーズに降りて行くためには、2系統の階段群をすべて使った方が手っ取り早い、と思われたのではなかったでしょうか?

くどいようですが、こうした点もまた、豊臣大坂城天守には2系統以上の階段群があった、という可能性を補強しているように思えてなりません。

では、その2系統以上の階段群は「何階まで」達していたのだろうか? という点に興味は移ると思うのですが、その前に、皆様におわびを申し上げねばならないのは、思えば、ご覧の天守イラストは、内部の「階」の想定について、これまで一度も説明を申し上げて来ておらず、図示などもしておりません。

これはまことに私の手落ちであったと反省しつつ、早速、豊臣大坂城天守の内部についての当サイトの想定をご覧いただきたく思うのです。

それは「8階」建ての構造に「中5階」が加わり「橋敷以上九ツ」になっていたのでは…
(青文字=『輝元公上洛日記』より / 赤文字「御蔵」=『大友家文書録』より)

まず、フロイス『日本史』に最上階が「八階」と書かれたのは、コエリョやフロイスらが一番下の土間の階から入って順に上まで登ったからでしょうし、この時、秀吉は別のルート(おそらくは付壇・付櫓の方)から先回りして入っていて、それが『日本史』に「関白は、この門の鍵を所持している、一人の修道女のような剃髪した比丘尼(ビクニン)だけを伴って、すでに上から降りて来ていた」と伝えられたのだろうと想像しています。

そして毛利輝元の訪問などを記した『輝元公上洛日記』には、各階の名称について「金乃間、銀の間、銭の間、御宝物の間、御小袖の間、御武具の間、以上七重也」とあり、筆者の平佐就言が「以上七重也」と書きながら、階の名称は六つしか挙げていない、ということは、その他に名称の無い階(穴倉など)があったことを証言しているのでしょう。

したがって上記のイラストのごとく、天守台上の1階(3階)が「御武具の間」にあたり、その名の由来としては、内部に付櫓から雁行する形で対面所が設けられ、例えばその最奥に記念の甲冑(秀吉自身の、もしくは旧主・織田信長の??)を飾ったことで「御武具の間」という名称がついたのでは… などと想像しております。

で、そこから上は『輝元公上洛日記』のとおりの各階が続いたとしますと、ちょうど「御小袖の間」(4階)が「御上(おうえ)の階」(天守台上の2階)にあたることになりまして、まさにここに正室・北政所らの部屋があって、旧主・織田信長の天主の構想が反映されていたのではないでしょうか。

しかもこの階は、全部で「八階」と記したフロイスが「四階で茶を飲んだ」とも書いていますから、ここがその場所であったことになり、この階より上が “財宝類を納めた塔の領域” になるだけに、極めて妥当な話だと思われます。

さらにご注目をいただきたいのは「中5階」の張り出しでありまして、前述のように全体が8階建てと思われるのに、なぜか『大友家文書録』には「橋敷以上九ツ」=土台の上に階段が九つもあった(→10階建て!!?)と記録されていて、それはこの「中5階」のごとき特殊な構造が、間に組み込まれていたからではないか… と想定しているわけです。

かくして、壮大で、なおかつ新種の「立体的御殿」豊臣大坂城天守は、旧主・信長の構想を受け継ぎつつも、上層階の塔の領域を「宝物蔵」とする、ある意味で実に秀吉らしい発想を具現化した天守であったと思うのです。
 
 
 
<2系統の階段群は、天守台上の「何階」まで達していたか?
 という観点で、他の各城の天守を区分すると…>

 
 
 
さて、以上のような豊臣大坂城天守において、2系統以上の階段群はどの階まで達していたのか? と考えますと、例えばこれに近いはずの彦根城天守・広島城天守・姫路城天守など、付櫓などで「二つの登閣路」があった天守でも、それらのほとんどは天守台上の1階で一つに合流してしまい、それより上に2系統の階段群が伸びる形にはなっておりません。

つまり2系統の階段群というのは、確認できる天守の中では、けっこう珍しい部類に含まれていて、それだけ「立体的御殿」のなごりは希少な現象であったのでしょうが、しかしそれらには “ある共通点” がしっかりと残されているようです。すなわち…

■2系統の階段群が天守台上の「3階」まであった例

名古屋城大天守

徳川再建の大坂城天守(願生寺蔵「大坂御天守指図」部分より)

ご覧の写真で右端に写っている「三重目」を拡大して見れば…

■2系統の階段群が天守台上の「4階」まであった例

松本城天守(天守四階平面図/『国宝松本城』より)

ご覧の名古屋城大天守、徳川再建の大坂城天守、松本城天守の三つは、階段の付け方が各々バラバラのようでいて、実はこんな共通点があります。

このように、いずれの天守も、天守台上の1階から、いちばん上から数えて三重目の階まで、2系統の階段群があった形になります。

で、この「上から数えて三重目の階まで」という共通点について申しますと、さらに当サイトの我田引水になってしまって恐縮ですが、かの安土城天主!! もまた、そうであったと申し上げざるをえないところなのです。

静嘉堂文庫蔵『天守指図』より 五重目 小家ノ段

それはご覧の『天守指図』そのままの全体図においても…

また当サイト独自の「新解釈『天守指図』復元案」でも…

したがって、この件に関して、豊臣秀吉の天守もやはり、旧主・織田信長の構想をしっかりと受け継いでいたはず… つまり「上から数えて三重目の階まで」というのが、今回の話題の結論になるのではないかと思うのです。

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