日: 2014年5月11日

続・幻の福岡城天守と「切妻破風」…空とぶ絵師は何を描いたのか


続・幻の福岡城天守と「切妻破風」…空とぶ絵師は何を描いたのか

歌川貞秀「真柴久吉公 播州姫路城郭築之図」

前回に申し上げた “戯れ言” (=この浮世絵こそ福岡城天守の実像なのでは?…)は、どうやら言いっぱなしのままでは済まない状態のようで、弁明のための補足説明をいくつか申し上げたいと思うのです。

まず、背景の海は「実は博多湾ではないか」という件ですが、逆を申せば、表題どおりの姫路城と播磨灘だとしますと、現実には、とてもこの浮世絵のような景観がありえないことは明らかでしょう。

姫路城天守の最上階からの眺め(南の播磨灘方面 / 外港の飾万津は約4km先)


(※上写真2枚はサイト「神戸観光壁紙写真集」様からの引用です)

こうして見直してみますと、冒頭の浮世絵が「本来は姫路城の描写でない…」という私の勝手な疑念も、決してまとはずれではないようですし、さらに石橋を叩いて、姫路の外港だった飾万津(しかまづ)の景観を確認しておきますと…

播州名所巡覧図に描かれた飾磨津(飾万津)

(拡大)

ご参考1)冒頭の浮世絵の拡大  飾万津にこれだけ多数の蔵が建ち並んでいたか…

江戸時代、飾万津の港には、姫路藩の米蔵「飾磨御蔵」や水軍「御船手組」の奉行所などが置かれ、河岸には回船問屋が軒をならべて繁盛したと伝わるものの、そこに「博多」と肩を並べるほどの数の蔵があったかと言えば、そうとは言えないようです。しかも…

ご参考2)同じ浮世絵の左下部分  城の北々西の海岸沿いに小さく「橋」が見える

(拡大)

(※ちなみに「貞秀画」の右下の「通油町 藤慶版」はこの浮世絵の版元の情報)

前回はご覧に入れなかった浮世絵の左下部分ですが、小さいながらも目を引く橋が描かれていて、これを仮に、福岡の波戸港に入る手前の橋だったと考えますと、描写の「正確さ」「緻密さ」という点で、歌川貞秀ならではの特異な世界(→後述)が顔をのぞかせるのです。

ご参考3)「福博古図」にも福岡城の北々西の海ぎわに、ちゃんと「橋」がある

(拡大)現在の福岡市中央区荒戸と西公園の境界あたり

! ! ! ご覧のとおり、問題の浮世絵は一見、羽柴秀吉(真柴久吉=絵本太功記の役名)が鳶職の親方のように描かれるなど、太閤記の人気にあやかったオチャラけた要素がありながらも、実は、背景の町並みはそうとうに「正確」かつ「緻密」に描かれた可能性があるのです。
 
 
 
<「空とぶ絵師」歌川貞秀とは、何を描いた人物なのか?
 「絵画と地図のあいだ」と言われるマニアックな筆致と遠近法>

 
 

歌川貞秀が、富士山の火口部分だけをパノラマ風に描いた「大日本富士山絶頂之図」

どうでしょうか。浮世絵でこんな絵!を描いたのが歌川貞秀(五雲亭貞秀、玉蘭斎貞秀とも)です。

神奈川県立歴史博物館が平成9年に行った「横浜浮世絵と空とぶ絵師 五雲亭貞秀」展の図録によれば、貞秀自身がある版本の序文で「親しく実地を踏みて見ざれば其真景ハ写しかたし」と自らの作風を記したそうで、この驚きの作画は、実際に本人が、富士山に何度も登頂して描いたものと考えられています。

そして貞秀は「横浜浮世絵」というジャンルでも精緻さを突き詰めていて、あまりの細密さから、貞秀が活躍した幕末から明治初期、浮世絵の業界では「彫り師泣かせ」の絵師と言われたそうです。

例えば以下の絵は、それぞれ画面クリックで拡大サイズ版にもリンクしておりますので、是非ご参照下さい。

歌川貞秀「再改横浜風景」(拡大版:2868×704 pix)

歌川貞秀「東都両国橋夏景色」(拡大版:1602×785 pix)

前述の図録によれば、貞秀の絵は「絵画と地図のあいだ」と評されているそうで、遠近法の採用も手伝って、観る者に “そこに行ったかのような体験” をさせようという、まるで現代のハイビジョンや4K画像(8K、IMAX…)等々と同じねらいを持っていることに、私なんぞは舌を巻いてしまうのです。

晩年になって貞秀は「凡そ浮世絵の上乗は。その時の風俗をありのまゝに写して。偽り飾らず。後の世にのこして。考証を備えしむるに在り」と語ったそうで、浮世絵というものに対して、一般の人々が抱いているイメージとは、かなり違う世界を追い求めていたのかもしれません。

歌川貞秀「楠正成 河内国千早城 鎌倉勢惣責寄手破軍大合戦」(拡大版:フォトビューアー)

一方、ご覧の千早城の絵など、貞秀は多くの合戦図の類いも描いていて、特にこの絵は、有名な楠木勢の奇策を(大胆に翻案して)櫓をガラガラと敵兵の頭の上に崩す形で描いた面白さで知られています。

ただ、これら何点かの「城」がらみの絵を見ますと、千早城や堺の籠城戦、北条執権の館などに「高石垣」を描いてしまうなど、どれも厳密な城の考証から申せば、貞秀の「正確さ」が急に怪しくなっているのは事実です。

これは、さすがの貞秀も、鎌倉から室町時代の城がどういうものか、もはや現地でも確認できなかった影響なのか、それでも依頼主の注文に応えるため、やむなく自らの画法を捨てて、世間一般が容易に「城」だと認識できるような確信犯的な手法に堕してしまったのかもしれません。

歌川貞秀「真柴久吉公 播州姫路城郭築之図」(拡大版:2000×956 pix)

さて、以上のような歌川貞秀の人物像を踏まえて、改めて問題の浮世絵をながめますと、上記の合戦図などと明らかに違うのは、なにより「姫路城は現存する城」であって、貞秀は西国への旅のおりに、池田家築造の現存天守なら何べんでも見られたはず、という一点に尽きるでしょう。

そういう中で、貞秀は現存天守とは似ても似つかぬ天守を描いた一方で、背景の海については「博多湾」をはっきりと意識して、正確に、細密に、描き込んだ可能性があるわけです。

! ? …

この矛盾の背景を推理してみますと、作画に色々と策をろうした貞秀のことですから、もしかすると、羽柴秀吉時代の天守が現存天守とは異なることを百も承知のうえで、「ならば…」と、まったく別の城の原画を下敷きにして“真柴久吉の天守”を(はるかに精密に)仕立て上げた、という彼一流の芸当をやってのけたのではないでしょうか。

であるならば、そこに描かれた「博多湾」と「切妻破風」という共通項は、とりもなおさず、幻の福岡城天守につながるものでしょうし、前述の「後の世にのこして、考証を備えしむるに在り」という貞秀の言葉が、にわかに、意味深な謎かけに聞えて来るのです。

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