七重目が「純金の冠」だったワケ
大晦日にアップした『2009緊急リポート』のこのイラストについて、若干の説明をさせて頂くことにします。
ご覧のような復元の発想は、やはり宣教師が書き遺した次の報告文と、さらに松岡利郎先生の、七重目外観は壁から屋根まで全部“金づくし”になった復元模型に、大いに勇気づけられた結果です。
(『耶蘇会士 日本通信』 村上直次郎訳)
壁は頂上の階の 金色と青色を塗りたる他は、悉く外部甚だ白く、太陽反射して驚くべき光輝を発せり。
『2009緊急リポート』で申し上げたとおり、安土城天主は、実は、最上階以外の外壁を白漆喰で塗り上げた“白亜の天守”であり、黒漆を多用したのは狭間戸や内部の柱・長押等であったのだと思われます。
ただ、上の報告文に、七重目は「金色と青色を塗りたる」とあっても、実際の「金色」が金泥を “塗ったもの” ではなく、柱でも壁でも金箔瓦でも、それらが漆塗りの上に金箔を “貼ったもの” であることは、まず間違いありません。
ということは、「青色」についても、それは決して “塗ったものとは限らない” という当然の解釈が成り立つことを、初めにチョット申し上げておきます。
そのためイラストは、ずっと自然な用例として、「青色」を六重目屋根の棟の色(青銅製)として描き、その他にも、軒の隅木に下がる「ひうちほうちゃく(宝鐸)」が青銅の地を見せていた可能性も高そうです。
では、そうした七重目が、シャルヴォア『日本史』で「純金の冠」とまで表現されたことに、何か特別な理由は無かったのでしょうか?
むしろ戸が無かった??天主七重目(当サイトの試案)
これは以前の記事(『本当に窓が無かった?安土城天主の七重目』)でお目にかけた図で、七重目は窓(狭間戸)があり、戸が無く、見せかけの欄干がめぐっていた姿を仮定した模式図です。
イラストもこれを基本にして描きましたが、今回は若干の訂正があり、それは前述の「ひうちほうちゃく」の数に起因する問題なのです。
法隆寺夢殿と宝鐸(風鐸)の絵
宝鐸(ほうたく)は、ご覧のように仏堂の軒の隅などに釣った風鈴状の飾りで、風鐸(ふうたく)とも呼ばれます。
岡山大学蔵『信長記』(Ⅱ類本)
… 上七重め 三間四方 御座敷之内皆金也 外輪(そとがわ)是又金也
四方之内柱にハ上龍下龍(のぼりりゅう くだりりゅう)
天井ニハ天人御影向之所
御座敷之内ニハ三皇五帝 孔門十哲 商山四皓 七賢等をかゝせられ
ひうちほうちやく数十二つらせられ
狭間戸鉄也 …
このように『信長記』類にある「ひうちほうちゃく」は、内藤昌先生によれば「風池宝鐸」のことであり、別の解釈では、「ひうち」は隅を意味する建築用語の「火打ち」につながる語句では? という指摘もあったように記憶しています。
その「ひうちほうちゃく」が12個も、安土城天主の七重目に釣ってあったと書かれているため、その数をどう軒先に釣るのかが問題になり、昭和初期の土屋純一博士の復元を手本に、七重目に4個、六重目に8個、というふうに “分割配置” する手法が定番化して来ました。
土屋案の上層部分(『名古屋高工25周年記念論文集』より)
当サイトの『天守指図』新解釈も、六重目は「十字形八角平面」ですので、屋根の隅は八つあるわけで、それらの軒先に「ひうちほうちゃく」を釣れば、七重目と合わせて計12個、とすることも可能でした。
当初はそういう考えも頭にあったのですが、しかし、ここはやはり “文献どおりの復元” に鋭意努めるべきではないか、と思い立ち、考えを改めて、下図のようなアイデアに至ったのです。
狭間戸が張り出していた??天主七重目(訂正版)
分かりにくいかもしれませんが、狭間戸の部分が(小さな欄干の幅だけ)外に張り出しています。
この形は、かつて城戸久先生が岐阜城天守を復元した際、参考にした加納城の御三階櫓(岐阜城天守の移築か)の窓の構造をヒントにしています。
つまり窓辺に内敷の棚がある構造で、「狭間戸」はその棚の向こうに張り出し、しかも加納城の御三階櫓と同じく「華頭窓」形式とし、内側に小さな引戸を設けて、それらを両側に引くことで、幅半間の窓を開くことが出来ないか、と考えたものです。
実例としては、岡山城天守の最上階の華頭窓(第二次大戦での焼失前の状態)と、やや似たようなところがあるかもしれません。
この張り出し構造によって、その分、屋根も外側に張り出す形になり、その両端に「ひうちほうちゃく」を釣れば、プラス8個を実現でき、“文献の記述どおりに” 12個とも七重目の屋根の隅角に 釣ることが出来ます。
かくして宝鐸12個が七重目をぐるりと囲んでみますと、当時の宣教師らの目には、まさしく騎馬民族や欧州諸国の王がかぶった王冠(「純金の冠」)のようにも見えたのではないでしょうか。