投稿者: 横手聡

その後の移築専用天守は淀古城へ?→淀殿の「名城」遍歴から言えば、彼女こそ史上最強の城ガールか、と…

いま世界最強の女、と海外で言われる高市さんらしいなぁ…と。】
本人は生真面目にやっているだけでしょうが、それらが全て、良い方に働くという、まれに見る「強運」の持ち主です。


 
The day she became the Dancing Queen of the Indo-Pacific.
However, it goes without saying that this does not surpass President Droupadi Murmu.

 
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( 前回記事より )
甲府城天守台               石垣山城天守台


想定の移築順:山崎城→近江八幡城→石垣山城→(×甲府城)→淀古城→指月伏見城

さて、前回記事ではご覧のごとく、当ブログで申し上げている「羽柴(豊臣)秀吉の吉兆の移築専用天守」が、石垣山城の次には甲府城に“まるごと移築”されるはずであったのに実現せず、天守台などの構想だけが甲府城に適用されたのでは――― という大胆な仮説を申し上げたうえで、それに基づくなら、幻の石垣山城天守の天守台の形状を「逆算」できてしまう…といったお話を申し上げました。

これには石垣山城と甲府城の天守台の“妙な符号点”があるため、私なんぞは強い確信を持ってはいるものの、次なる問題として、豊臣秀勝の急な移封のため宙に浮いた移築専用天守が、なぜ淀古城に移築されたか?という問題が残り、この点ではちょっと複雑な経緯を想定せざるをえません。

と申しますのも、移築専用天守に関わる当時の出来事を(もう一度)時系列順に並べてみますと…

【山崎城時代】
天正10年7月、山崎の戦いに勝利した秀吉は、山崎城の築城を開始。(天守の完成時期は不明)
天正12年3月、秀吉は山崎城の天守を解体撤去しつつ廃城に。(『兼見卿記』今朝山崎之天守ヲ壊チ取ランガ為、奉公罷リ越ス )
 
【近江八幡城時代】
天正13年8月、秀吉は甥の豊臣秀次に近江八幡43万石を与えて、築城を開始。 → まもなく移築専用天守を移築か。
(なお天正17年3月に豊臣秀長が、秀吉の側室・茶々の産所とすべく淀古城を改修。 同年5月、秀吉の嫡男・鶴松が誕生。 そして産後三ヶ月目!には早くも淀殿母子は豊臣大坂城に移り住んだ)
 
【石垣山城時代】
天正18年4月、秀吉は石垣山城の築城を開始。 6月26日には早くも城が完成し、その10日後の7月5日、北条氏直が降伏を申し出た。
7月中には小田原城の開城や秀吉入城が矢つぎばやに進み、結局、昼夜兼行で完成させた石垣山城天守は、一ヶ月程度しか存在しなかったか。
(同年、近江八幡の豊臣秀次を、尾張清洲など計100万石に加増させた)
 
【淀古城時代】
すでに淀殿母子はいなかった淀古城に、小田原陣が終わった天正18年のうちに移築か。
翌天正19年7月、淀殿母子が聚楽第から豊臣大坂城に移るため、途中の淀城に滞在中、鶴松が突然に体調を崩し、8月5日に鶴松は数え三つで死去してしまう。
その前年に移築された「その天守」は、やむなく放置状態か。 文禄3年4月、鶴松の死から3年後、ようやく淀古城の天守と櫓は解体されて伏見城に移されたと『駒井日記』が記す。

 
 
ということでして、つまり仮説のとおりなら、淀古城においては、「吉兆の…」はずの移築専用天守が、逆に大きく豊臣家に祟(たた)ってしまったわけです。

考えてみれば、移築専用天守を淀古城に移築するのなら、淀殿の出産のために淀古城を修築した天正17年にやるべきだったのでしょうが、おそらく秀吉は、まだ豊臣秀次が城主の近江八幡城から「吉兆の移築専用天守」を引きはがして移築することをためらい、機会を逸してしまった、ということだろうと私は想像しております。

そういうチグハグな移築をしていたら鶴松が死去する、という痛恨の出来事が起きたわけで、これは移築専用天守の光と影と申しますか、大きな岐路になった城だと思いますので、今回の記事では「何故あえて淀古城に移築したのか」や「どんな場所に移築したのか」という二つの疑問について申し上げてみたいと思うのです。

