日: 2009年8月17日

ウィンゲの怪??本当に安土城天主なのか…


ウィンゲの怪??本当に安土城天主なのか…

松岡利郎先生の模型の画像化(推定イメージ)

前回ご紹介した “『信長記』類にあくまでも忠実な” 松岡利郎先生の復原模型は、一方で、いわゆる「ウィンゲの木版画」を参考にしている感があります。

ウィンゲの木版画とは、ご承知のとおり、織田信長が宣教師ヴァリニャーノに贈った幻の「安土山図屏風」がヴァチカンに収蔵されると、それを画家ウィンゲがスケッチし、その一部をカルタリが著書の挿絵にするために木版画にしたもの、と伝わっています。

通称「ウィンゲの木版画」(安土城天主の上層部分とされる一枚)

建物の最上階には、華頭窓が二つずつあり、その間の壁面に「戸」は無く、廻縁も無いため、壁面の様子は松岡先生の模型にたいへん良く似ています。

ですがこの木版画は、なんと原書の段階では、絵のキャプション(注釈)が「temple」! ! だったそうなのです。
(※→詳細は内藤昌『復元・安土城』P299注18をご参照下さい!)

そんな中でも、この一枚は、日本の城郭研究者の間で「安土城天主の上層部分を描いた可能性が高い」とされ、松岡先生の模型もそうした考え方を採用したように思われます。

そして実に不思議なことに、この絵は、当ブログの『天守指図』新解釈とも、相通じるような描写を含んでいるようです。

新解釈『天守指図』各重の色分け/六重目に大規模な廻縁

通称「ウィンゲの木版画」/これは渡り廊下?大規模な廻縁?

木版画の色づけした部分を、天主の手前にある「渡り廊下」と推定されたのは、織豊期城郭研究会の代表、加藤理文先生です。

(『よみがえる真説安土城』2006所収/加藤理文「文献にみる安土城の姿」より)

最下部の渡廊下のような表現は、天主と本丸御殿を結ぶ渡廊下、もしくは御殿同士を結ぶ渡廊下が想定される。ヨーロッパにおいて、建物同士を結ぶ廊下の存在が珍しいためか、屏風に多くの渡廊下が描かれていたためかは、判然としない。天主の前面に描くことで、手前にあったことを表現していたと考えたい。
 
 
こうした加藤先生の指摘は、滋賀県による現地の発掘調査等を踏まえたものであり、異論を申し上げるつもりは毛頭ございません。

ただ、木版画の色づけした部分の描写と、かねてから申し上げている新解釈『天守指図』六重目の西側の大規模な廻縁が、あまりにも “似ている” ように思われ、しかも加藤先生の続く一文がたいへんに興味深いのです。

(上記書より)

天主本体と異なる表現方法であるため、渡廊下が瓦屋根でないのは確実で、檜皮葺き(檜の皮で屋根を葺くこと)と理解される。
 
 
この画期的な考え方に立ちますと、我田引水で恐縮ですが、新解釈『天守指図』の六重目(及び大規模な廻縁)の屋根も、ひよっとすると「檜皮葺き」だった(!)という可能性も考えられるのかもしれません。

もしそうだとしますと、後の天守群において、上から二重目の屋根をあえて「板葺き」にした例(※津山城や福山城)が思わず、想起されます。

そして、そのような板葺き屋根の先駆例が安土城天主なのだ、となれば、それらは決して(「五重を四重に見せる」といった)消極的な意図で板葺きにしたものではなく、天守の創始者・織田信長ゆかりの “伝統” を踏まえた意匠だった、ということにもなりかねません。

このようにウィンゲの木版画は、安土城天主の上層部分としますと、言われている以上に “貴重な鑑賞ポイント” が盛り込まれているようなのです。

そして木版画のように、正面に見えるのが天主西面の廻縁ならば、安土城全体も西側から(つまり城下町や琵琶湖の側から)見た姿となり、そうしたイメージは、以前の記事でご紹介したあの「絵」と同じ構図になりそうです。!

シャルヴォア著『日本史』掲載の銅版画「安土城下の図」

この銅板画について、加藤先生は、先の論考に続いて重要な発言をされています。

(『よみがえる真説安土城』2006所収/加藤理文「安土城下の図」より)

琵琶湖と安土山の位置関係、城下町と城の位置関係、中腹に広がる家臣たちの屋敷地など、本来の安土山の景観に近いうえ、空にたなびく霞雲の表現、飛び交う鳥の姿は、織豊期の障壁画の表現方法と酷似し、何らかの手本の存在を感じさせる。その手本こそ、失われた「安土山図屏風」の可能性が高い。
城下町の位置から、この図は百々橋口
(どどばしぐち)から望んだ姿と推定できる。
逆にいえば「安土山図屏風」は百々橋口から望んだ姿で描かれていたことになる。現在は、発掘調査で検出された大手道を正面とする場合が多い。だが、『信長公記』の記載では、百々橋口が正面なのである。この絵は百々橋口正面を裏付ける、貴重な絵でもある。

(※カッコ内は当ブログの補筆)

シャルヴォアの銅版画と幻の「安土山図屏風」の間には絵画的な接点があり、ともに安土城の正面を「西」に見立てて描いている―― ここまで申し上げてきた内容からも、そのような判断を下しても構わないように見えます。

しかし、しかしなのです…

ウィンゲの木版画だけは、西から見た天主の上層部分だとすると、ただ一点、どうにも不合理なものが描かれているのです。

それは、屋根の頂上にダブった「小舟」です。

冷静に考えてみれば当たり前のことですが、シャルヴォアの絵と同じ構図なら、安土山の頂にそびえる天主の背景は、東の空一面でなければならず、そこに「小舟」が浮いていたら、まことに可笑しな空想画か、シャガールの絵のようになってしまいます。

もしあえてそうした “可能性” を探るとするなら、その絵は「南」か「東」の上空から安土山と琵琶湖を急角度に見下ろして、天主と湖面がダブって見えるような、鳥瞰図の類でなければなりません。

しかしそれはもう、シャルヴォアの絵とはまるで異なるアングルですし、その場合、天主の西側の廻縁が正面から見えるはずもありません。

どうやら、事の真相はかなり複雑であって、ウィンゲの木版画じたい「本当に安土城天主なのか?」「ひょっとすると原書の注釈どおり temple なのでは?」といった疑念が生じ始めるのです。
 
 
(※さらに余談を申せば、織田信長が心血を注いだ安土城天主に、絵師は「小舟」をダブらせて描くでしょうか?? そんな絵を見た信長は、即座に絵師を引き据え、自ら手打ちで斬り殺すのではないかと思われてなりません。)
(※現に、古今の絵画上の天守で、市井の風物をダブらせた例は皆無のように思われます。あってもそれは城内の建築等にとどまるのが常です。)

これらが、私自身が「ウィンゲの木版画は本当に安土城天主なのか」という疑念をぬぐいきれない理由です。
 
 
… ひょっとすると、それは天主以外の、安土城下で特筆すべき別の建物ではないのか?

… それは「西」から見た時、背後に、小舟が行き交う水路か舟入りを備えた建物ではなかったのか??

… ならば何故、その建物は、安土城天主に似た要素を備えているのか???

この複雑怪奇な「ウィンゲの怪」をあばく驚愕のアイデアは、また次回のお楽しみにさせていただきます。
 

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