日: 2017年8月17日

フロイスの岐阜城訪問記には金箔の「瓦」とはどこにも書いてない


フロイスの岐阜城訪問記には金箔の「瓦」とはどこにも書いてない

前回記事の「脱線」のインパクトがけっこう強かったようで、このまま甲府城や躑躅ヶ崎館の話にもどって良いのか迷うところでありまして、とりあえず今回だけは、出来るだけ簡潔に、前回の補足をさせていただこうかと思います。

すでにご覧のとおり、岐阜城出土の金箔瓦(菊花文や牡丹文の棟飾り瓦)は「(織田)信長段階でない」と千田嘉博先生が誌上で断言されたことから、それならば、千畳敷C地区の大規模拡張そのものも “信長段階でない” 可能性を疑うべきではなかったか―― という疑念を申し上げました。

つまり「金箔飾り瓦」が9~7年前に千畳敷の発掘現場で出土した時から、間を置かずして、それらが信長居館の位置を示す “証拠品” であるとの解釈が一気に進み出したわけですが、そうした解釈に対して申し上げるべきは、例えば <フロイスの岐阜城訪問記には金箔の「瓦」とはどこにも書いてない> という単純な事実でしょう。

これは「無い」ということを理屈では証明できませんので、是非ともお手元のフロイス日本史など、当時の文献を一度ご確認いただくしかありません。

しかもルイス・フロイスは、時系列的にはその後になる安土城の報告文(第一部八四章)では、ちゃんと「塗金した枠がついた瓦(完訳フロイス日本史)」「金縁瓦(柳谷武夫訳)」と書き、別の部分(第二部三一章)でも「前列の瓦にはことごとく金色の取付け頭がある」と書いており、前回の千田先生や加藤理文先生の解説文のとおりに <織田信長の金箔瓦は安土城から始まった> ということを、言外に認めた形になっています。!


(※ご覧の図はPDF「平成27年度 信長公居館跡 発掘調査成果」からの引用です)

ということは、話題の「信長段階でない」金箔飾り瓦が見つかったのは、ご覧のC地区の拡張部分の右側(西側)の池跡など、きわめて限定的な範囲であったわけですから、この拡張そのものが信長段階でなく、例えば嫡男の織田信忠以降による「改修」であった可能性が疑われても良かったのではないでしょうか。

――― となりますと、ならば信長時代の居館はどこにあったか? という大問題がぶり返してしまいますので、これは “言いっぱなし” で済む事柄でもないでしょうから、ここからは当ブログで初めて申し上げる話題によって、自ら「脱線」の尻ぬぐいをさせていただきます。
 
 
 
<フロイスの岐阜城訪問記にある「ゴアのサバヨ」の予想を超えた巨大さ>
 
 
 
ここまでは文献に「書いてないこと」を軸にお話をしましたが、ここからは逆に「書いてあること」に焦点をしぼり込むため、まずはフロイスの岐阜城訪問記の有名なくだりを確認しておきますと…

(『完訳フロイス日本史』第一部八九章より)
宮殿は非常に高いある山の麓にあり、その山頂に彼の主城があります。
驚くべき大きさの加工されない石の壁がそれを取り囲んでいます。
第一の内庭には、劇とか公の祝祭を催すための素晴しい材木でできた劇場ふうの建物があり、その両側には、二本の大きい影を投ずる果樹があります。
広い石段を登りますと、ゴアのサバヨのそれより大きい広間に入りますが、前廊と歩廊がついていて、そこから市(まち)の一部が望まれます。
ここで彼はしばらく私たちとともにおり、次のように言いました。「貴殿に予の邸を見せたいと思うが
……
 
 
という風に、これは信長がフロイスらに「予の邸」=いわゆる信長居館を見せようとした直前の部分ですが、ここでは是非、文中の「劇場ふうの建物」と広い石段を登って入る「ゴアのサバヨのそれより大きい広間」とは何なのか――― ひょっとすると、それは想像以上の <<巨大建築>> なのかもしれない、というお話をしてみたいのです。

何故なら「二本の大きい影を投ずる果樹」「ゴアのサバヨ」という二つの文言がどうにも心に引っかかるからでして、ご承知のとおり「ゴア」というのは、当時のポルトガル領インドの首都であり、ザビエルら宣教師も寄航したマンドヴィ川河口の港湾都市でしたが、「ゴアのサバヨの…」とは、この頃はポルトガルによる占領後ですから、いわゆる印度総督邸のことになります。

その後の18世紀中頃の首都移転のため、いま現存するのは倉庫にいたる「門」だけという「印度総督邸」とは、いったいどれほどの規模の建造物だったのか、ネット上にある旧ゴア(OLD Goa)の市街図から探ってみますと…

