日: 2012年8月29日

だから豊臣秀吉の天守は物理的機能が「宝物蔵」だけに!?



だから豊臣秀吉の天守は物理的機能が「宝物蔵」だけに!?

ご覧の図はかなり以前の記事でお見せした、当サイトの仮説による、織田信長の安土城天主の内部に組み込まれた「高サ十二間余の蔵」部分(右側)と、正倉院宝庫(左側)の断面図を並べてみたものです。

(→該当記事「正倉院宝物が根こそぎ安土城天主に運び込まれるとき」及び「2009緊急リポート」ほか)
 
 
想像しますに、上の記事をご覧になった当時は「えええ?嘘だろ…」という印象しか持たれなかったことでしょうが、当方はいたって真面目に申し上げたわけで、現在ではいっそう、この仮説(推理)が確信に近いものに深まって来ております。

と申しますのは、前回までにご覧いただいたとおり、安土城天主が「立体的御殿」として構想されて完成したのに、その直後に建造された豊臣秀吉の大坂城天守が、どうしていきなり「宝物蔵」に物理的機能を限定(削減)されてしまったのか? という謎解きの道筋が見えて来たように感じるからです。

<前回までの記事の仮説> 織田信長は当初、七重天主という立体的御殿で
安土城の「奥御殿」機能を集約したかったのではないか…



一方、天主の「高サ十二間余の蔵」にはやがて正倉院宝物の唐櫃(からびつ)が…?


ならば信長の天主構想には、最初から「宝物蔵」機能が含まれていた!?

ところが、このせっかくの天主構想は(信長自身の判断で)形骸化することになったようで、正倉院宝物が根こそぎ収奪されて運び込まれることも無く、一方、天主には「奥御殿」機能が集約されたものの、周囲の曲輪にも重複した御殿群が建てられて行き、結果的に、安土城主郭部や七重天主(立体的御殿)はちょっと理解しにくい部分を含んで完成したのではなかったか…

そしてその直後、それらをスッキリと仕分けてみせたのが豊臣秀吉の大坂城であり、以後、豊臣の天守は「奥御殿(立体的御殿)」機能を順次切り離し、物理的機能は「宝物蔵」により特化していくことになった…

というストーリーがあぶり出されて来るのではないでしょうか。

豊臣大阪城天守の外観/大阪城天守閣蔵『大坂城図屏風』より

ではここで、宝物蔵(金蔵)としての天守とはどんなものだったのか、少々エピソードを拾ってみることにします。

まずは秀吉時代の姫路城天守ですが、かの有名なエピソードが『川角太閤記』等にあります。すなわち本能寺の変の後、毛利方との和睦をまとめて、遠征軍の本拠地・姫路城に急ぎ戻った秀吉は…

(『川角太閤記』より)

秀吉は風呂に入りながらも、光秀誅伐の戦略を考へてゐたが(中略)金奉行、蔵預米奉行等を召寄せ、先づ金奉行に向ひ「天守に金銀何程あるか」と問ひ、金奉行から「銀子は七百五十貫目程ござりませう、金子は千枚まではござりませぬ、八百枚の少し外ござりませう」と答へると、秀吉は「金銀一分一厘跡に残すことならぬ(中略)と言つて、その日から蔵を開き、金銀や米を残らず分配させた。
 
 
という風に「天守に金銀何程あるか」というセリフが登場していて、原書が成立した江戸初期に、これにある程度の説得力があったとしますと、なかなか見過ごせない文言でしょうし、しかも前後のニュアンスからは、天守内部に「金蔵」が建て込まれていたようでもあり、これは安土城天主の「蔵」を想起させるものです。

しかも姫路城は、次の池田輝政(いけだ てるまさ)改築の現存天守にも、軍資金として金銀が貯えられたことが知られています。大著『姫路城史』の輝政死去のくだりには…

(橋本政次『姫路城史』1952年より)

その居城姫路城には、天守附として、常に金子四百枚、銀子百十六貫百目を貯へ、一朝有事の場合に備へた。池田分限帳、履歴略記。(中略)姫路城天守附として貯へてゐた金銀も、家康からの借用金を始め、各方面の負債償却のため残らず処分した。分限帳。
 
 
とあって、まさに織田信長や豊臣秀吉と同時代に生きた輝政一代に限って、現存天守に金銀が保管されたようなのです。

ちなみに輝政の死去は慶長十八年、つまり豊臣家の滅亡や元和偃武(げんなえんぶ/…長い戦乱の終結宣言)の二年前のことでした。
 
 
今回はわずかな事例ですが、これらのエピソードから感じることは、信長が密かに安土城天主に設けたはずの「高サ十二間余の蔵」の真相を、じつは秀吉も、輝政も、しっかりと察知していたのかもしれない… という類推でしょう。

結局のところ、「天守とは何か」という事柄について、当時の大名らの側近は何もまとめて書き遺しておらず、各大名家がどう使うべきだとしていたかは、ある種の秘伝の奥義として、属人的に伝承されたり伝承されなかったりという危うい状態にあったのかもしれません。
 
 
そしてその後、徳川の天守は(意図したのか否か…)残りの「宝物蔵」機能さえも切り離し、別途、金蔵を設ける形に変わり、天守自体はいよいよ外形だけを継承するガランドウと化して、急速に<意味の脱落>の度を深めて行ったように見えるのです。

大阪城本丸にのこる金蔵と復興天守

(※天守の前の土手は明治時代に建設された貯水池をおおう土手)

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