大注目「小天守台」発見が巻き起こした中村一氏時代か?徳川家康時代か?の論議について

【緊急追記】
 安倍総理の決断後、日本は、このままガンバレれば大成功なのでは。
 今やダイヤモンドプリンセスを除く国内感染者はアメリカよりも少ない


ご覧のは3月7日付ですが、日々の国別の増加ぶりがスピーディにわかる「flourish」(ロンドンのテンプレート制作会社)のデモ最新版を見ていただくと、2月の前半、中国以外では「ダイヤモンドプリンセス」がダントツの世界2位!を占めていた時期があり、ここで世界のマスコミが(日本の厚労省の不手際に)一斉に食いついて来た状況がうかがえます。

ところが最新版のごとく、中国・韓国・イタリア・イランは別格としても、すでにフランス・ドイツ・スペインの方が(ダイヤモンドプリンセスを除く)日本国内より2倍以上も多いようで、こうした状況を、我が国は世界に向けて(嫌味にならないように!)鮮明に!アピールすべき時ではないでしょうか。

例えば「いま日本国内の感染者数の累計は 世界で9番目 です」といったアナウンスを政府=菅さんあたりがしてみるとか。――― それがオリンピック開催を控えた国としての、当然のふるまい、でしょう。現状は世界の認識度をうばいあう「宣伝戦」なのですから。
 
 
大注目「小天守台」発見が巻き起こした 中村一氏時代か? それ以前の
徳川家康時代か?の論議について

さて、当ブログは前回に引き続いて <岐阜城「大発見」追記――もうひとつの候補地と御三階櫓の見え方> という補足記事を予定していたのですが、2月22日に行なわれた駿府城見学会に(思い切って)参加したところ、前々回のパノラマ写真の「誤り」が判明しまして、急拠、その訂正写真を含めた駿府城の話題に変えてお話し申し上げます。

【訂正版】パノラマ写真(※画面クリックで 4250pix に拡大します)

見学会当日は小天守台跡の真ん中を突っ切って見学できる形に。

お伝えしたい「訂正」というのは、ご覧のごとく、天正期の小天守台の「北西隅角の位置」が間違っていたことであり、正しくは、写真の赤いコーン二つが北西隅と南西隅にあたる位置なのだそうです。

で、この当日は、ひょっとすると小天守台が ドドーン!と 掘り出されたのかも… などと想像しながら現地に着いたのですが、ご覧の発掘現場の真ん中に立って見回してみても、小天守台の範囲は、ちょっと分かりにくいものでした。

そこでよくよく見回せば、ドドーンという状態には物理的に掘り出せない(=そもそもそういう形状ではない)石垣群であって、そうなった原因こそが、これまた大変に興味深かったのです。!

どういうことか、略図と写真を組み合わせてご覧いただきますと…

A.小天守台の北面石垣

この北面は天正期の大天守台と比べても遜色(そんしょく)の無い大きさの石が。 ここは内堀?に面していて、周囲からよく見えた場所だからでしょうか…

しかもこの北面石垣は栗石の充填(じゅうてん)にも厚みが。

その一方で…
 

B.小天守台の南西隅にあたる箇所

ここは左側の渡櫓台と連続した石垣面でもあり、大天守台ほどの豪快な隅角部ではないと感じました。

【比較のご参考】同じ天正期の大天守台の方の南西隅角部

 

C.小天守台の南面石垣(西側)

ここには北面ほどの大きな石は無く、やや小ぶりな石で統一された感じです。

【比較】同じ天正期の大天守台の方は、本丸内側(御殿側)の石も大きい!

 
D.小天守台の南面石垣(東側)

上記写真(西側)と同様の状態で、しかも栗石の充填は、先ほどの北面ほどの厚みがありません。ちなみに小天守台石垣の傾斜角度は「60度」だとのこと。

さらに申しますと、例えば広島城などでも、小天守台の石は大天守台よりも若干は小ぶりですが、それにしても現地で見た駿府城「小天守台」の北面とそれ以外との、明らかな石の大きさの差は印象的でした。
 
E.小天守台の南東の隅角 → 画面奥のトレンチ穴で、まるで見えませんでしたが、確認済みだそうです。

 

F.渡櫓台の北面の石垣(写真左下側)→ さらにいっそう小ぶりな石で統一された感じ。

 

G.そして問題の、小天守台の北西隅角
   → 何故か、深さ(高さ)2mほど、隅石がごっそり失われていて、予想外の破壊度の激しさを感じました。



見学会での小天守台の説明は、おなじみのベテラン調査員・マツイさん

マツイさんの説明によりますと、「G」の隅石が高さ2m分も撤去されていたのは、慶長期の、すなわち徳川家康大御所時代の天守台の築造工事との関連で考えてみても、まるで理由が見えて来ないものだそうです。

そしてマツイさん自身の口から「もしかすると破城(城わり)かもしれないが、よく分からない」との感想が聞かれ、私もこの点が非常に印象的で、小天守台の “思わぬ素性” が見えて来るような気もいたしました。

で、思いあまって帰りぎわに女性調査員の方をつかまえて、もう一度「G」の件を聞いてみますと「(明治時代に駐屯地を造成した)34連隊の可能性も…」と言われて、ハタと事の複雑さを思い知ったような次第でした。

――― ということで、パノラマ写真の「誤り」を弁解したいのではありませんが、話題の小天守台とは、四方の角が渡櫓台や本丸石垣と同一面で続いていく形でもあり、なおかつ破城?もあったため、かなり見えにくい状態になっておりまして、そこで誠に勝手ながら、往時の姿を(私の推測もまじえつつ)立体的な略図に書き起こしてみますと…

