投稿者: 横手聡

移築専用天守の具体策→「殿主と天守」上下合体論の応用へ。姿形が似ていた白河小峰城の三重櫓を参照しながら

【 高市さん、民主主義の極点をきわめた“全権総理”へ 】
これは高市さんならば、と国民が認めた結論でしょうし、総理大臣は人によって(→石破)こんなに成果が違う、と国民が気づいてしまった結果でしょう。

そしてもう一つには野田佳彦という、元総理でありながら実に愚かな挙動に出た政治家に対して、国民が心底、愛想をつかした結果でもあって、高市さんの「私でいいのか」との問いかけは真にタイムリーな判断でした。
で、ここからは積極財政による「盛世」の実現に向けて、もしも必要であるのなら、“財務省の解体&分離”…だって選択肢のうちではありませんか。

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( 前回記事より )
【 仮想シチュエーション 】
仮想敵の方角と、<後追いの工夫形>としての望楼型天守…との関係性



【 今回の記事の「殿主と天守」上下合体論の応用…というのは 】


【 このことは6年前の当ブログ記事(木子家指図の最大の衝撃――
「てんしゅ」は「殿主」と「天守」が上下に合体したもの、
との解釈が実在していた)を踏まえたもの 】



(右上の墨書の拡大)


【 さらに10年前の記事でも… 】
当時、宣教師フロイスはこの事柄に気づき、ちゃんと記録に残していた。
日本人は天守を「塔」部分と「主城」部分に分けて考えている、と。

さて、前回のブログ記事では<後追いの工夫形>としての望楼型天守…について、あらましのご説明をさせていただきましたが、羽柴(豊臣)秀吉の移築専用天守が<後追いの…>の「広告塔」の役目を果たしていた、などと申し上げる以上は、例えば層塔型天守のように単純化や規格化がなされていない、より複雑な形状のはずの望楼型天守が何故、秀吉の築城スピードを高めた「移築専用天守」になりえたのか―――という“新たなナゾ”について、お答えしなくてはならないでしょう。

そこで今回の記事では、そのナゾを解くカギというか、ある合理的な仕掛けについて、当ブログで申し上げて来た様々な事柄(とりわけ「殿主と天守」上下合体論)を踏まえつつ、ご説明してみたいと思うのです。
 
 
ちなみに一昨年の記事「妄想。姿形がナゾのままの石垣山城天守は、秀吉の成功体験を積み重ねた「吉兆の移築専用天守」だったと仮定すると…」では、その移築順を…

(想定の移築順:山崎城→近江八幡城→石垣山城→淀古城→指月伏見城)

などと申し上げましたが、このうち天守台の状況がある程度はっきりしているのは、山崎城と石垣山城だけ、という状態でありまして、そうであれば、まずはこの二つの城の天守台跡を比べたうえで、そこに“全く同一の”移築専用天守が建つのか否か?…をご覧いただくことが、説明の第一歩ともなりましょう。

同方位&同縮尺で並べてみた、山崎城と石垣山城の中枢部分

ご覧のとおり、一見したところ、天守台の規模にはかなり大きな「差」があるようにも見えまして、果たして、いかがなりましょうか。
 

山崎城をめぐる過去の当ブログ記事より
石垣の痕跡から類推できるのは、約10m四方?の天守本体と付櫓か

さて、ご覧の15年前の当ブログ記事では、山崎城本丸の天守台跡について、一般に言われる「東西35m南北20m」よりも「ずっと小さなもののようで」などと申し上げたものの、この時、現地で私が見た築石の断片というのは、天守台上の中心部分に「約10m四方=5間四方」で残った、天守内部の身舎(もや)を画した築石ではなかったのか、という気がして来ております。

したがって、そのさらに周辺には天守台そのものの石垣が別途、大きく取り巻いていたようにも思われまして、現に、私が本丸西側の曲輪の西端で撮った写真では、おそらく多くの残存石垣が土に埋もれたままで、発掘調査をすれば相当な量の石垣群が姿を現して、結局、山頂の曲輪群はすべてが石垣で固められたことが明らかになるはず、と強く感じさせるものでした。

