日: 2016年8月2日

最上階にやはり白鷺の絵 → 問題の層塔型「御三階」の構造を推理する



最上階にやはり白鷺(しらさぎ)の絵
→ 問題の層塔型「御三階」の構造を推理する

中国語で白鷺と言えばコサギ( Little Egret)夏に後頭部の冠羽(かんむりばね)が立つのが特徴

(※ご覧の写真はウィキペディアより引用)
九羽の白鷺を描いた「九思図(きゅうしず)」の描き方の一例(趙仲穆画/元時代)

ご承知のとおり、伝統的な中国絵画や日本画における「白鷺」の描き方というのは、後頭部の冠羽や胸の飾り羽を描くことが一つの定型になっていたようで、これらが描かれた鳥の絵は「白鷺」であるという約束事があったそうです。

で、このところ申し上げて来た『御所参内・聚楽第行幸図屏風』の聚楽第天守は、建物の構造が他の絵画史料とはかけ離れた形(層塔型)であるうえに、最上階の様子がこれまた特徴的であり、一見すると、どういう構造の階なのか、分かりにくい描き方にもなっています。

このように最上階の長押と敷居の間はずうっと、四隅の柱を残して、全面にわたって水辺の白い鳥や水草の絵になっておりまして、これは果たして、壁に描いた絵なのか、板戸や雨戸に分割して描いた絵なのか、はたまた陣幕の類いなのか、よく分からない状態です。

        
        

ですが、ご覧のごとく、描かれた鳥は明らかに「白鷺」であると申し上げていいのでしょうし、そうなりますと、当サイトで度々申し上げたように、かの『大坂夏の陣図屏風』の天守最上階に描かれた鳥もまた「白鷺」であったことと、ぴったりと符合することになります。! !

『大坂夏の陣図屏風』の場合、それは東西南北の壁に合計九羽の白鷺を掲げて、全体で「九思図」を表現したのでは?…などと申し上げて来ましたが、九思図とは、『論語』の「孔子曰,君子有九思」(孔子曰わく、君子に九思あり)という、君子が持つべき九つの心得を画題としたものです。

となれば、聚楽第の天守(御三階)にも、そうした『論語』の絵!!? が最上階にあったのかもしれないという、豊臣秀吉にはちょっと似つかわしくない(失礼…)可能性が生じるわけで、これが本当ならば、いつ、どんな風にして始まったことなのか?(=誰の発想だったのか?)という興味がわいて来ます。

左:『大坂夏の陣図屏風』より / 右:『御所参内・聚楽第行幸図屏風』より

そこでまずは、不思議な最上階の描き方の “実像” から推理してみたいのですが、例えば『御所参内・聚楽第行幸図屏風』を検証した狩野博幸先生(日本近世美術史)は、著書において白鷺の絵は「おそらくは行幸の期間だけのしつらえ」と推測されたものの、建築的にどういう構造で、そのどの部分に(臨時に)絵がほどこされたのか、といった具体像までは言及しておられません。

言及しづらいのは当然のことでしょうし、それはこんな構造が実在したかどうかも分からない状態(→絵画上の表現だけの可能性)を踏まえての推測だと思うのですが、それに対して、私なんぞがあえて例示してみたいのは、岡山城の月見櫓なのです。

岡山城の月見櫓(元和~寛永期の築造 / 重要文化財)

最上階をよく見れば、どこかアンバランスな印象で…

ご覧の月見櫓は、写真の城内側から見た場合と、真反対の城外側から見た様子がまるで違うことでも知られていますが、最上階も同様であり、城内側の南と東の二面だけ、張り出した縁がめぐっていて、その縁の際に高欄(手すり)や雨戸が入る形になっています。

そのため上記写真のようにややアンバランスな格好に見えますし、雨戸をザアッと開くことが出来るため、右端(南東隅)の柱が一本だけ立って見える形にもなり、これが問題の層塔型「御三階」の不思議な描き方を推理するヒントになるのではないでしょうか。

岡山城の月見櫓の場合は、張り出した縁の奥に明かり障子が入っていて、内部は畳敷きの座敷になっておりますが、その周囲にもしも襖や板戸があって、そこに「白鷺の絵」が全面に描かれていたならば、まさにご覧の “不思議な描き方” が現実に出来上がるようにも思えるのです。