桂川にかかる宮前橋から、淀古城のあった納所地区をながめる


 
 
< その時、淀殿・鶴松の母子はすでに淀古城に住んではいなかったのに、
  何故あえて淀古城に移築したのか… >

 
 

『伝淀殿画像』 奈良県立美術館蔵

さて、皆様ご存知のとおり、秀吉は小田原城攻めに淀殿を呼び寄せていたのですが、世間ではあまり言われないものの、淀殿の生涯をたどってみると、彼女は一生のうちに錚々(そうそう)たる天下の名城群を、次々と引っ越したり、遠征したりして“住んで来た”女性であった、という事実に行き当たります。

そんな彼女の「名城」遍歴をざあっと羅列してみれば…

1.小谷城(永禄12年1569年に誕生。天正元年1573年に落城)
2.守山城(小谷の落城後、母と三姉妹は守山城主・織田信次に預けられた)
3.岐阜城(天正2年1574年、信次の戦死後に移住)
4.北ノ庄城(天正10年1582年、母の市が柴田勝家との再婚のため入城)
5.安土城(天正11年1583年、北ノ庄の落城後に三姉妹は秀吉らの庇護で移住)
6.聚楽第(天正14年1586年、自身が秀吉に嫁ぐため入城。翌々年に懐妊)
7.茨木城(天正16年1588年、鶴松の出産のため一旦、茨木城に移った)
8.淀古城(天正17年1589年、改修が終わった淀古城に移って、鶴松を出産)
9.豊臣大坂城(同年、産後三ヶ月目に母子は大坂城に移り住んだ)
10.再びの聚楽第(天正18年1590年、淀殿は鶴松を連れて再び聚楽第へ)
11.石垣山城(同年、秀吉に呼び出されて聚楽第から石垣山へ。滞在二ヶ月)
12.再びの淀古城(天正19年1591年、聚楽第から大坂に向かう途中、鶴松が死去)
13.肥前名護屋城(天正20年1592年、秀吉の遠征に同行して肥前名護屋へ)
14.再びの豊臣大坂城(文禄2年1593年、二の丸に入った淀殿は秀頼を出産)
15.伏見城(文禄3年1594年、秀頼とともに指月伏見城に移住)
16.再々度の豊臣大坂城(文禄5年1596年、慶長伏見地震の発生後、大坂へ避難)
17.再びの伏見城(慶長2年1597年、再建された木幡山伏見城の西の丸に移住)
18.京都新城(同年、秀頼の参内のために築かれた京都新城へ。滞在は短期日か)
19.再々度の伏見城(慶長3年1598年、戻った伏見城で秀吉の最期をみとる)
20.再々々度の豊臣大坂城(慶長4年1599年、秀頼とともに淀殿の最後の城へ)

という風に、豊臣大坂城や伏見城の場合も、彼女がやって来た度に、城はどんどんと姿を変えていたのですから、そういう変遷(へんせん)も自らの目で見てきた淀殿という女性は、様々な「城」に対する、かなりの審美眼や一家言を持ち合わせるに至っていたのではないでしょうか。

しかもこれらのうち、小谷城・北ノ庄城・安土城・豊臣大坂城という四つの名城では、その「落城」にも(計四回も!)遭遇していて、最後のケースでは、非常に強い決意の上で(=外堀の無い城の限界はおそらく承知の上で)大坂夏の陣にのぞんでいたのだと思えてなりません。

――― これをもって彼女を「史上最強の城ガール」などと申し上げるのは不遜(ふそん)な物言いかもしれませんが、しかし最強の「強」を「強い(こわい)」と読むならば、ニュアンスは当たらずとも遠からず、という気がしております。
 
 
そうした淀殿の最期を想えば、ひょっとして彼女は「城」依存症?だったのでは……という気もしておりまして、それは実父や柴田勝家や実母の生き方が影響したように思う一方、その「城」依存症は、「築城狂」とも言われる豊臣秀吉と“共通していた”のかもしれない!?と言えそうでして、なかなかに見過ごせない関係性がそこにあったのではないでしょうか。

この二人、もしかして「城」談義や築城ばなしで盛り上がっていた関係!?

