桐紋ではない?…木幡山伏見城天守を荘厳した「唐花文様」の意図や文様の特定について


( それぞれの苗字は仮のものですが… )

【 質問 】 こんなご家族を、何さん?とお呼びすればいいのでしょう。
 
→ → 話題の「選択的夫婦別姓」はたとえ本人が満足でも、こういうハレーションを社会に起こして行き、言うなれば、気づかずに悪化する「家族」破壊法です。
こうした法律が出来ると、日本社会のあらゆる場面で、家族を一つの苗字で呼ぶことが(家族外の者は確信を持てないため)急速に避けられてしまう!…のではないでしょうか。それこそ、伝統文化の破壊をめざす左翼リベラルの、思うツボです。

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< 桐紋ではない?…
  木幡山伏見城天守を荘厳した「唐花文様」の意図や
  文様の特定について >

 
 

洛中洛外図屏風(個人蔵)より


この天守の壁面を飾ったのは「桐紋」ではない!?…のは何故なのか。

……… ここまでに当ブログでは、豊臣秀吉の指月伏見城や木幡山伏見城が、実は桓武天皇陵との深い関係性を持ちつつ築かれた可能性を申し上げてまいりましたが、そのことと、上記のごとき天守「壁面」の飾り方は、これまた深い関係があったのではないか…と私なんぞはにらんでおります。

で、ご存じのとおり当サイトでは、豊臣大坂城天守の壁面(→両開きの窓?)には五七の桐・十六弁八重菊・三つ巴という三つの紋章がちりばめられていて、それは朝鮮出兵がすでに念頭にあった秀吉の思惑として、古代の三韓征伐の寓意を込めた「軍神=八幡神の神紋」で荘厳された結果なのかも?…との大胆な想定を年度リポートで申し上げました。

全国の八幡神社の総本宮である「宇佐神宮」の三つの神紋

大坂城図屛風によれば、これらとそっくりの紋章を豊臣大坂城天守は全身にまとっていたようですから、これが果たした政治的「暗示」は、例えば朝鮮出兵に従軍した鍋島家の侍・田尻鑑種(たじり あきたね)が『高麗日記』に記した「そのかみ神功皇后、新羅を退治していらいの日本の神力をみよ」という、際立った神国意識のたかぶりにつながったように思えてなりません。

ですから、天守の壁面の紋章というのは、決して意味の無い事はしなかったはず、と考えるべきなのでしょうし、それがもし秀吉最後の天守において、豊臣氏の桐紋(太閤桐)ではなくて、思いもよらぬ「唐花文様」になっていたとしたら、それはそれで、キッチリとその意図や文様の特定に努めるべきだろうと思うのです。

と申しましても、これがなかなかに難しい作業でして……

<<< 唐花文様とは何か >>>
 
【 古代の事例 】 正倉院宝物の「赤地唐花文錦(あかじ からはなもん にしき)」
( 復元品 / 宮内庁正倉院事務所 )

(※ご覧の写真は、丹青社様のアイエム[インターネットミュージアム]からの画像引用です )
 
【 中世の事例 】 その後、唐花文様は公家装束に多用されて来た。毛利博物館蔵「源氏物語絵巻」より

 
京都市の風俗博物館の展示「よみがえる源氏物語の世界」より

 
熊野速玉大社の御神服 / 足利義満奉納。天照大御神に捧げられたもの

(※ご覧の写真は、サイト「日本服飾史」様からの画像引用です )

――― これらを見てのとおり「唐花文様」というのは、特定の柄(がら)を示した言葉ではなく、また特定の花だけをモチーフにした花模様でもないため、言うなれば空想的な植物文様として、自由に、華やかにデザインされて、織物の柄や刺繡(ししゅう)などに使われて来たものです。

我が国での始まりは6世紀の仏教伝来の頃だそうで、当時は忍冬(すいかずら/パルメット)や蓮(はす/ロータス)を中心にした唐花文様が、法隆寺の玉虫厨子の装飾にも使われていて、それがやがて平安時代に、国風文化の隆盛とともに「有職(ゆうそく)文様」として定型化が進み、家柄によって文様を使い分ける風習も生まれたと言います。

したがって「唐花文様」には無限のバリエーションがありえますので、問題の伏見城天守の文様は何なのかを特定するには、ひとえに、見た目で似ているものを挙げながら比較検討してみるしか手がありません。


