日: 2016年4月25日

続・信長の「天下」とは――せっかく築いた小牧山城と城下をなぜ4年で捨てたのか?



続・信長の「天下」とは――せっかく築いた小牧山城と城下をなぜ4年で捨てたのか?

前回に続き、織田信長が意図したはずの「天下」の意味について、もう少し申し上げてみようと思うのですが、まず最初に、ご覧の本はNHKの番組(真田丸…)と連動した中身だろうと思っていたら、副題の <戦国時代を「城」で読み解く> にあたる章の中に、思わずヒザを打つ文章が並んでいたことの方が印象的でした。

そのクライマックスは「天守や石垣の有無、礎石・瓦の使用を近世城郭の指標として城を捉えるのは、歴史観として大きな問題があり、適切ではないと言わなくてはならないのです。… それでは近世城郭成立の本質的な指標とすべきものは何か。それはずばり城の形、とりわけ階層的な城郭構造の成立…」という部分に続く一文でしょうが、私はその前の「戦国期拠点城郭の登場」と題した部分にもハッとしました。

(上記著書より)

織田信長というと、非常に先進的で時代を先取りする人物という印象が一人歩きしていますが、天下統一に乗り出す以前には、室町時代的な館城を本拠としていました。後で触れる那古野城や清須城がそうです。信長が室町的な館城から脱するのは、永禄六年(一五六三)の小牧山城の築城からでした。
(中略)
小牧山城や岐阜城を築くことで、信長はようやく当時の他の戦国大名たちのスタイルに追いついたと言えるでしょう。
 
 
私なんぞは小牧山城や岐阜城の発掘成果の方に気をとられ過ぎのようで、それらがすごい、すごいと、頭の中でリフレインするばかりでしたが、千田先生は城の全体像(戦国期拠点城郭との類似)から「ようやく当時の他の戦国大名たちのスタイルに追いついたと言える」と冷静にサラリと言ってのけたところに、思わずハッとしたのです。
 
 
―――であるならば、そのせっかく「追いついた」ばかりの小牧山城をわずか4年で捨てて、しかももう一度、同じ「スタイル」のはずの岐阜城を、わざわざ新たな居城として修築した動機は何だったのか… と、逆にこの点が頭の中でクローズアップされて、気になって来たのです。
 
 
と申しますのも、小牧山城が「尾張統一の総仕上げ(『信長の城』)」として、あれだけ画期的に、かつ大規模な築城で、しかも新規に出来上がった城と城下であることが判明したのですから、それをさっさと惜しげもなく捨てた信長自身の「動機」(→小牧山城のままでは何故ダメだったのか?)がますます問われるべきだと思うからでして、この点について、当の千田先生はどう説明して来られたかと言うと、

「信長の小牧在城期間の短さは結果論であり、あらかじめ信長がすべてを見越して行動したと考える方が不自然ではないでしょうか」(『信長の城』)

という風に、予想外に美濃の攻略が早く済んでしまったから!… と説明されていたように記憶しています。
 
 
その時点では「まぁそうかな…」と感じたものの、こうして「天下」の語義が揺れ動き、信長はいったい何を目指していたのか、改めて確認せねばならない状況になりますと、“美濃の攻略が早く済んだから” では、岐阜への早急な居城移転の動機として、ちょっと弱いのでは… とも感じられてしまい、例えば、本当に岐阜への移転は既定路線だったのか? 画期的な小牧山城を捨ててまでして岐阜で実現したかったものは何だったのか? という点を、もう一度、確認しておく必要があるのではないでしょうか。

ご覧の画像は、おなじみの「織田信長公居館跡発掘調査ホームページ」から画像検索で出て来るトップ画面をそのまま引用させていただいたものですが、はからずも、このトップ画面に、先ほど申し上げた「小牧山城を捨ててまでして岐阜で実現したかったもの」が如実に現れている気がしてなりません。

と申しますのも…

岐阜城と足利義政の東山山荘(銀閣寺)との酷似
山頂の城砦と山麓の御殿・庭園という組み合わせ、しかも同じ「西向き」の城として…

室町幕府八代将軍・足利義政の晩年の木像(慈照寺蔵/写真はクリエイティブ・コモンズより)

