日: 2017年11月5日

『モンタヌス日本誌』の挿絵は予想外に写実的

今回は『江戸始図』の補強になるか? 『モンタヌス日本誌』の挿絵は予想外に写実的

有名な『モンタヌス日本誌』挿絵(さしえ)の江戸城 / 三基の巨大な大小天守が建ち並ぶ…

ご覧の挿絵は、ザクセン・アンハルト州立図書館のデジタルコレクションにある『モンタヌス日本誌』の江戸城の絵ですが、このように三基の巨大な大小天守が建ち並んでおりまして、さながら、話題の『江戸始図』や『慶長十三年江戸図』にある慶長度天守と符合するかのような描き方になっています。

ですが一般に、これ以外の『モンタヌス日本誌』の挿絵と言えば、インドか中国か?どこの国のことか?と仰天してしまう図柄(宗教や習俗など)が数多く含まれていて、その「写実性」を語る方はまずいらっしゃいませんが、ただし風景画に限って申せば、いくらか写実的と感じる点もあり、とりわけご覧の「江戸城」の場合、よくよく見ますと、けっこう興味深い描写が多々見つかるのです。

そこで話の手始めに「絵の注釈文」に着目しますと、冒頭の挿絵のとおり左上には英語の注釈文があり、画面下にはオランダ語の注釈文がありまして、英語の方だけでもグーグル翻訳等を使えば理解が可能なのですが、番号10だけがやや意味不明のため、下のオランダ語の方もやってみますと「観客のための開いた黄色い屋根」となりまして、これを反映させた形で、英語の“直訳っぽい”翻訳を並べますと…

この中の「皇帝」というのは、ご承知のごとく1669年(=寛文9年)にオランダ語の原書が出版された『モンタヌス日本誌』は、宣教師の報告書を下敷きにしていたものの、編集者のA・モンタヌスは訪日の経験が無かったため、足利将軍や織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、秀忠、家光らをすべて「エムペロル」と呼んでしまっていて、言わば「天下人」の意味で「エムペロル/皇帝」が使われた点に注意が必要です。

で、この注釈の場合の「皇帝」は誰かと申せば、挿絵の前後の江戸城を紹介した文章を踏まえますと、おそらくは二代将軍の徳川秀忠になるのでしょうが、次にこの直訳っぽい翻訳と、挿絵の中の番号とを、線で結びますと…


(※画面クリックで拡大版もご覧になれます)

いかがでしょう? 江戸城の本丸周辺の縄張りが頭に入っている方は、これをご覧になったただけで アッ…と気づくのではないかと思うのですが、いちばん左側の「彼の教会堂」は紅葉山東照宮(※元和4年建立)であると仮に解釈しますと、ご覧の構図には、ちゃんとした、あるアングル(視点)から眺めた江戸城の景観がベースになっていることが分かります。

すなわち―――

例えば『江戸始図』でそのアングルを示しますと…

この絵図では「平岩主計」=かの毒まんじゅう伝説でも知られる、家康の腹心で犬山藩主の平岩主計頭親吉(ひらいわ かずえのかみ ちかよし/慶長16年没)の屋敷あたりを「視点」にして、そこから北側の江戸城を眺めた場合、まさに、モンタヌスの挿絵と非常によく似た景観が見えたはずでありまして、その際、いちばん手前の「門」は坂下門になるわけです。

しかも、のちに蛤雁木(はまぐりがんぎ)と呼ばれる円弧状の石段や、その対岸の円弧状の土塁・石垣が、モンタヌスの挿絵では“それらしき円弧状の柵”に「変形」されつつ描き込まれていたり、坂下門の奥の広い「(?)スペース」は江戸時代を通じて歴代将軍の廟所が建てられていった場所ですが、このスペースを「利用」して庭や御殿が描かれるなど、何らかの「原画」や城絵図を介しての、変形や合成による作画の可能性が強く感じられるのです。!!

かくして、この挿絵は思いのほか「写実的」であると申し上げたいのですが、写実性をある程度、信用するとなれば、もう一つ、新たなギモンが浮かび上がります。

すなわち…

<挿絵には長局の「彼の後宮」が。 三基の大小天守は、本当に慶長度天守か?>

こうして城の奥の方(=本丸北部)に目をやりますと、そこにはなんと「彼の後宮」として、長局(ながつぼね)の屋根が並んでいる!! ように描かれております。

これはさながら、江戸城最盛期の寛永度以降の本丸御殿を“予言”したかのような描写でありまして、本丸北部に長局はまだ描かれていない(そんな敷地さえ存在しない)『慶長十三年江戸図』や『江戸始図』の内容からは絶対に分かるはずのない事柄です。

――― となりますと、この挿絵の「原画」の景観年代はいつだったのか? もしくは、画家が入手した資料はいつの時代の城絵図だったのか? という問題がここに浮上して来るわけです。

前述のごとく『モンタヌス日本誌』がオランダで出版されたのは1669年(=寛文9年)であり、その初版から挿絵は存在した、とのことですから、「彼の後宮」というのは、指図類の残っていない元和度の本丸御殿(元和8年1622年造営)か、寛永度(寛永14年1637年造営)か、ぎりぎり万治度(万治2年1659年造営)の本丸御殿でしかありえないでしょう。

つまり、長局が並んだ「彼の後宮」は早くても元和8年以降のことであり、その時にはもう天守が「元和度天守」に建て替わるのですから、結局、「彼の後宮」と「慶長度天守」は同時には存在しえない、という矛盾が、今回もまた出てしまいそうなのです。…

(※ただし前回記事の「深刻きわまりないバッティング」で申し上げた【「刻印」優先論 】によって、もしも慶長11年か19年の石垣工事の直後に、本丸北部に「彼の後宮」がすでに建てられていた、などと仮定しますと、話はまるで違って来ますので、今回はそういう「仮定の話」はとりあえず省略します…)

ところが、「三基の大小天守は、本当に慶長度天守なのか」と問い直せば、

挿絵のいちばん右側の「小天守」らしき櫓は、ひょっとすると、これ?……

となると、残り二基の大小天守は、実は(連結式の)「元和度天守」かもしれない。

今回の「アングル」の図を作ってみて初めて気づいたのですが、このように『江戸始図』には、天守曲輪と富士見櫓台との中間あたりに、まるで小天守かと見まがうほど大きな黒い四角(櫓?)があり、これがアングル的には、モンタヌスの挿絵の右側の小天守とぴったり位置が合いそうなのです。

そして一方、当ブログはこれまでに、「元和度天守」は名古屋城と同様の連結式天守(のはずである)と申し上げて来ておりまして、またまた強引な我田引水で恐縮ですが、こういった想定(→上記の櫓が元和以降も残っていた)ならば、前述の景観年代の「矛盾」はきれいに解消するのではないでしょうか。

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