日: 2009年7月12日

天空と一体化する安土城天主の上層階


天空と一体化する安土城天主の上層階

前回、安土城天主に「八角円堂」は無く、そのかわりに豊臣秀吉の大坂城天守と同様に、最上階の直下に「十字形八角平面」のあった可能性が高いことを申し上げました。

今回は、その安土城天主の「十字形八角平面」を際立たせた、安土桃山風の豪放なディティールについてお話いたします。

静嘉堂文庫蔵『天守指図』より / 安土城天主の五重目と六重目が一緒に描かれた図

まず上の図は以前の記事でもご覧のものですが、六重目がたった4坪の回廊だったとしても、『信長記』類の記述とは何ら矛盾の無いことは明らかです。
 
 
岡山大学蔵『信長記』
六重め八角四間程有 外柱ハ朱也 内柱ハ皆金也
釈門十代御弟子等 尺尊成道御説法之次第
御縁輪にハ餓鬼共鬼共かゝせられ
御縁輪はた板にハ しやちほこひれうをかゝせられ
高欄擬法珠ほり物あり

 
 
すなわち回廊の壁面に「釈迦十大弟子」や「釈迦説法図」などの仏画が描かれた中を歩いて、七重目に向かって進んだとも想像できるからです。

しかも六重目と「御縁輪」の関係が特筆されたあたりは、上の図もしっかりと合致しています。

そこで改めて同じ図を、下のようにご覧いただきますと、たいへん不思議なことに西側の「のや(屋根裏)」にだけ、6本の柱が描かれています。

静嘉堂文庫蔵『天守指図』安土城天主の五重目 西側にしかない6本の柱

ご覧の赤い輪で囲った柱は、なぜ西側にしか無いのでしょうか?

試しに、これら6本の柱を『天守指図』三重目(四重目とほぼ同じか)にダブらせてみますと、この五重目の屋根裏から新規に建てられた柱である可能性が強く、ということは、柱は上の屋根を突き抜けて、六重目の壁面より外の「何か」を支えていた節があります。

となると、例えばここには、回廊(六重目)と接続した西側だけの大規模な廻縁(まわりえん)が、6本の柱に支持されて、コの字型に張り出していた、とは考えられないでしょうか?

その規模は実に南北9間、東西2間、幅1間に及びます。

これはおそらく、天主(安土山)西側の城下町を見渡すには格好の設備であり、まさに “眺望” のための「十字形八角平面」を際立たせた構造物のようにも思われます。

しかも城下からそうした信長の姿を目撃した場合、神々しいほどの印象を与えた可能性があるのです。

(前記『信長記』部分)

御縁輪はた板にハ しやちほこひれうをかゝせられ
高欄擬法珠ほり物あり

 
 
すなわち、コの字型の縁下の「はた板」(端部の板)には「鯱」や「飛龍」が描かれ、縁は擬宝珠や高欄、彫物で飾られたうえに、6本の柱の構造からは、それらが六重目の屋根にまで達して、軒を支えていた様子も想像できるからです。

富士山本宮浅間大社(静岡県)本殿

そうした安土城天主の廻縁に近いイメージを感じさせるのが、ご覧の建築であり、まるで天空と一体化するかのような構想です。

富士山本宮浅間大社のホームページによりますと、この本殿はなんと徳川家康の造営によるもので、1階が5間四面葺き卸しの宝殿造り、2階が間口3間奥行2間の流れ造りという、他に例の無い構造です。

その構造がいっそう分かりやすい写真は、前記ホームページに掲載されていて、とりわけ屋根上に見える2階の基部が、まるで『信長記』類の「はた板」を連想させる点など、一目瞭然です。

もしこうした類いの基部に「鯱」や「飛龍」が描かれていたら、と思うと、身震いがしそうです。

なお安土城天主の場合、この上にさらに七重目があったわけであり、また廻縁は六重目の南北の張り出し(「小屋之段」)にもそれぞれ接続していた可能性があります。

安土山内/本丸と摠見寺の間の城道

さて最後に、この幻の廻縁に関して、是非とも指摘したい点が、かの「摠見寺」(そうけんじ)との位置関係でしょう。

ご承知のとおり、摠見寺は信長が安土山上に建立し、フロイス『日本史』によりますと、信長の誕生日に合わせた参詣を領民に命じたと伝えられる寺です。

そうした寺の遺構は、本丸の南西200mほどの峰上にあり、したがって寺に詣でた領民は、いやがおうにも安土城天主の豪壮で華麗な西面を、より間近から仰ぎ見る形になっていたのですから。…
 

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