投稿者: 横手聡

【続】左右に建つ覇道と権威の天守。天下布武の維新碑だった天守の<意味の変容>を見せつけた城か=指月伏見城

【 追記 ⇒「審議拒否」までしておきながら、最後は
 皇室典範の改正案に賛成した中道(中革連)…… 】

崖っぷちに立つ左翼政党は、今国会で高市さんが本気「中傷動画」の捏造(ねつぞう)ぶりをアピール=<中傷動画の現物が存在しない><ようやく出て来たのは時系列の合わない捏造(ねつぞう)動画><作成者の松井某はとうに逃亡している>といった反撃(口撃)を強烈に行っていたら、今国会中に左翼政党は絶命 ! ! ! していたでしょう。
 
それを高市さんがしなかったのは、(麻生元総理主導の)皇室典範の改正案があったからで、こういう「人質戦法」に味をしめた左翼政党への対策が不可欠でしょうが、立憲の支持率はなんと1.9%に落ちたそうで、ここはやっぱり選挙で=有権者の出番、かと。
 
そしてもう一つ、これは私が昔から「一有権者の権利」として率直に思うのが、
<<< 国会での質問時間の、議席数に正確に合わせた、割り振り >>>
です。 現状は、与党側が自らの質問時間のほとんどを「野党側にプレゼントしている」状態であって、これは、与党側の候補者に投票した有権者たちの「国会へのアクセスの権利」をないがしろにするもので、一日も早く、質問時間を議席数に正確に合わせるべきでしょう。

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【 現在の皇室の方々は、すべてが
 「閑院宮家」の血統の方々だそうで。】

そもそも「宮家」の役目とは、皇統が危機にひんした時に天皇を輩出してきたことですから、竹田恒泰さんのご指摘のとおり、読売新聞はとんでもない““不勉強””を一面にデカデカと出してしまった―――
 
…… と言うよりも、読売新聞の「本音」はきっと、今上上皇様のようなリベラル色の強い天皇(だけ)が続くことを望んでいて、それ以外の宮家の血筋に皇統がうつることを断固、阻止したいのではありませんか。 そしてそれは、左翼政党や左翼メディアが皇室典範の改正案で(養子の子に皇位継承権を認めるのは“話が違う”などと)騒いでいるのと“同じ穴のムジナ”だと分かります。
 
しかししかし、現在の皇室の方々は、すべてが閑院宮家(かんいんのみやけ=江戸中期に皇統の危機がおとずれた際に、かの新井白石!が、時の中御門天皇の弟宮を当主として創設した宮家)から即位した光格天皇(=明治天皇の三代前)の血筋である、ということを想えば、「宮家」こそ、万世一系にとって不可欠のノウハウなのだと思い知るばかりです。
 
 
→ → つまり、愛子様もまた、そういう「宮家」の血筋の方であるということを、歴史にうとい左翼政党やメディア関係者(古舘伊知郎とか)はどう考えるのでしょう。

【 追記。憲法の「切り取り」はやめてくれ 】
現行憲法は第一条に「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」とあって「総意に基く」とは書いてあっても、例えば「多数決で次の天皇を決められる」とか「逆に、全会一致でなければ認められない」といったバカげた越権行為(=天皇家への介入)は現行憲法にも書いてありません。
→ → やはり左翼の人々は、天皇(制)についても、我が国の現実や長い長い歴史からズレた「戦後幻想」の中に生きているようです。

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豊臣秀吉像(名古屋市秀吉清正記念館蔵)
(※8年前の記事「日本人少年少女の奴隷化を止めようとした豊臣秀吉の大功績」からのリフレインで)


( さらに一昨年の記事より )

――― 前回に引き続きまして、当サイトが申し上げている指月伏見城の「本当の」本丸について、左右=南北両端に建つ二つの天守を中心に、さらなるご説明を続けてまいりたいのですが、まずは冒頭で<お詫び>を申し上げる必要がありそうです。

と申しますのは、例えば上記の地図は「すぐ東隣りで木幡山伏見城は再建されたはず」との当ブログの大胆仮説を申し上げるために、再建後の「本丸」や「二の丸(西丸)」に合わせて、指月伏見城の方も「本丸」「二の丸」と呼んで来たわけですが、それぞれに建てられた建物等を具体的に考えれば考えるほど、当図の「本丸」というのは、厳密には豊臣大坂城で言うと「本丸奥御殿」に当たり、同じく「二の丸」は豊臣大坂城の「本丸表御殿」に当たるのではないか…という反省しきりの状態でありまして、まずはこの事を、先に申し上げておきたいと思うのです。

【 そこで是非、サイズ感のご確認も。】
同縮尺で並べた指月伏見城の中枢部と、豊臣大坂城の本丸(表御殿・奥御殿)。
当サイトが想定した指月伏見城の中枢部の“巨大さ”にご注目を。

で、今回の記事では南北=左右両端の二つの天守のうち、前回は何の説明も加えませんでした南端(右)の「聚楽第から移築の御三階櫓」に焦点を当てまして、移築の意図に触れつつ、最終的には天守画イラストで立体的にお目にかけたいと思います。
 
 
 
<【 考程4 】風化した表面に日光が当たると、真っ白く輝く「石英斑岩」。
  → → 午後の指月伏見城の本丸西面は、石垣から天守までほぼ同一色の!
  真っ白い一つの建造物に見えたかも… >

 
 

【 ご参考 】石英斑岩の岩峰の連なりが特徴的な、対馬の白嶽(しらたけ)。

(※ご覧の写真は「対馬観光物産協会」様のHPからの引用画像です)

