日: 2017年10月18日

「刻印」優先論との深刻きわまりないバッティング


さらなる『江戸始図』の補足を。「刻印」優先論との深刻きわまりないバッティング

江戸遺跡研究会編『江戸築城と伊豆石』(2015年)所収の
後藤宏樹「江戸城跡と石丁場遺跡」の中には、一目で分かり易い図解が…

「玉突き事故」と申せば問題になりそうですが、前回に引用させていただいた江戸城の石垣工事の時期の図解は、よくよく見ますと、本丸の北部まで、慶長19年どころか、部分的には慶長11年!! の工事で、現在見られる高石垣がすでに出来上がっていたと受け取れる描き方です。

つまり『江戸始図』で話題になった本丸北部の「三重の丸馬出し」は、なんと慶長11年の、徳川家康が慶長度天守台を築き始めた際の工事によってすでに失われ、高石垣に変えられていた、という描き方になっているのです。

→→『江戸始図』『慶長十三年江戸図』はどちらも矛盾(むじゅん)している!?

冒頭の図解に従えば、「慶長度天守」と「三重の丸馬出し」は同時には存在しえない

…… ちょっと驚いてしまうのですが、本丸北部の高石垣というのは、城郭ファンの間では、慶長19年から10年近く先の元和年間に、手狭(てぜま)になった家康時代の本丸を北側に拡張して出来上がるものであり、その際に天守も北側に移動させて「元和度天守」として築き直した工事によるもの、という認識が定着しております。

それは例えば―――

(小松和博『江戸城-その歴史と構造-』1985年より)

元和8年の工事
元和八年二月二十八日に開始された工事は、本丸の徹底的な改造であった。
幕府機構の整備が進み、諸大名の江戸城出仕の制も整うと、『慶長十三年江戸図』にみるような殿舎では、いかにも手ぜまとなってきたためである。
本丸の地積をひろげるため、北部の濠を埋めて北の出曲輪をとり込むとともに、中央部にあった天守を北辺に移す工事を行なった。
このさい梅林坂あたりにあった徳川忠長(家光の弟)の邸もとりこわされている(『御当家紀年録』ほか)。

 
 
という小松先生の解説が、私なんぞはもう骨の髄(ずい)まで染み込んでおりまして、それだけに、冒頭の図解は「何が起きたのか」「書き間違いでは?」とにわかに信じられなかったのですが、その論考を書かれた日比谷図書文化館の学芸員の後藤宏樹先生によれば、それは石垣の「刻印」に基づいた図解であり、大まじめな話だというのです。

(後藤宏樹「江戸城跡と石丁場遺跡」からの引用)

慶長十一年(一六〇六)に構築された石垣のうち現存する石垣は、江戸城本丸を中心としてわずかに残る。すなわち、白鳥濠、富士見櫓台~埋門、乾櫓台、御休息所多聞櫓台(富士見多聞櫓)といった本丸を取り巻く石垣である。
(中略)
1.北桔橋門西側の乾櫓台石垣
乾櫓台石垣の西面角石に「加藤肥後守内」の刻印があり、八から十九までの段数を示すと思われる刻印が角石に刻まれている。
この地点の石垣には数多くの刻印があり、その主体は熊本藩加藤家を示す「◎」であり、または名古屋城などで加藤家を示す「二巴」もみられる。
「さエ門」と「△坂」の人名を示す刻印が認められる。前者は福島正則(羽柴左衛門大夫)と考えられ、後者は不明であるが、同じ組合せの刻印が大手下乗門北側石垣にもみられる。

(中略)
慶長十九年(一六一四)の構築範囲は、史料に本丸山手とあることから、北側台地の乾濠・平川濠に沿った高石垣を指しているのであろう。
 
 
ということで、まずは本丸北部の乾櫓台の石垣に「加藤肥後守内」「さエ門」という刻印があることから、加藤家(清正か忠広)や福島正則の関与が考えられ、これを文献上の記録と突き合わせたうえで、他の場所の刻印の組み合わせとの類似性も加味して、この場所が慶長11年の工事によるものだと判定したそうです。

さらに、前回の記事でも紹介した「本丸山ノ手の高石垣」という記録を(当ブログは富士見多聞櫓の石垣と申しましたが)、後藤先生は本丸北面の平川濠の高石垣などに見立てて、慶長19年の工事であろうと推定したそうで、論考の文意をくみ取れば、少なくとも北桔橋門の西側は慶長11年に、東側は慶長19年には完成していた、と主張されたのです。