親の仇(かたき)のはずの秀吉の妻になった淀殿の心理は、理解しにくい部分があるものの、あえてこういう風に想像すれば、例えば秀吉が淀殿に「淀古城」を修築して与えたことや、最前線の石垣山城や肥前名護屋城に淀殿を連れて遠征したことも、実は淀殿の方から「殿下の新しい城を一緒に見たい」などと寝物語に言い出した結果であったのかもしれません。

そんな風に「城」への興味を秀吉の耳元でささやいた女性は、秀吉の周囲では他に誰もいなかったように想像しますし、つまり淀殿という女性は、築城狂の秀吉に対する、唯一無二の理解者だった!?――― と考えれば、歴史上のいろんな事柄に、思わず合点がいくのではないでしょうか。

ですから、移築専用天守の石垣山城からの移築先の候補として、例えば甲府城が宙に浮いた瞬間に、淀殿がすかさず「ならば殿下、鶴松が生まれた城に是非…」と一言ささやけば、一瞬にして、移築先が決まったように想像しているのですが、いかがなものでしょう。
 
 
 
< では淀古城の移築専用天守は、どんな場所に「放置」されたのか??
  淀古城と、城の構想やサイズ感がものすごく似ていたのは、大溝城か… >

 
 

【 ご参考 】終戦直後(1945~1950年)の空中写真で見る淀古城の周辺
( 地理院地図 電子国土WEBより / 写真のいちばん下は淀城址 )

淀古城はどういう城だったか、という問いはたいへんに難しいテーマのようで、現地はほぼまっ平らな地形のうえ、そこに城を感じさせる痕跡は何もなく、城絵図の類いも詳しいものは一切、残っていない、という困難が横たわっております。

そんな中で、かの京都高低差崖会の梅林秀行崖長が、現地の微妙な高低差を読み取りつつ、大正11年の都市計画図に着色する形で(上記の空中写真とほぼ同じ範囲で)淀古城のアウトラインを示されていて、非常に心強く、我々に勇気を与えてくれるものです。

京都高低差崖会 2015年4月17日のXより
淀古城の周辺(旧納所村)

図のピンク色の「淀古城 推定域」に城があったとして、この南北に分かれた?ような城域に、どういう風に城が築かれていて、「天守」がどこにあったのか、となりますと、後はもう、私なんぞは「これに似た城は無かったか」という毎度の常とう手段に頼らざるをえません。

そこで、豊臣秀長による修築以前の淀古城というのは、本能寺の変の後に、中国大返しで攻め寄せた羽柴秀吉軍を迎え撃つべく、明智光秀の手で臨時築城がなされたことがあるそうで、この「明智光秀」というキーワードで「似た城」を探してみますと…

明智光秀の修築で知られる「大溝城」ですが、この城絵図のままでは取りとめがありませんので、まずは、高島市のHPにある重要文化的景観「大溝の水辺景観」の地図を引用させていただきましょう。

これをご覧になると、「似た城」の意味が少しご理解いただけましょうが、さらにここで、サイト『戦国を歩こう』様の「大溝城の謎 考察①」図をご覧になれば(※江戸時代の大溝陣屋を含んではいるものの)城の全体の構想がつかめるのではないでしょうか。

ではいよいよ、この大溝城と淀古城とを、同縮尺で、左右に並べてみますと…

         (高島市HP図の大溝城)          (梅林崖長の淀古城の着色図より)
この両城は、城の構想やサイズ感が、ものすごく似ていたように感じられる

↓      ↓      ↓
ためしに大溝城の図を、方角を180度回転させると、さらに際立ってきて ! ! …



     (大溝城)                       (淀古城)

 
【 ご参考 】発掘調査から推定された大溝城の本丸等の範囲

(※ご覧の図は水口岡山城跡・城郭歴史フォーラム「水口岡山城と大溝城」資料集からの抜粋です)

かくして、淀古城も同様に、現在の妙教寺の境内を中心にしながら、かつてはそこに水堀に囲まれた極めてコンパクトな本丸が明智光秀によって築かれ、その後、豊臣秀長の手で改めて(移築専用天守の導入を想定しつつ)天守台が築かれたのに違いない……と思えて来るわけなのですが、いかがでしょう。
 

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