 
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【 似ている唐花文様の候補1.宝相華(ほうそうげ)文 】

(※ご覧の写真は、龍村美術織物様による正倉院宝物の裂地の復元より)

問題の天守の唐花文様は、柱間の四隅にも文様があることから、例えばご覧のような正倉院宝物の「宝相華(ほうそうげ)文」の裂地が、いちばん似ている文様の候補として挙げられるのではないでしょうか。

宝相華(ほうそうげ)文と申しますのは、牡丹や芙蓉など大輪の花だけを組み合わせた文様であり、平等院鳳凰堂など仏教装飾に数多く使われたもので、ペルシャ的な要素も強いと言われ、一説には、モチーフの花は仏桑華(ぶっそうげ)や扶桑華(ふそうげ)、すなわちハイビスカス!なのだそうで、ちょっと驚きです。

ただ、この宝相華文を自家の紋章として使った事例はほとんど無いようで、その点で申せば、今回の候補からは外れてしまうのかもしれません。


 
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【 似ている唐花文様の候補2.牡丹(ぼたん)唐花文(→近衛牡丹など)】

さて、問題の唐花文様のうち、天守の出窓(張り出し)の脇に描かれた一つを、じっと目を凝らして見ますと、ご覧の「牡丹(ぼたん)唐花文」に似ているようにも見えるため、第二の候補として挙げてみました。

こうした「牡丹紋」を家紋にした公家と言えば、摂関家の近衛家や鷹司家が有名であり、そこから様々な縁で寺社や武家にも広まり、寺社では興福寺、興正寺、大乗院、東本願寺、総持寺、久遠寺、平等院、妙顕寺などが使用し、武家では島津氏、伊達氏、津軽氏、鍋島氏、松平氏などの名家が使って来たそうです。

ですから、この広まりに豊臣政権や秀吉自身が関わっていたのなら、牡丹唐花文は候補の一つとして十分に考えられるのではないでしょうか。


 
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【 似ている唐花文様の候補3.浮線綾(ふせんりょう)文(→浮線菊など)】

(※ご覧の浮線菊は、日本服飾史様の記事において「最も美しいと思う浮線綾のアレンジ」と
書かれた「閑院菊」=江戸時代に創設された閑院宮家の紋章を、仮に、参考にしました)

前回・前々回のブログ記事で申し上げたように、木幡山伏見城天守がまさに桓武天皇陵を見下ろすような位置にあったのだとしたら、天皇家の「十六弁八重菊」が天守壁面に反映されていた可能性も排除できないでしょう。

その点でまことに気になるのは、「皇室が菊紋を用いるきっかけになったのは、菊の花を最澄が桓武天皇に献上したため」! ! との伝説があるそうで、研究者の間では、皇室に菊花紋が定着したのは後鳥羽朝以降のこと(→伝説は時期的に合わない)とされるものの、やはり菊紋も、候補の一つに入れておく価値は大いにありそうです。

ちなみに、上記図「浮線菊」の浮線綾(ふせんりょう)文というのは、唐花を円の中の四方八方に割りつけたような図柄のことで、元々は織り柄の名称だったのが、時代を経るにしたがって様々な花による唐花文様の一種として定着したそうです。「浮線桜」「浮線菊」等々。


 
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桓武天皇像(延暦寺蔵)

………… 以上のごとく見てまいりますと、やはり、唐花文様が何なのか特定できれば、紋章の意図はそれぞれに違った結果になりそうであり、なかなかに難しい案件だと言わざるをえないわけですが、少なくとも、問題の洛中洛外図屛風の描写を信じるならば、木幡山伏見城天守には、豊臣大坂城の<「軍神」八幡神の神紋>とはまるで違った世界が表現されたのでしょう。

で、もしも秀吉最後の天守の紋章が、候補3の「十六弁八重菊の原点に帰ろう」といった意識=すなわち<<天下布武の完結と終焉>> ! !?を意図したものであったとしたら、それはそれで衝撃的な出来事でしょうし、朝鮮出兵の終わりが見えない中で、秀吉個人は、それまでとは相当に違う、別の境地に至っていた証拠でもあろう……と思えて来るのですが、いかがでしょうか。
 

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