旧ゴア市街図(1750年/アントワーヌ・フランソワ・プレヴォの著作より)
その中心部を拡大していくと…

! ! なんとなんと、ゴアの印度総督邸とは、四階建て?の複数の鐘楼や大型の倉庫や礼拝堂を備えた、そうとうに大規模な建築群から成っていたようなのです。

ポルトガル人によるゴア占領後の都市建設は、同じく河口の港湾都市の「リスボン」を手本にしたと言われ、その景観は「東方一の貴婦人」「黄金のゴア」「東方のローマ」などと色々と異名がつくほどの出来栄えで、その中心たる印度総督邸(宮殿)は占領前の要塞を利用しつつ、イスラム建築を模して創建されたそうで、川べりに位置した様子はリスボンのリベイラ宮殿に似ていて、中には王室倉庫や礼拝堂、二つの大きなホールを備えていたと言います。

したがって印度総督邸の大きさについては、間違っても建物の右下の “港の荷役をする象” に惑わされてはいけないわけで、これと同種の旧ゴア市街図でも、印度総督邸は似たような描き方がなされ、旧ゴア市街を代表するランドマークになっています。


(1596年頃/ヤン・ホイフェン・ヴァン・リンスホーテン画)

……… ということは、当方の岐阜城の「ゴアのサバヨのそれより大きい広間」という “称賛” を込めて書かれた建物は、実際のところ、どれほどの<<巨大建築>>だったのか!!?… と考えざるを得ないことになって来まして、(→「ゴアのサバヨ」は当時の国際常識による大きさの表現か?)そんな難題を解くカギは、やはり信長が植えさせた「二本の大きい影を投ずる果樹」ではないかと思うのです。
 
 
 
<我が国の「古典」の常識から言えば、御殿の前の「二本の大きな樹」というと
 京都御所「紫宸殿」の右近橘(うこんのたちばな)と左近桜(さこんのさくら)を、
 昔の日本人であれば、だれもが想起したはずで……>

 
 

 
(もう一度『完訳フロイス日本史』より)
第一の内庭には、劇とか公の祝祭を催すための素晴しい材木でできた劇場ふうの建物があり、その両側には、二本の大きい影を投ずる果樹があります。
広い石段を登りますと、ゴアのサバヨのそれより大きい広間に入りますが、前廊と歩廊がついていて、そこから市(まち)の一部が望まれます。

このフロイスの書き方をもう一度ご覧になって、上記写真との “不思議な一致” をお感じになりませんでしょうか。

今回の話題の中心の「劇とか公の祝祭を催す」「劇場ふうの建物」とは、文字どおりに受け取るなら、信長は何を思ったか「神楽殿」とか「拝殿」の類いを建ててしまったようにも受け取れるものの、全国の神楽殿や拝殿で「両側に」「二本の」「果樹」を植えた例などは、おそらく一例も存在しないでしょう。

(※わずかに、梅と松を植えた北野天満宮の拝殿+本殿が、権現造りによる特殊な事例でしょうか)

ですから「二本の大きい影を投ずる果樹」というのは、非常に変わったスタイルと申しますか、私なんぞにとっては、もう「あの建物」を連想する以外はありえないほどの描写であり、それはきっと、多くの日本人にも同じではなかったか(→信長自身のねらいも全く同じ!?)と思えて来てならないのです。

夏の間は青い「橘(たちばな)」の実は、冬になると赤くなる

現在、紫宸殿(ししんでん)の左右にある樹は、言わずと知れた「右近橘」と「左近桜」ですが、実は「左近桜」は古代においては「梅」であったそうで、もしも信長の選んだ二本の樹が「橘と梅」という古典的なスタイルならば、フロイスらの岐阜城訪問は初夏の頃でしたから、橘にはもう青い実が、梅には黄色みづいた実が無数になっていたに違いありません。!…

… お前は何を言い出すのか? という戸惑いの声が聞えてきそうですが、ご想像のとおり、今回、私が申し上げたいのは、こういう破天荒な措置の可能性も(信長ならば)ありえたのではないか、という超・大胆仮説です。

紫宸殿と言えば、かの足利義満(よしみつ)が「北山第」に造営したという紫宸殿の例もあり、信長もまた義満らにならって「天皇の行幸」を模索するに至った人物なのですから、こんな超・大胆仮説も、必ずしも荒唐無稽(こうとうむけい)とばかり言えないのではないでしょうか。

何よりそれが「ゴアのサバヨ」に対比された大建築だった、という一点だけをとっても、岐阜城の調査は、これまでの発掘調査の範囲より西側の、より城下側の「昔御殿跡(むかしごてんあと)」を含む<総合的な調査>に進むことが、岐阜城の国際的な注目度を高めるためにも、急がれるのではないかと改めて申し上げたいのです。

(※ご覧の図は市教育委員会の「織田信長公居館発掘調査ホームページ」から
  引用した<信長公居館跡地形復元図>に「昔御殿跡」を加筆しました)

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