そこで今回は、思い切って、天守台上のかつての状況を想像(妄想)してみますと、こんな風にも思い描けてしまうのですが、いかがでしょうか。………


……… このように私が山崎城の天守台と天守を想像するのは、実は、移築専用天守(特に最後の指月伏見城天守)に似た部分が多いと私が感じている白河小峰城の三重櫓が、まことに多くのインスピレーションを与えてくれるからです。

指月伏見城天守を描いたと思われる画像
山本眞嗣『京・伏見 歴史の旅』1991年刊より
( 84頁「古地図に見られる伏見城天守閣 若林春和堂所蔵」)


これとよく似た白河小峰城の三重櫓は…(白河城御櫓絵図)


三重櫓の発掘調査時の様子(1989年撮影)

(※上記写真2点はサイト「世界遺産の世界」様からの画像引用です)

ご覧の白河小峰城の三重櫓は、三重ではありながらも、あたかも秀吉配下の蒲生氏郷の会津若松城天守(※当サイトでは七重の層塔型を想定)を思わせるような、層塔型と打ち下ろし銃撃用の「懸出し」の取り合わせが特徴的な建物であり、しかも最上階が「2間四方」であって、これは法隆寺大工の中井正吉を起用した豊臣秀吉の天守の“常套手段”!でもありましたから(→ 5年前の参考記事)これはもう、私なんぞには“秀吉ゆかりの匂い”がぷんぷんとする天守…と感じられてならないものです。

そして上記の発掘写真をご覧になれば、この三重櫓の構造は、内部の身舎(もや)=4間四方のまわりに入側が取り巻いて約6間四方の建物が建ち、そこに付櫓や台上の空き地が張り付いた形で、櫓全体が構成されていたことがよく分かります。

で、こうした三重櫓のあり方を見ていますと、今回の冒頭から申し上げている「天守と殿主」上下合体論の、本当のメカニズムが“透けて”見えるようでして、それを前出の指図「白河城御櫓絵図」を使って図示すれば…

という風に、天守の外観や階の性質(→ 例えば織田信長の岐阜城で天守二階が信長夫人の階であった件など)から申せば、天守は上下の「殿主と天守」合体論で間違いは無かったのでしょうが、これを建物の構造面から申せば、上図のような「身舎と入側」の入れ子状態の合体として理解すべきなのでしょう。

で、ここから想像できることは、問題の「移築専用天守」の場合、移築を行ったのは身舎の部分のみ(「天守」と直下の一階のみ)であって、周囲の「殿主」≒入側の部分は、各城の地形に合わせてその場で建て込んだ部分ではなかったのか…との推測です。

そこで具体的に山崎城天守の場合を想像してみますと、前出の伏見城の古絵図のとおり、おそらく二重目の「懸出し」が四方に向けて設けられたのでしょうから……

単純な立方体で構成してみた山崎城天守の推定構想(北西側より)

↓      ↓      ↓

 
 
< こんな山崎城「移築専用」天守は、石垣山城の天守台に合致したのか? >
 
 
 
さてさて、今回の記事の最終的な目的は、山崎城と石垣山城を比べて、そこに“同一の”移築専用天守が建ったのか否か?の確認でしたから、最後に石垣山城の方を見てみますと…

『太閤御陣城相州石垣山古城跡』小田原市立図書館蔵


ご覧のとおり、古絵図の天守台の南西面にはハッキリと「石垣高八間」との墨書があるものの、現状の天守台跡はそれよりもいくらか低くなっているようでして、その辺りを踏まえて、かつての天守台の高さを測量図の等高線をたよりに推定してみますと、こんな感じの結果になるのではないでしょうか。(図は上が北北東)

勝手な推定の結果で恐縮ですが、このように「石垣高八間」を信じた場合、台上の面積は古絵図の墨書どおりに「十二間」「八間」がおさまる形になり、信憑性が感じられます。

そこで次に、この図上に同縮尺で!!当記事のままの山崎城天守台をパッチワークしてみれば…

石垣山城天守台の「石垣高八間」のせいか、
台上の面積では、ほとんど差が無かったらしい。

!! こんな状況であれば、移築専用天守の「5間四方の移築部分」を中心にして、その周囲に、ここの石垣に合わせた入側部分を建て込むことも、さほど無理は無さそうでして、ごくごく自然なプロポーションの望楼型天守に仕上がったはず、と言えそうです。

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【 追記 】山崎城をめぐる関連情報をひとつ。

 

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