日: 2016年5月25日

話題の「旧二条城」と岐阜城と小牧山城の“合体形”として安土城は出来上がった?



話題の「旧二条城」と 岐阜城と 小牧山城の “合体形” として 安土城は出来上がった?

前回の地図に、古代文化調査会の「旧二条城」の推定位置をダブらせると…

前回記事のアップとちょうど前後して、京都で様々な発掘調査を行なってきた民間団体の古代文化調査会(家崎孝治代表)が、発掘した土塁の堀跡は「旧二条城」の内堀と外堀の間に急造された “第三の堀” と考えられる、という発表を行なってニュースになりました。

その “第三の堀” というのは、ご覧の図のとおり、前回記事の高橋康夫先生が想定した「旧二条城」よりも、いくぶん西側に広い範囲を城域として、その中に、あとから掘られた土塁の堀だということで、それは足利義昭が、対立の度を深めた織田信長の攻撃に備えて急造したものであろう、との解釈を調査会の方ではしているようです。

そもそも、これまでにも高橋先生のような想定のほかに、文献の記述等から、各専門家によって「旧二条城」は色々な想定の仕方があったわけですが、まず決定的だったのは昭和50年の地下鉄工事で発見された石垣の堀跡であり…

それらに基づいて「旧二条城」は内堀と外堀、二重の堀で守られた城であった、との見方がなされて来たものの、今回の“第三の堀”という考え方が出て来たのは、その地下鉄工事の調査の際に、もう一つ、南内堀のすぐ南側の(地下鉄ルート上の)地点を東西に走る土塁の堀跡も見つかっていた、という話などを踏まえてのことでしょう。

ですから図のように、それが今回の土塁の堀跡と結び付くなら、ぐるりと城の全周をめぐる“第三の堀”の可能性が生じるのでしょうが、発見当時はもっぱら、足利義昭の前の(前回ブログ記事でも申し上げた)義輝時代の二条御所(武衛陣の御構え)の堀跡であろう、と言われたものです。

その他の発掘成果も含めて解釈が揺れ動いている昨今ですが、今回の土塁の堀跡を“第三の堀”と解釈して(使って)しまいますと、ならば義輝時代の二条御所はどう考えるのか?という、言わばイタチゴッコのような真相究明の作業がこの先に待っているのかもしれません。…
 
 
 
<ではその後、「旧二条城天主」はいったい何処へ行ったのか??
 という問題にこだわってみると……>

 
 

平安女学院大学の角にある「旧二條城跡」の石碑と説明文

さて、ご覧の説明文はちょっと小さな字になって恐縮ですが、この文中に <その後、織田信長は旧二条城から足利義昭を追放し、東宮誠仁親王を迎え入れ、城は「二条御所」として使われていたが、室町幕府の滅亡に伴い廃城となった。天正4年(1576年)に旧二条城は解体され、安土城築城に際し建築資材として再利用された> とあるのが、思わず目を引きます。

と申しますのは、後半の <天正4年…に旧二条城は解体され、安土城築城に際し建築資材として再利用された> という部分は、『言継卿記』の天正4年9月24日の条にあるそうした記述に基づいたもので、それについて高橋康夫先生は「残っていた西之御楯、すなわち天主をはじめ、南の門、東の門などがあいついで解体され、安土城の建設が始まっていた安土へ引かれた」と説明しておられます。
 
 
しかしその一方で、前半の <その後、織田信長は…東宮誠仁親王を迎え入れ、城は「二条御所」として使われていた> という部分はどうなのでしょう。! !…

もしそうだとすれば、問題の「天主」は約3年間、次期天皇への即位は間違いなしと目された誠仁(さねひと)親王が、使っていたか、もしくは居住していた!!?天主(立体的御殿)だという可能性が出て来て、これは天守の歴史を語るうえでコペルニクス的な大事件になります。

よもや、よもや、と思いつつ、この件を確認しようとしますと、思いのほか、この件について明確に説明した本は少なく、かろうじて金子拓先生が(前々々回記事の「五畿内説」を強く主張されている先生ですが)最近作『織田信長権力論』に掲載の略年譜やその解説文で、誠仁親王は弘治3年に「御方御所」に入居して以降は、天正7年に信長から「二条御新造」を献上されるまで、その他の御所に移ったことを示すような文献は見当たらない、としています。

ということは、綿密な史料批判で知られる金子先生ですから、この略年譜に間違いは無いとしますと、どういうことになるかと言えば、「旧二条城」は信長に攻められ炎上もした後は、おそらく御殿などが破却されて、誠仁親王はもちろん誰もそこを御所として使えた状態ではなく、その後の安土築城や「二条御新造」造営が始まるまでの約3年間は、天主や門、庭だけが寂しく残り、石垣の石が人々に略奪されるままに放置…もしくはある種の維持がなされていた、ということなのでしょう。
 
