ここでためしに、サイト「図録▽歴代内閣の内閣支持率推移」様の有名なグラフに着色をさせていただきました。 これで明らかなのは…
【1】親米保守の度合いが強い内閣(グリーン)は支持率が落ちにくく長期政権になったのに、その他はほぼ全て、急降下で落ちて行ったこと。
【2】そして内閣支持率(ブラック線)が自民党支持率(ピンク線)や民主党支持率(ブルー線)に接触するか下回った時に、内閣が終了した、という法則がありそう。
→ → これを見る限り、高市さんは<<ものすごい余裕>>を持っている、と言わざるをえないのでしょう。 特に【2】は「与党の救世主であるかないか」指数と言えましょうから、この点で、高市さん以外はありえない状況が厳然としています。!!
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( 当サイトが申し上げて来た指月伏見城の中枢部分は、惣構えの中心点に計画されたもので、舟入堀の奥正面には天守が見え、すぐ東隣りには桓武天皇陵が位置していた… )
/big【 発掘写真A 】石英斑岩が6割を占めた石垣跡
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一昨年から申し上げて参りました<<豊臣秀吉の伏見城>>をめぐる一連の当ブログ記事は、いよいよ「指月伏見城」の最終章に至ることになりました。
そこで今回は、上図のごとく南北250m余に及んだ「本丸」は、具体的にどうなっていて、そこに移築専用天守がどういう風に築かれたのか、との疑問について、ひとまず当ブログが想定している状態を申し上げてみたいと思うのです。
で、そのためには「真一文字で城下に正対した城構え」こそ秀吉の好みであったことから申し上げる必要がありそうで、まずは、いちばん解りやすい「彦根城の天秤(てんびん)櫓と長浜城の大手門」の話題から始めさせていただきましょう。
皆様おなじみの、彦根城の天秤櫓
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ご覧の天秤櫓は、彦根藩主・井伊家の家譜『井伊年譜』によれば、クスの木で造られた長浜城大手門を移築したものと記されていて、慶長9年1604年から慶長11年にかけての完成らしく、昭和30年代の解体調査では移築の痕跡や最後の長浜城主・内藤家の紋瓦などが確認された一方で、その前身が長浜城大手門であると「断定」できる証拠や逆に「否定」できる証拠も見つからなかった、とのことです。
で、そういう天秤櫓は上から見るとコの字型をしているものの、はっきり申しまして、これほどまでに「横長の(横長に見える)」櫓門は他に例が無かった、と申し上げてよろしいのでしょう。
――― であれば、これの前身と井伊家が伝えた「長浜城大手門」とは、いかなる城門であったのか、私なんぞは非常に強い興味を感じざるをえません。
何故かと申しますと、古絵図に伝わる長浜城と城下との関係性が、他に例が無いほど「横長の(横長に見える)」櫓門とピッタリの関係だと思えてなりませんで、なおかつ「真一文字で城下に正対した城構え」を整える上で、必要不可欠の城門であった、とも感じられてならないからです。
< 秀吉が築いた長浜城は、あろうことか、長浜のまっ平らな地形において、
織田信長の岐阜城の<金華山頂の主郭&居館の庭園&碁盤目状の城下>を
「再現」しようとした、途方もない意欲作!!?…との想定から見えること >
長浜町之絵図 万延元庚申年五月写之(滋賀県立図書館蔵)
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( ※朱色の線は、秀吉が始めた年貢免税地「朱印地」の範囲を示したもの )
さてさて、これから申し上げる事柄は、これもまた誰も言い出したことの無い事柄なので恐縮至極ですが、ご覧の有名な長浜城の古絵図を初めて見た時、私なんぞが真っ先に感じたのは…
城と正対した城下町の碁盤目状の造りがみごとなのに対して、
その奥の琵琶湖畔に位置した「本丸」等の“とりとめの無さ”は、
いったいどういうことだろうか??
との第一印象でありまして、これの原因として私は、おそらく天正13年の巨大地震「天正地震」によって湖畔の本丸等に“液状化”現象?が起きてしまい、溶けるかのように地盤沈下しつつ、地表がガタガタに変形した結果なのでは……などと想像していたものの、しかし、よくよく古絵図を見直してみれば…
そもそも「本丸大堀」とは何のためで、そこに「中嶋」があるのは何故??
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これって、全くもって、庭園の「池」の造りなのでは…と思った瞬間に、これまでの考えが一挙にくつがえった感じがいたしまして…
→ → → もしかすると、「中嶋」とある四角い部分だけが石垣造りの「本丸」であって、実際は絵図よりもずっと大きいもので、その周囲には、舟入堀と直結した蔵屋敷や池泉回遊式庭園の楼閣=「天守跡」などが巧みに配置されていて、要するに、これらは織田信長の岐阜城の川沿いの船着き場から昔御殿や千畳敷(信長居館)の庭園までを、この場でいっぺんに、模倣(もほう)して再現しようとしたのではなかったか、と。
ですから、ひょっとして、長浜城の本丸というのは、
後々の「聚楽第」を先取りしたような空間だった?
…てなことは。(合成写真によるイメージ画)
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!!……… なんていう妄想(暴言)にもそれなりの動機はありまして、秀吉が築いた長浜城と城下は、あろうことか、長浜のまっ平らな地形において、岐阜城の<金華山山頂の主郭&居館の庭園&碁盤目状の城下>を一箇所にまとめて再現した、途方もない意欲作だったのかも、と考えれば理屈(だけ)は成り立ちそうなのです。
戦国時代の岐阜城下町イメージ図(加藤由朗画)
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そしてここで最も重要な「金華山山頂の主郭」は、実際に旧城下町の真ん中あたりから見上げますと、金華山がまるで「巨大な屏風を立て並べた」ように見えるため、主郭等々の建物はその屏風の上辺に「真一文字に」並んで見えたはずであり、これこそが、秀吉のあこがれた(そして長浜での再現にチャレンジした)城郭の景観だったのではないでしょうか。
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結局、このような岐阜城の景観を、まっ平らな地形の長浜でなんとか再現しよう、と思えば、他に例が無いほど「横長の」大手門を使うことで、まさに、真一文字に城下と正対した、この城の「象徴」を得ることが出来たのではないか…と私なんぞには思えてならないわけです。
長浜城の推定イラスト(中井均先生の復元案より)
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【+援護射撃 】
豊臣大坂城でも「真一文字に正対した城構え」は応用されていた ! !
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( 「明石城 公式ウェブサイト」様からの画像引用 )

さてさてさて、実は、ご覧の「明石城」こそ、当サイト推定の「指月伏見城」の本丸や移築専用天守の探求において、現存する城址の中では“最も参考になった城”だということを、そろそろ白状しなくてはいけない段階に来ているのですが、ここから先は、また回を改めて、申し上げさせて下さい。
(※次回に続く)
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