かくして、最上階の城内側だけが開放的になっていた、という解釈であれば、屏風絵にかなり近い形になることでしょうし、また屏風絵の詳細に従えば、そのまわりにさらに落ち縁のごとく高欄廻縁が付けられていたのかもしれません。

【ご参考】西本願寺・飛雲閣の二階「歌仙の間」

そして絵の位置についても、場合によっては “座敷の内側” という考え方も出来なくはないように思われ、実際は屏風絵のとおりに見えたのではなく、絵師が「白鷺の絵」の情報をもとに勝手に画面を構成(合成)した描写だ、という可能性もありうるのではないでしょうか。

ですから、長押と敷居の間いっぱいに描かれた「白鷺の絵」は、単なる絵空事でもないように感じますし、奇しくも、岡山城の月見櫓も、聚楽第天守(御三階)も、本丸の「北西隅」を守備する役目を負ったうえで、最上階が遊興の場として使える構造になっていたのかもしれません。

地中探査で判明した聚楽第の天守台跡

ちなみに、岡山城の月見櫓の地階や一階の壁は「武骨一辺倒」であり…

そこは問題の層塔型「御三階」の二階や望楼下の階も似たような造りで描かれる

 
 
<では、いったい誰が『論語』にまつわる絵を豊臣家の天守に導入したのか??>
 
 
 
さて、皆様すでにご承知のとおり、「殺生関白」豊臣秀次は、文化的な面において意外に多くの業績を残していて、例えば小和田哲男先生の著書には、足利学校の存続をめぐる秀次の功績について触れた部分があり、そこに思わぬ一文があるため、その前後の文章を、やや長文になりますが引用させていただきます。
 
 
(小和田哲男『豊臣秀次 「殺生関白」の悲劇』より)

下野国のほとんどが戦国時代末期には後北条氏領に組みこまれたということもあり、足利学校も後北条氏の保護をうけていた。
ところが、天正十八年(一五九〇)の秀吉による小田原攻めで、後北条氏が滅亡し、保護者を失った足利学校もピンチを迎えていたのである。
そのような状況のところへ秀次が足利学校に立ち寄ったというわけである。
秀次が、翌天正十九年(一五九一)六月、九戸政実の乱を鎮定して凱旋する途中、足利に立ち寄り、足利学校を訪れ、庠主(しょうしゅ/校長)の三要、すなわち閑室元佶(かんしつ げんきつ)と会い、窮状を聞かされ、援助の手をさしのべることになったのであろう。

(中略)
足利学校に立ち寄った秀次は、学領として一〇〇石を寄進し、学校の存続を経済的に保証したあと、庠主の三要を伴って帰洛しているが、そのとき、孔子の画像や、さきにみた六経のうち『楽経』を除く五経などの典籍の一部を京都に運ばせているのである。
 
 
―――この 孔子の画像!! というのがどんな画像だったのか、いわゆる孔子行教像の類いなのか、これ以上、私にはよく分かりませんが、そうした絵に秀次が関心を抱いていたことに間違いは無さそうです。

ネット上で見つかる孔子行教像の一例『明代孔子行教像』(中国・曲阜市蔵)

この秀次の行動だけで何かが証明できるわけではありませんが、一つの可能性として、豊臣家の天守に『論語』の絵が導入された経緯を想像するヒントにはなるのではないでしょうか。

と申しますのも、冒頭の「九思図」の九つの心得とは、

「孔子が言われた。君子には九つの思うことがある。見るときははっきり見たいと思い、聞くときは細かく聞き取りたいと思い、顔つきは穏やかでありたいと思い、姿は恭しくありたいと思い、言葉は誠実でありたいと思い、仕事は慎重でありたいと思い、疑わしいことは問うことを思い、怒りにはあとの面倒を思い、利得を前にしたときは道義を思う」

という、君子はかくあるべし、との孔子の言葉でした。

ですから、豊臣家の天守の最上階に掲げられた「白鷺の絵」というのは、その目的や意図は、自らの実力で天下人の座についた秀吉のあと、後継者になった秀次や豊臣秀頼らが、その地位にふさわしい為政者像を自らに課すための「九思図」だったのではないかと、私なんぞは改めて感じるのですが、どうでしょうか。

左:秀頼が再建した大坂城天守の白鷺? / 右:主に秀次時代の 聚楽第「御三階」の白鷺?

※当サイトはリンクフリーです。
※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。