 
一説には信長自身が使った、との話もあるようですが、その年以降も毎年、信長は京の都では妙覚寺や知恩院、相国寺などに「寄宿」した記録がちゃんとありますから、とても「旧二条城」を修繕して使ったようには思えません。

となると、これもまた「3年間も放置された信長の天主があった」!!というコペルニクス的な事件になりそうで、いったいぜんたい「旧二条城天主」はどうなってしまったのか? という疑問が大きくふくらんで来るのです。
 
 
そこで、信長の意図をつかむため、ためしに永禄11年の上洛以降、信長は京の都でどこを「宿所」にしていたのか、非常にざっくりとした年譜にまとめてみますと、それだけで、ちょっと異様な感のある傾向が(信長の本意か、結果論なのか分かりませんが)透けて見えるようです。


という風に、結局、織田信長が「本能寺で死んだ」ということは、ほぼすべての日本人が知っているような事柄ですが、では何故、信長は天下人とされた晩年に至っても、京の都ではほぼ一貫して寺院に「寄宿」し続け、そこで落命する、などという結末を(あえて)迎えてしまったのか? という疑問が当然のごとくあるわけで、そこを信長本人はどういうつもりでいたのか、という動機や原因については、まだ良く解明されていないのではないでしょうか。…

信長が洛中に強固な「城」を築かなかったことは、義昭や朝廷からもそれを心配する声が出たと『信長公記』にありますし、これは「城郭論」のテーマとしても、かなり重要な問題を含んでいると思われ、例えば、西ヶ谷恭弘先生がかつて指摘された「吉田山築城計画」(『城郭史研究』19号)などが頓挫(とんざ)していなければ、本能寺の変は起きたかどうかも分からない感があります。
 
 
ちなみに上記の年譜に登場する寺は、位置も宗派もバラバラであり、あえて共通点を探すと、最初の清水寺をのぞけば、下京・上京の町組からほんの一歩外れた位置にあった寺を、好んで選んだかのように見えます。

で、そうした寺に「寄宿」しながら、足利義昭との暗闘を続け、浅井・朝倉や石山本願寺など各方面の敵と戦い続けた信長は、その間に造営した「二条御新造」をわずかな日数を使っただけで誠仁親王に献上し、再び寺院での「寄宿」に戻っていたわけです。
 
 
この「慎ましやかさ」と言うのか、何なのか分からない信長の習癖(ある種の信条か政策か)は、いったい何に起因したものだったのでしょう。??

余談ながら、ひょっとすると、明智光秀はそういった信長の習癖が「弱点」になりうることに早くから気づいていて、虎視眈々(こしたんたん)と “チャンス” を待っていたようにさえ思えてしまうのです。

以前のブログ記事でお見せした「織田信長の天守」
天正10年「本能寺の変」の時点で、可能性のある天守を積極的に挙げてみたもの

(※「内陸部」「海寄り」「海辺・湖畔」の定義は2011年度リポートと同様)

さて、それではここで、前述の旧二条城天主の「3年間も放置された信長の天主があった」コペルニクス的な事件を改めて考えますと、ご覧の図はやや時期が違うものの、旧二条城が陥落した天正元年の時点では、もうすでに信長の天主は、畿内を中心にある程度の数があげられていた可能性があるのでしょう。

当サイトは「天守は天下布武の革命記念碑(維新碑)説」という仮説を申し上げておりますが、その立場から、洛中に「3年間も放置された信長の天主があった」原因を想像しますと、それは、いったん京の都に掲げた「記念碑」や「旗印」を、そう簡単に降ろすわけにはいかなかったからだ――― という風に想像できるのですが、どうでしょうか。
 
 
そうした考え方が許されるのなら、解体されて安土へ運ばれた「旧二条城天主」は、まず間違いなく「安土城天主」の建造に使われたに違いない、と申し上げることも出来そうですし、したがって「旧二条城天主」という存在には、もっと注意を向けるべきだったのかもしれません。

そしてその先をさらに申すなら、安土城じたいの成り立ちについても、例えば、おなじみの小牧山城(=南側に大手道のある城)と岐阜城(=西向きの山城)と、話題の旧二条城(=大型の天主がある、行幸を前提にした城)という三つの城が合わさって、言わば三位一体の “合体形” として、安土城は構想されたのでは… といった勝手気ままな夢想も出来るのかもしれません。
 

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