! 本当に手前勝手な図解で恐縮ですが、石垣の傾斜角度は58度~60度とのことでしたから、仮に堀底からの高さを大天守台は6間、小天守台は5間と想定した場合、それぞれ現地表からの高さは7mと5mとなる形で描きました。(※ちなみにこのケースでは、大天守台の天端は約28m×24m、小天守台の天端は約14m×14mとなります)

しかも今回の発掘成果からは、実は、広島城にも似た大・中・小「連結式」天守台!! の可能性も出てきた状況を反映しつつ、手前側の天守入口については、岡崎城天守と同様の、複数の櫓が連なる形の「複合式」付櫓台としてみました。

【前々回ブログより】徳川家康との関係が深い「複合連結式」だった岡崎城天守


【傾斜58度のご参考】

 
 
<大注目「小天守台」発見が巻き起こした 中村一氏時代か?
 それ以前の 徳川家康時代か?の論議について>

 
 
 
さてさて、ご覧のごとき「小天守台」発見は、天正期の天守台そのものが、誰による築造だったのか? という根本的な見直しの論議を呼んでいます。例えば、静岡新聞NEWS「天守台、誰が築城? 駿府城新発見、見解さまざま」から対峙する(ようでいて歩み寄りもしつつある)考え方を抜粋しますと…

中井均先生「家康が秀吉の家臣だった当時の体制から考えて(家康単独では)できないし、技術的にも無理」

千田嘉博先生「土木工事に精通した家忠の日記に建造の記述があり、家康の石垣と考えるのが妥当」

という風に、いかにも豊臣流の石垣構築や金箔瓦の出土から、豊臣大名・中村一氏による築造と見た中井先生と、新発見の「小天守台」が天正17年『家忠日記』の記述「小傳主」と符合するため、より古い徳川家康時代の築造と見なす千田先生との間で見解が分かれ、目下、妥結点を見い出そうとされているようです。

そこで先ほどの調査員マツイさんも見学会で力説していたのは、天正期の徳川氏の水準にしては、やはり石垣技術が進み過ぎているため、「大小天守台ともに徳川家康時代に豊臣政権の協力のもとで(東国への威圧のために)石垣構築が行なわれたのだろう」という静岡市側の統一的なアナウンスでした。

ではありますが、そのようなアナウンスは、城郭ファンであれば真っ先に連想してしまうのが…

【ご参考】慶長七年江戸図
 徳川家康の次の居城=江戸城の「天下普請」直前まで(=豊臣政権下)の状態

もしもアナウンスのように、当時最先端の石垣技術を徳川氏が駿府で学習していたなら、次の居城・江戸城においても、そうとうな規模で石垣構築がなければオカシイのではないか…(→ その時もふたたび豊臣政権は江戸築城に協力しなかったのか?)という、当然の疑問がわいて来ます。

そうした疑問をもとに申せば、かねてから私が気になっていたのは、この絵図の本丸の北西端の「直角に描かれた部分」でありまして…

ご覧の部分を、ためしに上下(東西)をひっくり返して見れば…

! このように当時の江戸城は「西」の防御が念頭にあり、ひょっとするとここだけに 一点豪華主義の長大な石垣 が築かれていたのではあるまいか、と私なんぞは密かにニランでいたのですが、ただし逆を申せば、広い江戸城において、ここだけしか大規模な石垣構築は出来なかった… 豊臣政権下ではこの程度しか させてもらえなかった、とも言えそうで、「豊臣政権はそんなに甘くない」というのが率直な印象です。

例えば、当ブログは過去に「金箔瓦」をめぐって、近世史の大御所・朝尾直弘先生の「豊臣政権論」に着目して…

小田原攻め直前の、東国大名の領国と支配地(ムラサキ系:集権派/赤系:分権派)


その後、徳川は関東に追いやられた後も、金箔瓦の「集権派」群小大名に囲われ続けた

という風に、豊臣政権の <東国政策> が進む過程では、「集権派」の石田三成・増田長盛や豊臣頼みの群小大名が、「分権派」の大大名(=徳川家康と伊達政宗)を目のカタキにして、包囲していた構図があり、やはり「豊臣政権はそんなに甘くない」というのが実情であったと思えてなりません。

ですから今回の大発見の結論として、天正期の天守台が、たとえ豊臣政権の協力で築かれたのだとしても、それは決して “友好的なムード” の中で行なわれたのではなく、むしろ真逆の、かなり緊迫した空気の中で、自らの居城・駿府城の本丸改造がなされてしまった… という見方をすべきなのではないでしょうか。
 
 
【そこで当ブログの大仮説】

1.豊臣政権はいずれ駿府城を徳川家康から取り上げることを大前提として、石垣構築に協力し、家康自身に対する「威圧」としても見せつけたのではないか。

2.その場合、豊臣配下の石垣職人が築いて見せたのは「大天守台」と「本丸周囲の石垣」だけではなかったか。

3.大天守(台)は「天下人」を意味する場でもあったために、家康主従はやむなく、学習した石垣技術で「小天守台」などを後付けで築いたが、結果的に、そんな特異な経緯から「複合連結式」天守が、言わば家康主従の創意工夫として誕生したのかもしれない。

 

おそらくこの時点では、「聚楽第」にならって大天守台上にはまだ大天守が無かった はずだと私は思っていますので、家康主従が <<小天守だけでも見栄えのする城構え>> をねらった副産物が「複合連結式」だったのではないか、という風に……。
 

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