日: 2009年3月6日

破風は重要なシグナルを担った


破風(はふ)は重要なシグナルを担った

前々回までの “天守の正面” 論議においては、天守の「外正面(仮称)」が “敵方” を意味した可能性について、豊臣秀吉の天守群を例に挙げながらお話しました。

で、今回は、もう一方の「内正面」についてですが、以前の記事では「内正面は本丸など城内(および城下町)を向いた面であり、傾向として “破風がやや多い” などの特色を持たせて、味方、内輪、家中、幸い、といったニュアンスを含ませた感があり…」などと申し上げた件に関して、チョットだけ書きます。

写真は “破風の見本市” とも言えそうな彦根城天守ですが、この天守は、ご承知のとおり望楼型から層塔型への過渡期(慶長11年)に築かれたものです。

破風のお話としては、まずは「そもそも破風って何?」「なぜ天守には破風が多い?」という素朴な疑問からお話しなくてはならないと思うのですが、これが実は、かなりの難問でありまして、これまでに指摘されて来なかった類の “秘密” も隠されているようなのです。

と申しますのも、辞典等では、破風とは「2枚の板を山形に組んで構成した屋根の妻の部分」(武井豊治『古建築辞典』)などとだけ説明されていて、元来、三角屋根に付き物の造作であったわけですが、それが何故、天守においては、建築の構造に関わりなく、おびただしい数が設けられるようになったのでしょうか?

その動機や目的については、当時の文献、例えば江戸初期の建築書『愚子見記』等にも特段の説明はありませんで、ただ、作り方の “コツ” が示されるばかりだからです。
 
 
また実際の応用例として、破風内に鉄砲狭間を設け、中から狙撃を出来るようにした例もあったわけですが、そうではない破風が(時期を問わず)多数あったことも事実です。

となりますと、やはり、破風の主たる目的は “飾り” であり、天守は時期を経るごとに盛大に飾り立てられた… と結論づけられかねないのですが、実は、そうとばかりも言えません。
 
 
そう申し上げる理由は、第一に、望楼型天守には「内正面に破風がやや多かった」という傾向があり、そこにある種の「意図」が感じられることです。

そして第二に、いわゆる無破風の層塔型天守の登場を経て、四方にほぼ均等に破風を多用した徳川特有の層塔型天守が登場したとき、建築史上の重要人物、かの小堀遠州が介在する「作意と画期」が、はっきりと見てとれることです。

つまり破風とは、単なる飾りではなく、天守の意図(作意)を示すための重要なアイテム(シグナル)ではなかったのかと思われるからです。

詳細は今後のリポートでご説明する予定ですが、今回はその概略だけお話いたします。
 
 
第一の理由、望楼型天守の「内正面に破風がやや多い」というのは、現存の犬山城天守をはじめ、『大坂冬の陣図屏風』や『肥前名護屋城図屏風』に描かれた秀吉の天守群を見ても、じゅうぶんに想像しうる事柄でしょう。

特に攻守のベクトル(方角)にこだわった秀吉の天守群に、その傾向が見られる、ということは要注意ではないでしょうか。

そして天守が本丸石垣の一隅ではなく、単立式(独立式)などで本丸の中央付近に建ち、層塔型の木造部分が主流になって来ると、破風の数に大きな変化が現れます。

変化の第一弾が、いわゆる無破風の天守であり、第二弾が、四方に破風を多用した徳川特有の層塔型天守だったと言えるでしょう。

そうした変化を経て、天守は「外正面」「内正面」という攻守のベクトルを失い、前々回まで話題の「四方正面」を完成したのではなかったか… と想像できるわけなのです。
 
 
では最後に、そうした劇的な変化の中にあって、なおも望楼型の “作法” を引きずった、と考えられる、面白い層塔型天守の例をひとつ申し上げましょう。

二条城の絵図

京都に残る二条城は、江戸初期、後水尾天皇の行幸に際して改造され、二代目の天守が、新たな本丸の南西隅(図では「御本丸」右上)に建てられました。(※その後、江戸中期に落雷で焼失)

ご覧の図は改造後の様子を伝えた絵図ですが、天守の「破風の数」については、別に二種類の情報が史料上にあって定かでありません。

これについて故・宮上茂隆先生が面白い解釈をされたことがあり、それは、数を多く伝えた史料が天守の「東」面の情報であり、数の少ないのが「西」面ではないか、と考証されたのです。
 
 
(歴史群像 名城シリーズ11『二条城』 文:宮上茂隆/学研 1996)

「初重桁行の破風に関しては資料によって一個あるいは二個と異なるが、外観を重んじる東正面が二個で、西側すなわち城の外部に面する側は実用上、破風を一個だけにして窓を増やしたためと解釈できる。」

ご覧のような天守が完成したとき、すでに徳川特有の層塔型天守は各地にいくつか前例があったにも関わらず、西面に比べて、本丸や二之丸に向いた東面(表紙イラストのこちら側)は「破風の数が多かった」というのです。

そうしたアンバランスが真実ならば、この天守の位置と破風は、徳川幕府の変わらぬ「西国への警戒心」を示したシグナルであった、と言うべきなのかもしれません。…
 

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