信長が安土山を「始皇帝の阿房宮」に見立てたのは…
南化玄興作の七言詩「安土山ノ記」
六十扶桑第一山 六十ノ扶桑第一ノ山
老松積翠白雲間 老松翠ヲ積テ白雲間ニアリ
宮高大似阿房殿 宮ノ高キコト阿房殿ヨリモ大ニ似タリ
城険固於函谷関 城ノ険キコト函谷関ヨリモ固シ
… …
これは織田信長の懇望によって妙心寺の僧・南化玄興が詠んだ、という詩の冒頭部分です。
言うなれば安土築城の “公式キャンペーンソング” であったわけで、この詩で安土城はどう表現されたかと申しますと、端的に表しているのが三行目と四行目でしょう。
四行目の「函谷関」はおそらく「惣構どて」を言い表した一語のようにも受け取れますので、となると三行目の「宮ノ高キコト…」は、安土山と頂上の主格部を詠んだ一節ということになるのでしょう。
信長の賛意を得て後世に伝わったはずのこの詩で、安土城主格部が「宮」!と表現され、「阿房殿」(いわゆる阿房宮/あぼうきゅう)に見立てられたことは、単なる修辞句として片付けられない問題を含んでいるのではないでしょうか??
阿房宮 前殿遺址(陝西省)
ご存知のとおり「阿房宮」は、秦の始皇帝が最晩年に造営した宮殿であり、実態がはっきりしないため、先程の詩はややもすると “ありきたりの礼讃歌” と見られて来たのですが、実は、そうとばかりも言い切れないのです。
阿房宮について、例えば中国古典文学で活躍された松浦友久先生は…
(松浦友久・植木久行共著『中国の都城② 長安 洛陽 物語』1987)
始皇帝は、天下平定後、渭南(いなん/黄河の支流・渭水の南岸)の上林苑(じょうりんえん)中に「朝宮」(百官の参内する宮殿)を造営して、政治の中枢部を渭南地区へ移行させるつもりであったらしい。
(中略)
かくて、朝宮の前殿(正殿)を、まず阿房(あぼう)の地に造った。これが、いわゆる阿房宮(阿房前殿)と呼ばれる豪壮な建築であった。
東西五〇〇歩(七五〇メートル)、南北五〇丈(一一七メートル)といわれ、殿上には一万人を座らせることができ、殿下には五丈の旗を立てることができた。
秦の法律は厳しく、処罰された人々が七〇万人もいた。これを二手に分けて、阿房宮と驪山陵(りざんりょう)(始皇帝陵)の造営にあたらせたのである。
(中略)
広さは三百余里、
「離宮別館、山を弥(わた)り谷を跨(また)ぎて、輦道(れんどう)(天子が乗車のまま通行できる高架道)もて相属(あいつら)なる」
という阿房宮の全貌が、もし完成したならば、それにふさわしい佳名(かめい)が選ばれる予定であった。
しかし、造営開始二年後の始皇帝の急死によって、工事はついに未完成に終わった。
(※薄字のカッコ内は当ブログの補筆)
このように(意外にも?)阿房宮は朝宮の前殿(正殿)であって、例えば現在の紫禁城の正殿「太和殿」にあたるような建築であったわけです。
現に、跡地はかなり平坦な場所のようで、伝わる敷地のサイズからも、広大な基段があったことをうかがわせます。
紫禁城「太和殿」(幅約63m)
一方、信長の安土城は、標高約200mの安土山に築かれた山城であり、これは一体、どういうことなのでしょうか?
ここに実は(信長が単に阿房宮の実態を知らなかったから、では済まない)或る問題が潜んでいるようなのです。
例えば先の引用文で、信長が阿房宮をどうイメージしていたか? という点でたいへん気になるのが、「山を弥(わた)り谷を跨(また)ぎて」といった修辞句で描かれた風景です。
実際の上林苑がなだらかな丘陵地帯であるにも関わらず、さも、深い谷や山を越えた先に、阿房宮が建っていたかのように文章化されています。
そうした阿房宮の姿は、中国歴代の絵師によって「絵」にも度々描かれ、それらを参照してみますと、あっ と息を呑む事情が判明するのです。例えば…
袁耀「擬阿房宮図軸」
ご覧のとおり、絵画上の「阿房宮」は、黄河の支流・渭水の南岸で、そそりたつ岩山の上にあるように描かれています。
(※この掛け軸の絵全体はパブリックドメインで公開中。)
しかも当サイトが提起している「十字形八角平面」の建物として描かれているのです。
(※詳しくは『安土城天主に「八角円堂」は無かった!』ご参照。)
この一例として示した絵は、清の時代(乾隆四十五年/江戸中期)のものですが、こうした描法は、ほかの阿房宮や有名な黄鶴楼などを描いた絵もほぼ同様の描き方で、中国に古くからある「楼閣山水図」と呼ばれる山水画のパターンでした。
こうした絵が人気を博した背景には、中国社会での「高楼」のイメージも大きく影響したようです。
と申しますのは、伝説上の帝王「黄帝」が、封禅(ほうぜん)を行って神と通じ、ついに仙人と化して天にのぼったという黄帝伝説や、それにならおうとした漢の武帝が、公孫卿に「仙人は高楼を好む」と進言され、あまたの高楼を建てた話(『史記』)などが、人々の高楼のイメージを形づくって来たからでしょう。
すなわち高楼は、天(神仙)に通じるための建築、とされて来たわけです。
そして阿房宮の実態が早い時期から不明だったためか、「山を弥(わた)り谷を跨(また)ぎて」といった文章から、阿房宮は深山幽谷の楼閣建築として描かれることになり、実際のところ、始皇帝は「封禅」を現実世界で復活させた張本人でもあるため、その宮殿にふさわしい描写とされて来たのかもしれません。
そうした “絵” を、ひょっとすると、我が国の信長も見ていた可能性があった? となれば、それは「天主(天守)」の発祥や高層化、ひいては「十字形八角平面」の導入とも、ダイレクトにつながる問題をはらんでいるのではないでしょうか。
かくして冒頭の「阿房殿」というたった一語に秘められた、信長の発意や願望について、次回も引き続き、お話してみたいと存じます。