日: 2009年2月8日

天守の「四方正面」が完成するとき


天守の「四方正面」が完成するとき

最近、「天守とは何か」という話題をめぐって、各誌のインタビュー記事などで、広島大学の三浦正幸先生が、天守と櫓(やぐら)の決定的な違いは「四方正面であること」という発言を度々されています。(→カラット『自遊人』3月号など)
城郭の建築的な検証において、かつてない規模で体系化をはかる三浦先生らしい指摘だなあと、たいへん興味深く感じました。

ふつつかながら、この私も、そうした天守の「正面」論議に参加させて頂きたく、チョット書きます。
 
 
三浦先生の発言のご趣旨は、

● 櫓は城内側に窓がない(極端に少ない)のに対し、天守は、第一に、篭城戦で司令塔の機能を果たすため四方に「窓」が不可欠で「四方正面」になること

● そして第二に、城下町に囲まれた居城では、大名の格式として、城下のどの方角にも正面を見せるため「四方正面」でなければならない

という重要な定義を含んでいるようです。

この寛永期の江戸城の絵でもお分かりのように、三浦先生のそうした定義は、まるでミツバチに囲まれた女王バチのごとく、城と天守が城下町に取り巻かれ、それらを睥睨(へいげい)していたイメージと、まさに合致するものです。

ただ、私などの率直な感想を申し上げますと、「天守は最初からそうだっただろうか?」という思いもあるのです。

長浜城             犬山城

特に、織田信長から豊臣秀吉までの戦乱の時代、城に “攻守のベクトル” が根深く存在し、城下町は城の片側にしか無く、望楼型天守が一般的だった時代までは、やはり天守には「正面と側面の明確な違い」があったように思われてなりません。

これは犬山城天守の略図ですが、天守の入口は、本丸以下の城内や、その先にある城下町の方角にも、ピタリと合わせて設けられていて、この面が天守の「正面」であったと解釈せざるをえない状況です。

しかもその「正面」は、言うなれば「内正面」と「外正面」とでも表現すべき、ある種の概念(作法)を含んでいたようにも思われるのです。

と申しますのは、織豊期の天守は多くが本丸の一隅に建てられたわけですが、「内正面」は本丸など城内(および城下町)を向いた面であり、傾向として「破風がやや多い」などの特色を持たせて、「味方」「内輪」「家中」「幸い」といったニュアンスを含ませた感があります。

その反対側が「外正面」であり、これはもろに城外に向いたケースも多く、城の「敵方」を意味し、統一戦争を進めた織豊大名の「険しい形相」を示した面とも言えるでしょう。

例えば先の図の犬山城は、尾張と美濃の国境にあった城ですが、「外正面」は木曽川沿いの断崖の上に屹立した面であり、北の美濃に向けられていて、実際にも、木曽川の対岸は敵勢が布陣したことのある場所でした。
 
 
ただ、この「外正面」はもう一つ別の意味も持ち合わせていたようで、「敵方」のほかに「正式」「公儀」「主君」といった意味でも使われ、つまり外正面は「城として正式に対峙すべき方角」を示していたようなのです。

例えば図の長浜城の場合、その「外正面」は琵琶湖を向いていたはずで、そうした姿を城下町の側から見ますと、長浜城天守は、その先に、天下人である「主君」織田信長の居城・安土城を、はるかに指し示していたことになるのです。

長浜城歴史博物館の模擬天守

こうした考え方は、三浦先生の定義のように、「窓」の有無(多寡)という建築の物理的(物質的)な指標では判断できないのですが、とりわけ豊臣秀吉の時代、多くの大名が居城をあえて海沿いに移し、天守が「海辺の突端」に築かれたりした時代があったことを思うと、なおさら強調せざるをえません。

その分かりやすい例が、いわゆる豊臣五大老の一人、小早川隆景(こばやかわたかかげ)の居城・名島城(なじまじょう)と、その後の福岡城の築城をめぐる一件ではないでしょうか。

名島城の推定図

名島城は、福岡県の博多の東5キロほどに城跡があり、ご覧の図は、現地の地形図の高低に合わせて、伝来の城絵図をどうにか重ねてみたものです。
(※見づらくてスミマセン!!)

実はこの話題は、今年末のリポート(2009冬季『そして天守は海を越えた』)でたっぷりご紹介しようと予定している話題の一部分でして、作図がやや準備不足ですが、この際、かいつまんでお話しましょう。

名島城は、城絵図にある石垣の間数を合算しますと、まさに豊臣五大老にふさわしい大規模な居城であったことが分かり、特に、天守曲輪や本丸は玄海灘に突き出すような形で築かれていました。

もちろん城下の侍屋敷は陸側のわずかな土地にしか設けることが出来ず、おそらく天守の内正面は東の本丸等を向き、外正面は西の「海」を向いていたでしょう。

この場合の海は「敵方」であり、豊臣五大老の立場にふさわしく、政権の大政策・朝鮮出兵に呼応して、海の彼方の「明」帝国を仮想敵とする姿勢を示していたものと思われます。

こうした海辺の築城は、全国で数え上げますと、豊臣政権下でかなりの数にのぼったことが分かります。
 
 
しかし歴史の流れは、ご承知のとおり朝鮮出兵の大失敗という破局を迎え、関ヶ原戦を経て徳川氏が幕藩体制を志向すると、鎖国政策のため諸大名は「海」と決別せざるをえず、一斉に居城を内陸部に移し、領内の農政と城下経営で藩を運営する時代が始まりました。

現在、各地にのこる城下町は、すべてこうした江戸時代の立地の名残です。

名島城も例外でなく、入封した黒田長政によって廃城となり、新たに、より内陸部で広い城下町を建設でき、しかも商都・博多に隣接する城として「福岡城」が築かれたのです。
 
 
この段階に至ってようやく、各地の天守は、四方に城下町を取り巻く形が可能になり、領内統治の中心として「四方正面」を完成できたと言えるのではないでしょうか。

その姿は、個々の領内で統治が完結する分権国家(幕藩体制)にふさわしく、そうした推移と、いわゆる「層塔型天守」の普及とが、時期的にリンクしていることも要注意 かもしれません。

結局のところ、天守とは、政治体制の違いによって概念を大きく変えた建造物だったと思わずにはいられないのです。! !

(※なお「天守は篭城時の司令塔」というテーマも興味深く、篭城から落城に至る経緯が文献で比較的詳しく伝わる伏見城や大坂城を例に、回を改めて、ご紹介したいと思います。)
 
 

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