階段の位置が示していたはず?の「立体的御殿」の使い方
雁行する二条城の二ノ丸御殿
これは釈迦に説法と思いますが、ご覧のとおり、雁行した「書院造」建築のなかを歩く場合は、各建物の周縁部をめぐる廊下をつたって、奥へ、奥へと鉤折れしながら進むことになります。
そうすることで、それぞれに役割の異なる建物を、例えば遠侍→式台→大広間→黒書院→白書院という風に、公的な表向きの格式空間から、私的で内向きの日常的空間へと順々に入っていくことが出来ます。
二ノ丸御殿の平面図(抜粋)
これが雁行する御殿のメリットだと言われますが、ただ奥の深部へ入っていくだけなら「縦列構造」でもいいわけでして、そうではない「雁行」ならではのメリットが、書院造の「鉤(かぎ)座敷」との関係だそうです。
(川道麟太郎『雁行形の美学』2001年より)
このL字形あるいはコの字形に屈折した座敷配列は、鉤の手に折れた部屋ないしは鉤の手につながっている部屋という意味で「鉤座敷」と呼ばれる。
(中略)
左奥に上段の間である「一の間」があって、そこから「二の間」、「三の間」、さらに「四の間」と続いて、部屋が左回りにまわっている。
これを逆にたどれば、「四の間」の下段の間から始まって、左奥にある上段の間へと右回りに段々と部屋の格式や奥行性が高まっていくことになる。
この部屋の折れ曲るつながり方は、右手前から始まって左奥へと、段階的に格式や奥行性を高めて、各棟がつながっている建物全体の雁行形のつながり方と相似である。
鉤座敷の作法と、雁行(御殿のつながり方)には密接な関係があった
ということだそうで、ご覧の二条城と、織田信長の「立体的御殿(天守)」との間には若干の時期差があるものの、(※またその時期には鉤座敷の成立が厳密にいつだったかという不確定要因もあるものの)この件はまったく無視するわけにも行かないようです。
と申しますのは、もしも「立体的御殿」で鉤座敷などを上下に重ねることになった場合、いったいどうつなげば当時の作法にかなったのか… つまり「階段」の付け方に、新たな法則を設けなければ、必ずや、とんでもない混乱が起きたことでしょう。
(例えば、招かれた者が不用意に階段を登ったら信長本人の寝間に出てしまった、とか…)
そんな刃傷沙汰になりかねない危険な構造ではダメなわけで、信長主従はきっと <御殿群をどう縦につなぐのか?> という大命題に直面したはずだと思うのです。
【ご参考】かの楼閣「銀閣」の二階の縁に見える階段口
/ この異様な登り方は「金閣」もまったく同様
(※この写真はサイト「トリップアドバイザー」様よりの引用です)
/ 二階から三階へは建物空間の真ん中近くを占拠している
→ 江戸後期の再建で、とっくの昔に「立体的御殿」ではなくなっていた結果か…
さて、信長の「立体的御殿」は、階段の位置をさぐる手がかりも(※静嘉堂文庫の『天守指図』以外は…)まったく現存していないため、その他の天守の状態から、あれこれと逆算してみるしかありません。
そう考えた場合に、私なんぞがたいへん気になっているのは、天守内部に二系統の階段群を併用していた例です。
何故なら、そこにはちょっと意外な現象が見られるからです。
二系統あった階段群は「立体的御殿」のなごりではないか?
左の岡山城天守は付櫓(塩蔵)から入る形でしたので、まずは「手前の階段群」を登り、続いて天守本体を登る「奥の階段群」に向かうというのは、言わば順当なスタイルと申せましょう。
しかし意外なのは名古屋城天守でして、ご覧のとおり「手前の階段群」が建物の中央付近にあったにも関わらず、何故かそれらは三階までしか続いておらず、逆に、最上階まで達していたのは(地階の奥隅の井戸周辺に始まる)「奥の階段群」だったのです。! !
この意外な事実には、これといった特段の理由も思い当たりませんし、やはり何か、過去に消えてしまった手法のなごりではないのか… と思わざるをえません。
結局のところ、「手前(表)の階段」と「奥の階段」という二系統の階段群をもつことが、かつての天守(立体的御殿?)にとって有意義な形式であり、しかも「奥の階段」を使わなければ最深部(=最上階)には到達できない、といった決め事があったのではないでしょうか。
【模式図】「立体的御殿」は階段にも「表」と「奥」があったのか
これならば、不測の鉢合わせも起こらずに済みそう…
乏しい事例をもとに、これ以上、アレコレ申し上げるのは不謹慎でしょうが、こうした仮定の延長線上においては、例えばこんなことも付言できるのかもしれません。
【最後に付言をひとつ】
いわゆる「階段室」は、両刃の剣(もろはのつるぎ)だったのでは??
表紙に描かれた宮上茂隆案と佐藤大規案 / ともに「階段室」を採用した復元
ご覧のように宮上先生も鉤座敷を想定しておられたわけですが、同時に「階段室」を採用していたため、その効果がちょっと効きすぎると申しますか、天主に入った訪問者は、約50歩で信長本人の寝間にも到達できてしまうのです。
その後の大洲城天守など江戸初期の天守ならまだしも、黎明期の天守「立体的御殿」にとって、「階段室」は両刃の剣ではなかったかと、やや心配になるのですが。
(次回に続く)