戦国ショットガン!?「石落し」をめぐる空想中の空想



戦国ショットガン!?「石落し」をめぐる空想中の空想

以前から気になっていた事柄として、果たして弓矢は、上に放つとどのくらいの高さまで殺傷能力があるのか? そしてそれは <櫓や天守の高欄の高さと関係があるのか無いのか?> という関心事があって、いつか究明したいと思っていたのですが、今回はその真逆の、下方向の話題(「石落し」)について、前回記事とのつながりでチョットだけ申し上げたく存じます。

前回記事の作図から / 築城図屏風に描かれた「石落し」

実例:金沢城の石落し(出窓の下面に設けられたもの)

ご覧のような「石落し」については、近年、三浦正幸先生が “下向きの鉄砲狭間なのだ” と力説されて、大方のコンセンサスを得つつあります。

(三浦正幸『城のつくり方図典』2005年より)

石落は、本当は鉄砲を下方に向けて撃つ狭間であった。
石落が真上にないところを登ってくる敵兵に対して、石落から斜めに射撃を加える仕掛けで、一つの石落で左右数十mを守備できた。

 
 
…… しかし、しかし、この三浦先生の解説文の文言のままですと、その重大な帰結点として、櫓などの「石落し」は、種子島(たねがしま)への鉄砲伝来の以前には存在しなかった(!?)ということにもなるわけでして、本当にそれでいいのか… と、ちょっと不安になったりもします。

と申しますのは、皆様ご承知のとおり、我が国の鉄砲の始まりは天文12年(1543年)の種子島だという「定説」じたいが、怪しくなって来ているからに他なりません。

例えば、三眼銃(靖国神社蔵/写真は所荘吉『図解古銃事典』より引用)

三眼銃発射の図(『神器譜』所載/写真は上記書より引用)

ご覧の古銃は、14~15世紀に中国で製造された種々雑多な「前装滑腔銃」のうちの一種だそうですが、かの鈴木眞哉(すずき まさや)先生の『鉄砲と日本人』の方では、これと同類の古銃が文正元年(1466年)に京都で使われたことが紹介されています。

そこをやや長文のまま引用させていただきますと…

(鈴木眞哉『鉄砲と日本人―「鉄砲神話」が隠してきたこと』1997年より)

かなり早い時点から手砲の類いなどがわが国に伝来していたことを示唆する材料はいくつかあるし、当時の海外交流の状況などからみても不思議ではない。
文献史料では、文正元年(一四六六)足利将軍を訪れた琉球の官人が退出の際に「鉄放」を放って京の人を驚かせたと、季瓊真蘂(きけいしんずい)という相国寺の坊さんが記している。おそらく礼砲か祝砲の意味で空砲を放ったということだろう。
また太極(たいきょく)という五山派の僧は、応仁の乱の最中の応仁二年(一四六八)に東軍の陣営で「飛砲火槍」を見たと記している。この火槍というのは、手砲の一種ではなかったかと考えられる。
これらの「鉄放」「火槍」については、物的証拠がないということで、これまでは爆竹の類いだろうとか、単なる言葉のアヤにすぎないだろうとか解釈されてきた。
ところがヨーロッパの三銃身手砲、中国でいう三眼銃などに該当する「火矢」四点が沖縄県下に伝世されていることが最近 沖縄県立博物館の當眞嗣一(とうま しいち)氏によって報告された。
これで少なくとも一四六六年に琉球の官人が手砲を携えていてもおかしくないことがほぼ証明された。

このように「火矢」とか「石銃」と呼ばれた手砲(ハンドガン)が、種子島以前の日本でも使われた記録は色々とあるそうで、長年の「定説」が揺らいで来ています。

であるなら当然、城郭の分野においても、そうした動きに呼応する研究があっても良いはずだと思うものの、私のようなマニアの身では到底、太刀打ちできず、何を言っても野犬の遠吠えにしかなりません。

ということで、また遠吠えの一声と知りつつ…
 
 
 
<私なんぞの空想中の空想
 もしも「石落し」が「石火矢(いしびや) 落し」であったなら>

 
 
 
前述の三浦先生の「石落し」解説がもたらす、種子島以前に「石落し」は存在しなかったのか??という問題について、もしも「石落し」が実際には「石火矢 落し」であったのなら、どうなるでしょうか。

つまり「石落し」の穴から落ちて来たのは、拳大の自然石とか熱い油とか糞尿とかのモッサリした物ではなくて、最初から強烈な石弾の撃ち下ろしであり、しかもショットガンのような三眼銃の類が二、三丁まとめて放たれたら! !? という空想に、ずーっと私はとらわれ続けているのです。
 
 
ただその場合、世間でよく言われる「石火矢」という言葉は、私はてっきり種子島以前の古銃を一般的に示す用語だと思っていたところ、どうやら厳密には「石を弾丸とする旧式の大砲」という定義なのだそうです。

そうなると先程申し上げた「火矢」「石銃」と「石火矢」とはやや別物になってしまうわけで、この点、ちょっと具合が悪いのですが、こういうダジャレのような連想が私の頭の中にこびりついて離れません。

もちろん「石落し」の実態は文字どおりではなかったとして、さらに三浦先生がおっしゃる以上に、強力な武装としての「石火矢 落し」であったなら、出現の時期の問題とともに、戦闘の様相(想定)も一変し、いっそう緊迫した状況になっていたのではないでしょうか。

まことに勝手な空想ではありますが、石落しが “戦国ショットガン” のごとく機能していたら、戦国の城攻めは、そこだけは殺伐とした近代戦のようであったのかもしれず、またそのために櫓や天守だけが孤立して最後まで残存する、などという局面もあったのかもしれず、なかなか興味が尽きないのです。…

(※追記 / ご存じの方も多いかと思いますが、三眼銃を試射する動画が ブログ「目からウロコの琉球・沖縄史」様 にあります)
 

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