とにかく「刻印」には多くの種類があって、石材を切り出した大名家の印だけに限らず、奉行や普請組、丁場の範囲や順番、石の寸法や年代、保管者を示した印まであるそうで、例えば後藤先生が論考に添えた江戸城内の「刻印」を羅列した図表を見ても、私なんぞはまるで判断がつかず、これは「刻印」の専門家にしか分からない領域だと感じました。
 
 
ですから、そういう専門分野からの指摘は、門外漢にはなかなか論点の良し悪しも分からず、YESかNOか(受け入れるか受け入れないか)になってしまうため、当ブログでは話の都合上、こうした考え方をまとめて【「刻印」優先論 】と申し上げて行きたいと思います。

何故なら、石垣中の石に「刻印」があれば、それは本当に最初からそこにあった石だと言い切れるのだろうか… 再利用された石の可能性は無いのか? といった素朴なギモンも頭に浮かび、さも「刻印」だけが水戸黄門の印籠のように扱われるのはどうかと感じるからです。

現にこの点は後藤先生も論考の中で…
 
 
(同じく「江戸城跡と石丁場遺跡」からの引用)

江戸城では、大坂城や名古屋城といった公儀普請で造られた他の城郭のように、普請丁場図がほとんど残されていないため、石垣刻印と大名丁場との関連性を指摘することが難しい。
元和期に完成した江戸城内郭石垣では、同一地点で数名の大名を示す刻印が認められる特徴がある。これは、寛永十三年以前には石材を調達する大名と構築する大名が異なることに起因していると思われ

 
 
という風に「同一地点で数名の大名を示す刻印が」と書いておられ、いろいろな経緯を経た石材(再利用も?)が、工事の中では一緒にどんどん使われていた実態もありそうでして、そうなると「一つの刻印」が必ずしも絶対的な証拠や指標にはならないことになります。
 
 
しかしそれでも安心が出来ないのは、江戸城に関する大著『江戸城 築城と造営の全貌』を書かれた野中和夫先生もまた、「刻印」優先論に立っておられる点ではないでしょうか。

――― 例えば前出の小松和博先生の「元和8年の工事」の解説文と対比させる意味で、野中先生の「元和八年の修築工事」(『石垣が語る江戸城』)の解説文をご覧になれば、まことに対照的な内容になっておりまして、是非ともご一読をいただきたいのです。
 
 
(野中和夫編『石垣が語る江戸城』2007年より)

元和八年の修築工事
この年の修築工事は、主として本丸の殿閣と天守台の改築を目的としたものである。
殿閣の改修は、慶長十一年(一六〇六)以来、一六年ぶりであるが、表方と奥方とを分担し、表方は、老中土井大炊頭利勝を奉行として大工棟梁が中井大和、奥方は、酒井雅楽頭忠世として大工棟梁鈴木近江が各々受持っている。十一月十日には殿閣が竣工したとの記録がある。
天守台は、阿部四郎五郎正之を奉行として九月九日、浅野但馬守長晟・加藤肥後守忠広に命じている。
また、松平伊予守忠昌・安藤右京進重長も石垣の築造に任じられているが、そのうち安藤重長は天守台脇の石垣(小天守)を築いたことは明らかであるが、松平忠昌の担当箇所は判然としない。

ご覧のとおり野中先生の解説には、元和8年の工事で “本丸の敷地が北側へ大きく拡張された” などという話は一切、出て来ないわけでして、そうした本丸北部の土木・石垣工事は、すでに慶長11年(乾櫓台)から19年までに終わっていたという前提です。

こうした「刻印」優先論に立つ先生方の考え方が正しいのならば、話題の『江戸始図』や『慶長十三年江戸図』という二つの城絵図は、「慶長度天守」と「三重の丸馬出し」が一緒に(同時に)描き込まれているのですから、どう見ても【ナゾの城絵図】としか言いようの無い事態になってしまうのです。!!

しかも、その場合、徳川家康と秀忠と幕閣らは、豊臣との最終決戦・大坂の陣を前にして、江戸城本丸は「三重の丸馬出し」よりも「一重の高石垣」の方が良い(=防御的に優れている)との最終判断を下したことになるわけで、城好きにとって見のがせる問題ではありません。
 
 
そこで最後に、やぶれかぶれの措置ですが、百歩ゆずって、以上の「刻印」優先論を踏まえた形での、慶長11年(1606年)から元和8年(1622年)工事までの16年間(=家康の晩年から二代目・秀忠の治世まで)の江戸城本丸の姿を、ためしに当ブログの以前の作図を使ってシミュレーションしてみますと……

本丸御殿はそのままに、北側を高石垣にして、大坂の陣や元和偃武を迎えたことになる

広大な「?」スペースは、16年もの間、どうなっていたと言うのか――

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