日: 2017年4月22日

「布武」には「我が道を歩む」の意味があったなら、死ぬまで「天下布武」印を使い続けたのも納得。


「布武」には「我が道を歩む」の意味があったなら、
 死ぬまで「天下布武」印を使い続けたのも納得。

以前の当ブログ記事でも申し上げたとおり、現存する織田信長の「天下布武」朱印状のうち、いちばん最後のものは、下記の天正10年5月7日付け(奥野高廣著『織田信長文書の研究』より)だそうで、その一ヵ月後にはもう本能寺の変が起きるという時期に、四国攻めに向かう三男・神戸信孝に宛てた書状でした。
 
 
【神戸信孝宛朱印状】
  就今度至四国差下条々、
一、讃岐国之儀、一円其方可申付事、
一、阿波国之儀、一円三好山城守(=康長)可申付事、
一、其外両国之儀、信長至淡州出馬之刻、可申出之事、
右条々、聊無相違相守之、国人等相糺忠否、可立置之輩者立置之、可追却之族者追却之、政道以下堅可申付之、万端対山城守、成君臣・父母之思、可馳走事、可為忠節候、能々可成其意候也、
  天正十年五月七日                (朱印=天下布武印)
     三七郎(=神戸信孝)殿

 
 
という風に、信長は死ぬまぎわまで「天下布武」印を使い続けたわけでして、しかもこれから四国を攻め取ろうというこの書状にまで、神田千里先生や金子拓先生らが近年主張される「天下布武」の意味(→それは五畿内に足利将軍の治世を確立させることであり、足利義昭が将軍に就任した永禄11年に達成されたこと)のままの印判を押したというのは、やっぱり、おかしいだろ…… という素朴(そぼく)な疑問が、私なんぞは、どうにもぬぐえないことを申し上げました。
 
 
そして皆様すでにご承知のとおり、問題の「天下布武」の本当の意味については、もう一つの新説として、ある画期的な【アマチュアの指摘】がネット上をにぎわせております。

――― すなわち「天下布武」とは、『礼記』の皇宮を歩く時のマナー用語「堂上接武,堂下布武」の「堂下布武」をもじったものであり、この「武」には軍事的な意味合いはまるで無く、「歩く」と同義語であるため、その結果、信長がねらった「天下布武」を意訳すれば、<天皇や神仏等の既成の権威に捕らわれず、天意に沿ってわが道を普通に歩く> または <天下を闊歩(かっぽ)する> という意味になる、との驚くべき新説です。
 
 
とりわけこの新説は、二つのサイト(「平成談林」様と「Dagaya Blog」様)がほぼ同時期に言い出したところが面白く、しかも、かつて立花京子先生が「天下布武」を解釈した際の「武を布(し)く」という読み方に対して、そのような読み方は中国の古典には存在せず(!…)、言わば “和製漢語の読み方” なのだと批判している点は、まことに捨て置けない印象があります。
 
 
 
<言われてみれば、だれも「布武」の原典を確認してなかった?… 想定外の落とし穴> 
 
 
 
では、諸先生方の「布武」の読み方を、ザッとふり返りますと…

(神田千里『織田信長』2014年 98頁より)
「布武」とは「武力が行きわたる」と解釈できるから、彼は「天下に武力が行きわたる」という標語を旗印にしたと考えざるを得ない。

(小島道裕『信長とは何か』2006年 38頁より)
もっとも、この時代の「天下」は、日本全国という使い方もあるが、むしろ京都を中心とする中央、畿内の意味であり、フロイスなど宣教師が用いる天下tencaの語も主にそのように用いられている。したがって、この「天下布武」の宣言も、中央を平定するという意味になるが、……

