日: 2017年10月13日

『江戸始図』の「小天守」はどこに消え失せたのか??


『江戸始図』の「小天守」はどこに消え失せたのか??

前回の記事の補足として、ちょっとだけお話させていただきますと、前回に引用した「江戸始図」=『極秘諸国城図』の江戸城図において、ご覧のように本丸西面(蓮池濠/はすいけぼり)の高石垣に「慶長19年」の工事と書き入れましたのは、例えば鈴木理生先生(『幻の江戸百年』)や小松和博先生などなど、江戸城を研究して来られた諸先生方の、ほぼ一致した見解に基づいたものです。

一例を挙げれば、野中和夫編『石垣が語る江戸城』では「慶長十九年(一六一四)江戸城修築助役大名一覧」という表の中で、かの細川越中守忠興が「本丸山ノ手の石垣」、佐土原藩の島津左馬頭忠興も「本丸山ノ手の高石垣」を担当したとありまして、本丸西面の石垣工事について特定の大名の名前が挙がっているのは、この慶長19年の工事だけのようなのです。

そして江戸遺跡研究会編『江戸築城と伊豆石』所収の
後藤宏樹「江戸城跡と石丁場遺跡」の中には、一目で分かり易い図解が…

ご覧のように本丸の西面(図では左側)の石垣は、慶長11年か19年の工事しか該当する時期は考えられないそうで、そういう中で、前述のごとく「本丸山ノ手の石垣」といった特定の記録があるのは「慶長19年だけ」という状況なのです。

――― しかしそうなりますと、逆を申せば、この場所の石垣は、それ以降の江戸時代や近・現代を通じて、大きな改修工事はずっと行なわれて来ていない、ということにもなります。

ならば当然のこと、『江戸始図』で蓮池濠に突き出すほど強調して描かれた「小天守」は、現状の石垣にも何らかの痕跡が無ければ不自然でしょうし、何も無ければ、それこそ「小天守はどこに消え失せたのか?」という矛盾が生じてしまうでしょう。

【現状】蓮池濠の本丸側の高石垣 ~南西側から~

そしてご覧の現地は、一見したところ、蓮池濠に大きく突き出た「小天守台」らしき石垣は見当たりませんので、この点において『江戸始図』の描写にはちょっとしたナゾがあるわけです。

そこで、一つの可能性として、『江戸始図』にある小天守は、慶長19年の石垣工事よりも「前の」状態なのでは?…… つまり、小天守がある『江戸始図』というのは、もう少し前の、慶長11年工事から19年工事までの「8年間だけ」の状態を(少なくとも本丸石垣については)描いたもので、だから現状の石垣には突出した小天守台が無いのだ、といった考え方も出来なくはないのかもしれません。

そしてその場合、ひょっとすると、下記の『慶長十三年江戸図』の方が(※「十三年」という呼称にも関わらず)慶長19年工事より「後の」状態を描いているのかもしれず、したがって『慶長十三年江戸図』と『江戸始図』との時系列的な順番は、逆なのかもしれない、ということです。…

まさにご覧のとおり、石垣の屈曲の様子だけを見れば、こちらの方がまだ(問題の「小天守台」が無いだけに)現状の石垣に近いと言えなくもなさそうです。

ところが、そう考えた場合には、問題の「小天守」は19年工事の時に“積極的に”撤去されたことになってしまい、それは時期的に申しますと、ちょうど「大坂冬の陣」がこれから始まろうという極めて重要な時期に当たります。

いよいよ徳川vs豊臣の歴史的な決着をつけようというタイミングで、せっかく詰ノ丸の西側の守りを固めた「小天守」を、あえて取り壊した、というのは、いかにも楽観的すぎる行動であろうと感じられてなりません。→ 幕府軍全体の士気にも関わりそうです…。

ですから、『慶長十三年江戸図』と『江戸始図』それぞれの位置づけや関係性がはっきりしない現状では、やはり前回記事のとおりに『慶長十三年江戸図』が慶長11年工事から19年工事までの本丸の状態、そして『江戸始図』が19年工事のあとの状態を示した、と考えるのが妥当かと思うのですが、いかがでしょうか。

【ご参考】富士見多聞櫓(御休息所前多聞)がある辺りの蓮池濠の高石垣

さて、それでは「小天守(台)はどこに消え失せたのか?」という問題で多少なりとも話を進めますと、まずは「小天守」の位置がどのあたりなのか、見当をつけてみましょう。

おなじみの画像に、小松和博先生の「寛永17年ごろの本丸と二の丸」図をダブらせると…

このように『江戸始図』の小天守は、現状の富士見多聞櫓がある石垣の張り出し部分の、北側(図では左側)三分の一ほどのスペースに建っていたらしく見えます。

で、そのあたりの石垣をもう一度、よくよく見直しますと……

ちょっと見づらい写真で恐縮ですが、ご覧の石垣には、いくつもの境界面や積み直しの跡がありそうで、色々な経緯が隠れている可能性(→小天守台もそうとうな高さのはず…)が感じられ、これら江戸城の中心部の石垣は、宮内庁の頑強な障壁のせいで、これまで本格的な調査がほとんど行なわれて来ていない、という事情があります。

ですから当時、ご覧の部分はいったん、二段式で石垣が積まれたなかで問題の「小天守(台)」が突出した形に築かれ、そしてその後すぐに、現状のごとく一段の高石垣として積み増しされたようにも想像できそうでありまして、果たして真相はどうなのでしょう。…

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