関ヶ原合戦後の数年間、二条城は囮(おとり)の城だったのでは?

<<突然の辞任表明で、ハッキリと見えた教訓>>
――― 明らかにこの数年間、世界第三位の経済大国に「長期政権」が生まれると、国際的な注目度や発言力が飛躍的にあがった、という現実がありました。
ですから当然、これからの日本も、この「教訓」を第一に、政権や総理大臣を選ぶべきでしょうし、今後は「一強」でもいかにして弊害なく出来るかが、この国の主要なテーマになって来るはずでしょう。

( … 口当たりの良さだけで選んだ 過去の反省材料 … )


→ → では「二階」建て 闇将軍(冊封)体制ですか!?
( … 小数派閥の「石破総理」のあやうさ … )


 
※           ※           ※

で、ここから先の文章が、安倍総理の辞任表明を予期しない段階で用意していた文章でありまして、このまま続けてアップいたします。

さて、前回記事でご覧いただいた「カラフルな江戸城 元和度天守」の色づけ建地割図については、いつものように詳細な「天守画」イラストにもしたいと考えておりますが、それはやや時間のかかる作業ですので、今回は代わりに「見た目の印象と隠された意図」というお話をさせていただきたく、その前置きとして…

【ご参考】
有名な兵馬俑(へいばよう)の兵士像は、全員が「本物」の武器をにぎっていたが…

現代中国の重要な観光資源の一つである兵馬俑ですが、その兵士像の手には剣などの「本物の武器」がにぎらされていたものの、発掘から展示へと至る段階で、それらのほとんどが損傷のひどさで展示に耐えない、との理由から、一部を博物館の陳列ケースに展示しつつも、兵士像からはすべてを取り外してある、ということをご存じでしょうか。

ズラリと並ぶ兵士像が全員「本物」の武器を構えていたら、どういう印象に??

これが私が申し上げたい「見た目の印象と隠された意図」の一つの例でありまして、唐突ですが、かつてジャーナリストのフレデリック V.ウイリアムズが戦前の中国人について「最強のプロパガンダ勢力」と呼んだ素地は、現代にも脈々と受け継がれているようで、ここでも都合のいい “使い分け” がなされているのでしょう。

中国政府は、兵士像が「本物」の武器を持っていた姿を、復元したくない?
(本来の姿は、絶対に、世界の人々に見せたくないのでは…)

ちなみに始皇帝は、いわゆる「戦争経済」をフル回転させることで統一を成し遂げたとも言われますし、そのうえ日本の城郭ファンにとって見逃せない要素として、中国には「屠城」という伝統があるそうです。

文字どおり「城」ごと「屠殺(とさつ)」してしまう行為(=城壁都市の住民の皆殺し!)だそうで、そういうやり方は隣国の我々にはよく分からない(※よく伝わって来ていない)事柄ですので、いずれ当ブログでも一度、詳しく取り上げてみたいと思っているところです。

さてさて、見た目の印象と隠された意図、という意味では、「屠城」とは正反対のような仕掛けが、おなじみのあの城に施されていたのかもしれません。!

と申しますのは、先日に放送があったNHK「絶対行きたくなる!ニッポン不滅の名城」の「二条城」の回を観ておりまして、この際は、以前から私が感じてきた二条城に関する事柄を、申し上げた方がいいのかも? と思い立ちました。

それは、ご覧の大手門を見ても如実に感じることでして…

朝日をあびる二条城の東大手門

 
 
<見た目の印象と隠された意図 ――
 関ヶ原合戦後の数年間、二条城は囮 (おとり) の城だったのでは?>

 
 

二条城の空撮 / 右下に見えるのが東大手門と東南隅櫓


その東南隅櫓の下の外堀 写真左側の南面の堀幅は約18mあるものの、
写真右側に続く東面の(=東大手門の前の)堀幅は 約9m ! ! しかない

このどう見ても不思議な状況は、城郭ファンの誰もが首を傾げてきた “ミステリー” でありまして、はるかに古い足利義輝時代の「武衛陣第」等々ならまだしも、計6万丁の鉄砲が使われたともいう関ヶ原合戦の直後の築城(慶長6年)にしては、あまりにも手薄な防備(※東および北大手門には「枡形」も無い!)が、まるで理解不能だからです。

そこで一般的には、築城を命じた徳川家康が「一日二日も持ちこたえれば周辺から援軍が来る」「万が一この城が敵の手に落ちたら堅城だと取り返すのに手間がかかる」から、狭い掘で良い、と語ったという話が流布していて、これで城郭ファンはしぶしぶ納得せざるをえないのですが、ならば何故、わざわざそんな状態に二条城だけが築かれたのでしょう?…