(立花京子『信長と十字架』2004年 37頁より)
まず初めに考えたことは、中国の古典に「天下に武を布き静謐と為す」というような語句があるのではないか、であった。それをどうにかして見つけたいと願い、『論語』などをパラパラとめくってみたが、膨大な漢字の海から、そのような語句が簡単に見つけられるはずがない。
思いあまって、古典に詳しい友人の津田勇氏にこの悩みを話したら、氏はあっさりと「ありますよ」というではないか。そして、私は、津田氏から、孔子があらわした『春秋』の注釈書である『春秋左氏伝』のことを教えていただいた。
『春秋左氏伝』の魯(ろ)の宣公帝の条に、「七徳(しちとく)の武」という語は存在した。

(朝尾直弘「天下人と京都」/『天下人の時代』2003年所収より)
信長は永禄十年(一五六七)ごろから「天下布武」の朱印をもちいていました。天下を武家の力で統一しようという戦略目標であり、スローガンでもあります。
 
 
ご覧のとおり、並みいる諸先生方の中で(かの朝尾直弘先生でさえも)「布武」の読み方について、中国の古典などに用例をあたってみた上で解説をされた先生は、おそらく一人もいらっしゃらなかったのではないか… そして先生方はもっぱら「天下」の意味(地理的な範囲)の方に100%の関心を向けてしまった、という、ちょっと恐ろしい状況が見えて来たのではないでしょうか。

もちろん「天下布武」は、臨済宗妙心寺派の大本山・妙心寺の第一座もつとめた禅僧・沢彦宗恩(たくげん そうおん)が、信長の「我天下をも治めん時は朱印可入候」との願いに応えて「布武天下」という印文の案を示したところ、それを信長が「天下布武」とひっくり返した(『政秀寺古記』)と伝わるものです。

ですから、沢彦の知識が反映されたはずの「布武天下」に対して、「堂下布武」を連想した信長のシャレっ気が加えられて出来たのか、もしくは、ひょっとするとその時、沢彦の側から「堂上接武,堂下布武」の話が冗談まじりに伝えられたのか!??… そんな話を“面白い”と感じた信長の表情が、アリアリと、私の頭の中にふくらんで来て仕方がないのです。

で、かくのごとき新説が飛び出した背景には、パワフルな「検索」機能を使ってネット民が専門家の問題点をあぶりだした、2020東京オリンピックの「エンブレム騒動」を思わせる面もありそうなのです。…
 
 
(サイト「平成談林」様より引用)

自分は仏典と中国古典を徹底して調べようと、そのデータベースをチェックした。すると唖然としたほど意外に、簡単にその語源にたどり着けたのだった。
宋本廣韻:で「武」を調べると色々な例があるが、曲禮曰 堂上接武 と出ている。「天下布武」の語源となった、「堂下布武」は禮記(らいき)上の28にある。

(中略)
念のため、「武を布く」という言葉自体が中国の他の古典には在るのだろうか。結論としては 否である。諸子百家・雑家のどの書にも、全くその意味で使われた言葉は無いのだ。
 
 
(サイト「Dagaya Blog」様より引用)

布武とは「大股に歩く」の意であることが分かる。兵の行軍のように大股で歩くさまから「武」の文字を用いるらしいが意味するところは軍事とは全く無関係である。
さて、これをかの有名な「天下布武」に適用すれば「天下を大股に歩く」、意訳して「天下を闊歩する」と解することができる。

 
 
かくして「天下布武」とは「天意に沿って我が道を歩む」との意味であったのならば、そんな印判を信長が死ぬまぎわまで使い続けたことにも納得できましょうし、そうした姿に私なんぞは思わず(心の中で)拍手を送ってしまうのです。

そして私の最大の驚きは、「天下布武」にもこんな “シャレっ気” が込められていたのか、という点でありまして、思えば、自らの旗印に「永楽通宝」なんかを堂々と掲げた人ですし、自らを「第六天魔王」などと呼び、大事な跡継ぎの子らにも奇妙キテレツな命名をしたことを踏まえますと、自らの印判に“そんなことを”したとしても、何ら不思議ではなかったのかもしれません。

さて、以上のごとく、今回は【アマチュアの指摘】が「天下布武」に新たな光をあてた意義についてお話してみましたが、次回は、話題の【プロの著書】を通して「天下布武」をさぐってみたいと思うのです。

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