日: 2016年10月26日

信雄時代の清須城も? 外様の大大名の城はそろって「小天守」のみか



信雄(のぶかつ)時代の清須城も?
外様の大大名の城はそろって「小天守」のみか

天正20年より前に毛利輝元が広島城で創建した天守(=小天守)か?

天正17年に徳川家康が駿府城で創建した「小傳主」か?

当ブログでは、今夏に発表された聚楽第跡地の地中探査の結果から、豊臣秀吉が築いた頃の聚楽第というのは、巨大な天守台が「本丸の北西隅にかなり飛び出た形であった」可能性が浮上したため、そうした構造は望楼型の天守にそぐわないことから、そこにはまだ天守の類いが建っていなかったのではないか?(→天守台だけ)との推測を申し上げました。

で、そのように考えますと、妙なことに、豊臣政権下の “外様の大大名たち” の城も… 例えば上記の広島城や駿府城も、ひょっとすると、当初は聚楽第と同じく本丸北西隅は天守台だけの状態であり、それに代わる「小天守」を別の一隅に建てて、本丸の威厳を保ったように思えることも申し上げました。そこで…

清洲城の模擬天守

『ビッグマンスペシャル 秀吉の城』1994年より

そんな中でさらに申し上げるなら、ご覧の 豊臣政権下の清須城(清洲城)も―――すなわち “もう一人の外様の大大名” として名前を挙げざるをえない織田信雄(おだ のぶかつ)以降の清須城もまた、有名な「清洲越し」の伝承において「小天守を名古屋城に移築した」との記録はあるものの、肝心の(大)天守については何も伝えられていない!(それは何故か)という不思議な一面があります。

そこで従来は、上記イラストのような “天守の” 推定復元が我々の興味をかき立てるばかりでしたが、冒頭の聚楽第の状況が判明した現在は、ここで一度立ち止まって、50年ほど前の名古屋城・西北隅櫓(通称「清洲櫓」)の解体修理で発見された転用材の “意味” を、もう一度、とらえ直してみるのも良いのではないでしょうか。

その場合、50年前の転用材の発見を踏まえた城戸久先生の “視点” が、いまなお大切なキーポイントであると私なんぞには感じられてなりません。

転用材が使われた名古屋城・西北隅櫓(通称「清洲櫓」)

(城戸久「付・清洲城の建築」/『名古屋城と天守建築』所収より)

『聞惟筆乗』によると、
 清須櫓と云ふは御城乾角の櫓をいふ。清須の小天守よし
とあって、古くから清洲城小天守を移築したものと伝えられているが、その構造、材料について見ても、他櫓と相違するところが多くあって、所伝は信じるに足るものである。

(中略)
……名古屋城造営にあたって、清洲城の櫓を移築することはこの城の造営事情から見て、清洲城の伝統と由緒をこれに受けつがせる意図があったに相違ないのである。
移築には少なくとも清洲城の代表的城櫓が選ばれたであろうし、古伝には小天守とも北櫓ともいわれているが、それは天守に相当するか、さもなければそれに代わるところの建築物であったと考えてさしつかえはなかろう。

 
 
古伝の「清須の小天守よし」の真意は、解体修理の結果から、部材の転用という形であったことになりそうですが、それにしても、城戸先生の言う「意図」を重んじるなら、なぜ天守ではなく「小天守」だったのか? という疑問が、これまでずっとつきまとって来たわけです。

ところが今夏、聚楽第の意外な実態(天守台の状態)が判明してみれば、まさにコロンブスの卵であり、そもそも織田信雄らの清須城には “「小天守」しか無かった” というのならば、全くもって「清須の小天守よし」で問題は無かったことになります。

織田信雄像(総見寺蔵/ウィキペディアより)

そしてさらに気になるのは、西北隅櫓の転用材のうち、床の根太は(旧建物の)手すり勾欄の地覆材であり、それらには飾り金具の跡があったという点でして、したがって問題の清須城「小天守」は(小天守なのに…)きらびやかな「金具付きの高欄・廻り縁」のある望楼型の天守建築だということになる点でしょう。

と申しますのは、歴史上の大小連立天守などで、小天守にそれだけの “華麗さ” を施した例は現状では一つも確認できないように思いますので、これだけをとっても、豊臣政権下の織田信雄→豊臣秀次→福島正則らが城主の清須城には、城内唯一の天守建築として「小天守」しか無かったのだ(→本来の天守台上には何も無かった)という可能性が濃厚に感じられるのですが、いかがでしょうか。

清洲城の本丸跡の天守台らしき台上 / 現状は織田信長を祀る小社

江戸時代の「春日井郡清須村古城絵図」をもとに勝手に推定すれば…

 
 
<ならば小早川隆景の三原城など、他の大大名たちの居城はどうなのか?>
 
 

正保城絵図「備後国之内 三原城所絵図」(国立公文書館蔵)より

さて、ご覧の三原城は、毛利元就の三男で豊臣五大老の一人・小早川隆景(所領37万石)の居城でしたが、ここも本丸北端(三角形の北西隅)は巨大な「殿主台」だけの状態で、天守が無かった城として知られています。

が、天守は無くとも本丸御殿は壮大なものだそうで、松岡利郎先生によれば…

「その大広間の規模施設や金一の間の座敷飾りは、広島藩家老級のものにしては格式の高すぎる建物である。したがって、建立年代は小早川隆景の築城当初にさかのぼる可能性が高い。
 ちなみに、豊臣秀吉は天正十五年九州遠征や文禄元年(一五九二)名護屋城往還の途中に三原城へ寄って宿泊しており、その御成りを迎えるために設けたと考えられ、きわだった特色が認められる」
(『毛利の城と戦略』1997年より)

というほどの城であったのに、何故そこに天守が必要なかったのか、(従来の説明では)理由がよく分かっておりません。
 
 
かくして、豊臣政権下の “外様の大大名たち” の城は、意外にも、天守らしい天守の無い城がいくつもあり、冒頭の徳川家康の天正期の駿府城や江戸城(255万石)、伊達政宗の岩出山城(58万石)、島津義久の富隈城(56万石)、佐竹義宣の水戸城(54万石)、最上義光の山形城(24万石)など、どれも豊臣期の大大名の居城としてはかなり控えめな景観でした。
 
 
―――そもそも「天守」とは、おそらくは、貴種の生まれでない天下人(→氏素性の怪しい天下人、すなわち織田信長・豊臣秀吉・徳川家康ら…)のために考案された政治的モニュメントであろう、というのが当サイトの一貫した考え方でして、その意味では、島津氏などは領国統治のために「天守」など必要なかったのだと言えましょうが、問題は、下克上で急成長した(もしくは豊臣政権下で移封された)大名たちです。

ですから、徳川家康や伊達政宗らは移封先で、本来ならば “天守の力” も借りて豊臣政権下の領国経営を行ないたかったはずだと思うのですが、彼らは外様の諸侯に過ぎなかったためか、聚楽第の景観に一つのアイデア(模範!)を得て、天守台には天守の無い、小天守のみの <聚楽第チルドレンの城> というカテゴリーを産み出していたかのようにも見えるのです。…
 

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