日: 2009年9月13日

続報・異様な「大手門」は廟所の門構えでは?


続報・異様な「大手門」は 廟所の門構え では?

安土城・伝二の丸の上段にある「信長廟」

写真は織田信長の一周忌のために(羽柴)秀吉が建立したものと云われ、一説には、一番上の丸い石がいわゆる「盆山」ではないかともされています。

ここで、本能寺の変から後の、安土城の主な出来事を挙げてみますと…
 
 
天正10年6月  本能寺の変の直後、謎の出火で主郭部が全焼
天正10年同月  山崎の戦いに勝利した秀吉、織田信孝と共に入城
天正10年8月  秀吉、丹羽長秀に城の修復を催促。秋ごろ完成
天正10年12月 織田家の跡目を継いだ三法師(さんぼうし)が入城
天正11年正月  三法師の後見人・織田信雄が城下町に掟を発する
天正11年2月  秀吉、「信長廟」を建立
天正12年12月 秀吉、三法師を坂本城に移し、廃城となる

 
 
このように安土城は、信長亡き後も、なお2年半にわたって織田家当主の居城として使い続けられました。

その間、主郭部は「信長廟」が建立された他は(神聖な領域として)手付かずだったものの、年表の「三法師の御殿」がどこに建てられたかは今も不明で、この時期の造営が城内のどこまで及んだのかも、明らかになっていません。

あえて極論しますと、話題の「大手道」でさえ、次のようにチョット不思議な要素を抱えているのです。

「大手道」は途中から信長廟に向かっている…

巨大な天主が山頂にあった頃(つまり信長の存命中)、登り始めの南側はその天主を目指して登っていた「大手道」が、途中からやや左にそれてしまいます。

しかもその方向がちょうど「信長廟」に向かっていて、さながら廟所の参道のようにして、例えば豊臣秀吉の阿弥陀ケ峰、徳川家康の紅葉山東照宮、伊達政宗の経ケ峰など、各地で神格化された武将らの “廟所の長い石段” にも似た趣を見せてしまうのは、何故なのか…

阿弥陀ケ峰の石段(京都市/明治以後の整備による現状)

まぁいくらなんでも、あの大規模な「大手道」が、本能寺の変のあとの修復箇所であるとは申しませんが、こうした不思議な一面も現にあるのです。!…
 
 
一方、前回申し上げた大手門の「四つの門が一列に並ぶ」発掘成果は、城郭としていかにも異様であり、城を見慣れた感覚からしますと、「ここは城ではありません」というシグナルを、当時の人々にも与えたのではなかったでしょうか。

安土山の南側にはハス池もあり、辺りは静寂な空気に包まれていた?

想像していただきたいのですが、入口が沢山ある、というのは、それだけで “来訪者を迎え入れる” 空気を漂わせますし、やはり何か「城郭」とは別種の構想が無いことには成立しえないものでしょう。

そこで前回、これはひょっとして、本能寺の変の後に整備された「信長廟の門構え」の可能性はないのですか?? と申し上げたわけです。
 
 
最近の発掘調査では、四つの門は城外との境界線にあるのではなく、城の範囲はもっと南側の水堀まであったことが判明しています。

したがって四つの門と石塁は、城内に設けられた “第二の境界線” であって、城の防禦面から見ても、ある時期までこれが存在しなかったか、より簡便な土塁であった可能性は、否定できないように感じるのです。
 
 
そして冒頭の年表のとおり、本能寺の変後の安土城は、すべからく秀吉の影響下にあったことが明らかで、この点から、正対した門が三つ横に並んだ理由も説明できるのかもしれません。

すなわち、これらの門は、本能寺の変で落命した、織田家の人々を示したのではないでしょうか。

… 彼らの犠牲をそういう形で強調することが、仇敵の明智光秀を討った秀吉の立場を不動のものにするうえで、「信長廟」の建立とともに不可欠(→抜群の政治的効果が期待できる!)とされたのではないか、と申し上げたいのです。

写真は石清水八幡宮の楼門、手前に唐破風の屋根庇が突出している

まず中央の大手門は、文句無く、山頂の「信長廟」を意識した、信長自身の廟所の門であったように思われます。!…

発見された礎石から、間口11mの門が “半ば表に突き出る形で” 建っていたようですが、そんな形は城の櫓門ではありえないため、やはり突出した屋根庇のある楼門などを考えざるをえないでしょう。

また老婆心ながら、発掘調査で浮上した大手門の推定位置が「大手道」より少し東にズレているのは、ひょっとすると、「大手門」と「大手道の主要部分」と「山頂の信長廟」とが一直線上になるように“調整”した結果ではないかとも思われ、門をくぐった時にそうした場所に立てる工夫がなされたのかもしれません。
 
 
そして東側の門は、信長の後を追って戦死した嫡子、信忠(のぶただ)の廟所の門とされたように思われます。

ご承知のように信忠は三法師の父親であり、本能寺の変の戦場からあえて離脱しなかった姿勢が、信長とともに祀る対象として欠かせなかったのかもしれません。
 
 
さらに枡形門の脇にある西の門が、信忠とともに二条御所で戦死した一族衆、信長の末弟・長利(ながとし)や信長の五男・勝長(かつなが)を祀る廟所の門とされたのではないでしょうか。
 
 
これが四つの門を「信長廟の門構え」とした想定の概略ですが、重要なことは「内裏の三門に見立てた」という解釈にしても、これらの門の内側には、何もそれらしき関連の遺構は無い、という事実です。

四つの門は互いにすぐ内側の通路でつながっていて、その奥の敷地は、後世の撹乱のためか、もともと完成していなかったのか、何も発見されなかったのです。

その意味において付け加えますと、この「廟所の門構え」説では、廃城までの時間的な制約があったため、例えば “石塁と門が完成した時点で時間切れとなり、そのまま沙汰止みになってしまった” という皮肉なケースも考えうるのです。
 
 
では次回から再び、天主の立面を明らかにしていく話題に戻ります!!

【2013年4月25日補筆】
ここで申し上げた件については、新たなブログ記事で、安土城郭研究所の松下浩先生の注目発言をご紹介していますので、是非こちらもご参照下さい。
 

※ぜひ皆様の応援を。下のバナーに投票(クリック)をお願いします。
にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ
※当サイトはリンクフリーです。
※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。