例えば中井家文書(『史料京都の歴史』9)によりますと、築城開始後の慶長7年ごろの二条城は「新御屋敷」とか「二条御所」などと呼ばれたらしく、家康の単なる京屋敷的な位置づけで工事は始まったようなのです。

――― そこで、ためしに、二条城と同時期に「天下普請」で築かれた城を、同縮尺の図で比較してみることにしましょう。

【同縮尺での比較A】同時期の天下普請で築かれ始めた「加納城」と「二条城」

ご承知のように近世の加納城は、関ヶ原合戦後に岐阜城を廃するかわりに築かれた城であり、慶長7年、周辺五ヶ国の大名による手伝い普請が行なわれ、その時に上記左図にある五つの曲輪(=本丸・大藪曲輪・二之丸・厩曲輪・三之丸)が一気に築造されたと言います。

で、まずは冷静に、左右の「加納城」と「二条城」を見比べていただきたいのですが、一見して言えることは、ひときわ広い水堀で囲んだ本丸が中央にあり、その周囲に二の丸以下があって、それらを「狭い水堀」が囲んでいた、という共通した手法が見て取れるわけでして、ただしご承知のごとく、築城当初の二条城(右図)はまだ本丸など西半分が無い「二の丸だけ」の形でしたから…

【同縮尺での比較A】上記図に「赤丸の枠」もプラス

という風に、築城当初の二条城を囲んでいた「狭い水堀」というのは、加納城の方で申せば、ちょうど赤丸で囲んだ「本丸南東の帯曲輪の水堀」程度の規模でしかなかった!との、厳然たる事実が判明いたします。

これはいったい、どういうこと… と考えますと、前述の「家康の単なる京屋敷的な位置づけ」を踏まえるなら、二条城とは、本格的な築城から「何かがマイナスされた」城であったのかもしれません。

【同縮尺での比較B】さらに同時期の天下普請の城「福井城」と「二条城」

こちらを見比べても、比較Aとほとんど同じ状況が見て取れまして、こうなりますと、例えば次のごとき「解釈」も成り立つのではないでしょうか。
 
 
→ 本来ならば中心部に築くべき本丸を <<<保留する>>> というのが、
  慶長の二条城築城の大方針だったのではないか?
  その結果、二の丸級の「狭い水堀」が東大手門の前(=城の正面)になってしまった

 
 
という風に仮定しますと、比較A・比較Bの答えとしては順当のようですし、そのようにして本丸を <<保留した>> 理由というのは、「家康の単なる京屋敷的な位置づけ」を徹底させた結果なのか? それとも、
征夷大将軍の就任に向けて、予想以上の大規模な御殿を建て込む必要が生じてきて、急拠、最初に計画された本丸を <<保留した>> のか??
いったいどんな理由であったかは分かりませんが、とにもかくにも、二条城には何か、隠された築城の経緯があるように感じられてならないのです。

――― かくして、二条城は、征夷大将軍就任の舞台になったために、晴れやかな印象ばかりが歴史上に強く残ってしまい、築城最初期の本来の姿が、非常に分かりにくくなっているのかも……

今回の記事で「見た目の印象と隠された意図」と申し上げているのは、そんな「疑念」がずっと私の中でくすぶっていたからでして、中でも最大の疑問点は、そういう手薄な防備を、なおも維持し続けたのは何故か? という点であり、その答えとして、

<関ヶ原合戦後の数年間、二条城は囮 (おとり) の城だったのでは?>

という疑念が、頭の中からぬぐえないのです。
 

【引用画像】twitter「攻城団」様より

例えば 例えば、ご覧のtwitter「攻城団」様のような <天下普請の城の配置図> というのは、ふつうは「豊臣大坂城を取り囲む幕府方の城郭ネットワーク」として紹介されるものですが、これを、前述の家康の「一日二日も持ちこたえれば周辺から援軍が来る」を真に受けて見直しますと、実は、囮(おとり)の二条城に攻めかかった豊臣方を、包囲・殲滅(せんめつ)するためのネックワーク、と見てしまうことも出来そうです。

つまり、関ヶ原で討ち損じた豊臣のシンパを、ふたたび決戦の場に引きずり出して決着をつけたい、といった家康の武人としての執念こそが、こんなネットワークを敷いた真の動機だったのかもしれない―― そんな予想外の意図を、二条城の不思議な姿が、我々に指し示しているのではないでしょうか。
 

そして林原美術館蔵の「洛中洛外図屏風」では、二条城に
慶長度天守=大和郡山城天守の移築が完了した段階(慶長11年頃)でも
いまだに城の四隅に「隅櫓は無い」という描き方になっている



ご覧のような二条城の描き方(※移築天守にはある程度の正確さ)は、豊臣秀長の居城だった大和郡山城の天守を そっくりそのままの姿で 二条城に移築した家康の「深意」をさぐるうえでも、新たな参考材料になるのかもしれません。…

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