日: 2009年12月14日

安土城の天主台に「清水の舞台」が!?


安土城の天主台に「清水の舞台」が!?

3本の階段橋と懸造が天主台上から突き出していた?(当図は上が南)

今から40年前に内藤昌先生が提起した安土城天主の階段橋(引橋)をめぐって、世の流れの紆余曲折ぶりをご紹介しています。

今回もその続きで、上図のような仮説もご用意しているのですが、まず前回からの一連の図に関して、初めに一つ申しますと、天主脇の「行幸殿」についても、近年また紆余曲折の動きが出ています。

それは、この御殿がそもそも清涼殿と同プランではなく(!)「御幸の御間」(行幸殿)でもなかった、という新説が飛び出すほどの状態です。
 
 
その最初の兆候は、滋賀県の発掘調査で活躍された木戸雅寿先生が、現在の「伝本丸」「伝二の丸」「伝三の丸」と天主周辺が、まるごと「本丸」であったはずだとして、次のように記したあたりから始まりました。

木戸説の本丸の範囲(当図は上が南)

(木戸雅寿『よみがえる安土城』2003)

東西南北の四つの門で閉じられた空間である本丸は、城のなかで中枢をなす部分である。
ここには天主を取り巻くように、様々な建物が配置されていた重要な場所で、『信長公記』にみられる「白洲」「殿主」「南殿」「紅雲寺御殿」等の建物はすべてこの範囲に存在すると考えられる。

(中略)
「南殿」を天主から見て南に建つ建物とすると、今いうところの「伝本丸御殿」しかない。
 
 
というように、木戸先生は(「御幸の御間」の詳しい位置は示さずに)伝本丸の御殿を『信長公記』の「南殿」とされたのです。

木戸先生の指摘によれば、「南殿」は「なでん」と読み、その意味は「紫宸殿」らしい、とのこと(『天下統一と城』)でした。

紫宸殿を「南殿」と呼ぶのは、まさに御所の南側正面で “南を向いて建つ” 正殿だからでは… という風にも思えてならないのですが、西向きの伝本丸の御殿を「南殿」として、さらなる新説を提唱されたのが、広島大学大学院の三浦正幸先生でした。

伝本丸「南殿」と天主の復元CG(『よみがえる真説安土城』表紙)

(三浦正幸『よみがえる真説安土城』2006)

安土城に三つあった本丸御殿のなかでも南殿は特殊な御殿であった。まるで路地裏に建っているような、住み心地が悪そうな御殿であったからだ。
南殿の南正面には、狭い通路を挟んで、本丸の南面を守る多門(多聞櫓)が横たわる。しかも、その多門は高さ約1mの石塁上に載っているので、南殿の主殿舎は日当たりも風通しも悪い。見晴らしなぞ問題外である。

(中略)
南殿はそれらの建物や天主の間の窪地にすっぽりと落ち込んだような御殿であった。
そうした立地上の特徴からすると、この南殿は信長の奥御殿であったと考えられる。南殿の南西部には、東西八間(七尺二寸間で一七・五m)、南北七間の主殿舎があり、おそらく、そこが信長の日常生活の場であったと思われる。

 
 
なんと伝本丸の御殿は、清涼殿よりずっとずっと小さな「信長の日常生活の場」であって、したがって「行幸殿」でも「御幸の御間」でもなんでもなく、それらは伝二の丸にあったはずだ、という、滋賀県の “歴史的発見” を全面否定してしまう新説だったのです。

それまで言われて来た「安土城天主に信長は住んだ」という通説も吹き飛ばすほどの内容でしたが、ただ復元CGをよく見ますと、その「南殿」は、発掘調査時に報告された「二階レベルにまで達するほどの高床を支える特異な構造」というほどの高い床では無いようですし、伝三の丸の御殿と「二階部分で」棟続きでもありません。

例えば先程の木戸先生の本では…

(木戸雅寿『よみがえる安土城』2003)

伝三の丸跡の建物と伝本丸御殿とは建物軸がぴったり一致していることから、本丸御殿と伝三の丸が二階部分で棟続きであった可能性も考えられるのである。
(中略)
(紅雲寺御殿は)宴会が催されるような催事の場所である。「伝三の丸跡」はとても景色のよいところなのでぴったりかもしれない。
 
 
とあるように、「各建物の高さ」についての大きな見解の相違が、両先生の間に(もしくは考古学と建築学の間に!?)に出来てしまったようです。

この新たな紆余曲折は(まるで二つの土俵で一つの相撲を取るみたいな話で)しばらく見守る以外になく、当ブログはこの件に関しては、ひとまず「清涼殿と同プラン」という考古学サイドに立って、お話を進めてまいります。

天主台南西下(図では右上)のナゾの礎石列

さて、天主台に関しても、滋賀県の発掘調査は新しい発見をもたらしていて(タコ足状の階段橋の前に)是非お伝えしたいのが、天主台南西下で発見されたナゾの礎石列の “もう一つの解釈方法” です。

前述の三浦先生はこれを、伝二の丸に上がる「巨大な木造の階(きざはし)」と解釈され、先程の説の強力な要素として考えておられますが、当ブログ(私)としては、礎石列についての次の文章が大変に気になるのです。

(木戸雅寿『よみがえる安土城』2003)

調査範囲が全体の三分の一ということもあり全体の正確な構造はわかっていないが、天主の南西隅にあたる部分に半間間隔で大きな柱が立ててあること、寄掛け柱の焼けた痕跡が天主台石垣に認められること、柱の大きさから、この建物は二階建て以上の重量のある大規模な建物になると考えられる。
おそらく、二階部は伝二の丸跡と同一フロアーとなるような一体形の建物と考えられる。
場合によっては天主の張出しも考えられるであろう。

 
 
一番気になるのはズバリ「寄掛け柱の焼けた痕跡」です。

何故なら、それが伝二の丸に上がる階(きざはし)の一部ならば、どうして「寄掛け柱」にするほど “天主台ぎりぎりに密着して” 設けなくてはならなかったのでしょうか?
 
 
この疑問を解くためには、礎石列は逆に、天守台側から突き出した物(「天主の張出し」)の脚部であったか、それを兼ねた構造物ではないか、と解釈することも十分に可能のように思われます。

つまり、ここにはひょっとすると、清水の舞台のような「懸造」(かけづくり)がそびえていて、その上に、天主台上から続く「舞台」が、登城者を威圧的に見下ろしていたのではないでしょうか。

ご覧のような懸造の舞台は、以前の記事でも申し上げた「天主台上の空き地」(空中庭園)の一部として、南西に広がる安土城下を見渡す場としても、大いに機能したことでしょう。

さて、今回も紙数を費やしているうちに、あと2本の、タコ足状の階段橋を詳しくお話できそうにありません。申し訳アリマセン、次回こそ必ず!
 

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