ご覧の岐阜城と東山山荘の酷似という件は、過去のブログ記事でも申し上げたものの、この際、私自身、この件の「意味」を改めて問い直してみたいと思っておりまして、上の引用画像の「信長公居館跡」で発掘された庭園が、足利義政の東山山荘にならったものであろう、という指摘は発掘調査チームの報告にもあったわけですが、それは本当に「ならった」だけ?だったのでしょうか。

信長は何のために庭園群を?? それは「おもてなし」のためでなく、
<自らが足利将軍(義政)に成り変わった姿> を見せつけるためではなかったのか…


(※発掘調査チームが発表したイラストの引用)

つまり、これらは「ならった」と言うよりも、稲葉山城を手に入れて現地をじっくりと眺めた信長が、カミナリに撃たれたように直感したアイデア―――

すなわち、これは似ている、これなら面白く修築できると、敬愛する諸芸の祖・足利義政の東山山荘をスケールアップしてダイナミックに再現できるのかもしれない、という気付きがあったのかもしれず、それを我が物としてアピールできる「政治的効果への誘惑」こそ、信長が小牧山城をあっさりと捨てて、居城移転に踏み切った真の「動機」だったのではないでしょうか?? と申し上げてみたいわけなのです。
 
 
で、そういう観点から申せば、移転前の小牧山城というのは、やはり永禄2年に十三代将軍・足利義輝に謁見すべく上洛したことと「セット」になった築城(まさに「尾張統一の総仕上げ」)という感がして来ますし、その後に、肝心の義輝が横死してしまうと、信長の心には “これでもダメだ” という一種の切迫感が生じていたのではなかったでしょうか。
 
 
ですから、岐阜城の完成後にそこを訪れた宣教師らや山科言継、今井宗久といった面々に対して、信長が自ら破格のもてなしをしてみせたのは、彼らが信長にとっての大切なVIPだからこそで、彼らを通じた政治的アピール(→その先にある信長の真のねらい)にひたすら懸命であったのだと思うのです。

先頃もまた新たな発掘成果が報告された庭園は、今やその全体像の「意味づけ」がこの上もなく重要になって来ているようでして、私なんぞには、それこそ <この信長が足利義政公に取って代わる決意> <足利将軍を上に仰ぎ見ていた過去の自分、そして旧体制との決別宣言をも心に秘めた行為> であったと感じられてなりません。

つまり信長にとって、岐阜への移転というのは、他の戦国期拠点城郭の大名らとの「横並び」状態を脱して、いちはやく足利将軍と肩を並べる(…いずれは凌駕してみせる)という意図を表明するための行動だったのではないでしょうか。
 
 
先日はちょうど東京・赤坂の迎賓館が一般公開されましたが、これに例えて申せば、信長がやった行為というのは、東京以外の某有力都市が、本家を上回るほどの「新・迎賓館」を大々的に建設・公開し、そこに海外の注目のVIPらを国賓(こくひん)として! ! 招待して、一気に国内外からの注目を集めてしまおうとする行為(=政治的策謀)とでも言うべきものとさえ思われます。

ところが――

(岐阜市の「日本遺産【「信長公のおもてなし」が息づく戦国城下町・岐阜】ストーリー」より)

(信長が)急峻な岐阜城やその城下で行ったのは戦いではなく、意外にも手厚いおもてなしであった。信長は軍事の力で征服するだけでなく、文化の力で公家、商人、有力大名等の有力者をもてなすことで、仲間を増やしていったのである。
 
 
! ! ! … 確かに現在の状況は長年の発掘調査のたまものではありましょうが、その反面、山麓御殿と庭園を「迎賓館」になぞらえた専門家の解説が、どんどん一人歩きしているようです。

いま話題のインバウンドの観光促進 等々の目下の急務があるとは言え、岐阜城の山麓御殿や庭園をまるで「おもてなしの楽園」とだけとらえて、国内外に紹介(翻訳)して行くのは、それこそ織田信長という人物像や「天下布武」の真意、そして岐阜城という日本史上に特筆すべき城を、あらぬ方向へ大きく誤解させてしまうのではないかと、将来への心配がチラつくのは私の頭の中だけでしょうか。
 

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