さて、前々々回から申し上げて来た【発掘写真A】の石垣跡のとおりに、指月伏見城の中枢部が伝承の山科石=石英斑岩などを主体にして築かれたなら、その出来栄えは、我々が思う以上のインパクトを放ったのかもしれません。

何故なら、上記写真のように、ここまで白くなる石英斑岩の石垣が、本丸西面の約250mにわたって直線的に築かれたら、それを西の城下から眺めた場合、白壁の天守や多聞櫓(か狭間塀)と一体の“白い城壁”と見えたように思えてなりませんし、それが示した(奥の桓武天皇陵の)意味合いに、諸大名、家臣、町衆らがある種の戦慄(せんりつ)=これまでの豊臣の城と違う??との印象を受けたようにも感じるからです。
 
 
 
<【 考程5 】指月伏見城の二の丸南部は、豊臣大坂城の本丸表御殿と同様に
  対面儀式の場の大広間(千畳敷)や小座敷・大台所などで占められたはず。
  ところが文禄3年、淀城から指月伏見城に移築された建物群には
  大きな御殿は含まれなかったらしい。 となると… >

 
 
 
ご存知のごとく指月伏見城の築城は文禄3年の春に始まったものの、『駒井日記』にある淀城からの移築建物というのは…
 天守、矢倉、本丸の御門矢倉、二丸之御矢倉、御うえ、御風呂屋、御肴部屋、御小台所、御納戸、十五畳置之御座敷、御馬屋、二間之中二階矢倉、同廊下
といった建物しか記録がありませんで、このままでは(伝えられる郡山城からの移築を含めても)肝心の諸大名や明使との対面儀式を行う「御殿」がそろわない!…という事態になりかねません。

もちろん、それらが新築で整えられた可能性は存分にありましょうが、実に興味深いのは、上記建物の移築をはじめ、指月伏見城の築城には時の関白・豊臣秀次が大きく関与していたことが諸文献で明らかであり、しかも翌文禄4年にはまさに「秀次事件」が起きて、関白自身が切腹、一族・重臣らの粛清とともに、聚楽第と周囲の大名屋敷はいっせいに解体されて、伏見へ引き移された、ということが有名な歴史的事実とされています。

――― ということは、とどのつまり、実にタイミングよく、聚楽第の大広間(千畳敷)や二重御殿、遠侍、大台所などの巨大建築物がちゃんと調達できた……わけでありまして、さらに以下に述べる「聚楽第から移築の御三階櫓」の件も含めれば、何か、ここには(まだ解明されていない)秀次事件直前の事情が隠れているように感じられてなりません。

で、私なんぞが手前勝手に申し上げてしまいますと、聚楽第の大広間等が“そっくりそのまま”指月伏見城の二の丸に移築されることは、生前の豊臣秀次も了解していた!?…ことかもしれず、当時、世上に流れた秀次自身の朝鮮半島への派遣(派兵)のうわさも踏まえて申せば、(実は)秀次事件が起きても起きなくても、聚楽第の伏見城への「ある種の統合」は、すでに決定事項だったのでは??…といった暴言を申し上げてみたい誘惑にかられるのです。

岸上家伝来「京聚楽(京壽楽)」図 / 聚楽第の大広間の指図とされるもの


豊臣秀次像(京都・地蔵院蔵の模写)顔部分。ウィキペディアより

ご覧のうち、岸上家伝来の「京聚楽」図は、当ブログで何度も引用させていただいた川本重雄先生が「聚楽第の大広間の図ではない」と主張されたもので、ちょっと扱いに迷う感じもあるのですが、今回の記事で取り上げたい事柄は、この大広間を含めた御殿の全体が、指月伏見城の二の丸に<どういう風に移築されたか>であって、その際のキーポイントは「能舞台」ではなかったかと想像するのです。

何故なら、当時の秀吉が「能三昧」の生活であったのは有名なことですし、それは日本文化の復興といった意味合いもありましょうが、明使の接待の場としても重要だったのでしょうから、あえて私の想像を申せば…
おそらく、二の丸に移築された聚楽第大広間は、付設の「能舞台」が南の巨椋池を背景にした形だったのかも…と思えてなりませんで、そうなると移築の大広間の向きというのは―――

桜井成廣先生の名著『豊臣秀吉の居城 聚楽第伏見城編』に掲載の
「聚楽第内曲輪推定復元地図」の御殿部分を、縮尺サイズを合わせて合成したもの



しかし「遠侍」の向きが合致しないため、東側に玄関があった形へ。


すると、こんな風に、南の巨椋池を「能舞台」の背景にした形も可能に。

(※また、現地の発掘調査では、本丸西面の石垣と並行して南北に走る石組みの溝「石組溝08SD」が見つかっていますが、調査報告書によれば、この溝のすぐ上の土層から、かなりの太さで間尺がふぞろいな柵の跡「掘立柱柵(塀)03SA」が確認されていて、正体は不明とされたものの、これはひょっとすると、何かを見せないための「幕」を張りめぐらせた跡ではなかったでしょうか。
すなわち、白い石英斑岩を主体に、黒い粘板岩を裏込めや間詰石にした画期的な城中枢部の石垣工事が、城下や大名屋敷から丸見えになることを防ぐための「幕」であったと考えますと、一部の城にはそんな伝承もありますし、ここの石垣が完成した時点では、すでに「溝」は土中に埋められた後ということになり、そうした想定のうえで上記図や天守画イラストは作成しました)

(前回記事より)

 
 
<【 考程6 】本丸南端への聚楽第・御三階櫓の計画的な移築が無ければ、
  文禄5年に明使の沈惟敬が登った指月伏見城天守に「青貝の刻橋」
  =螺鈿(らでん)細工の?階段が最上階まで?続いていた…などという
  “ミラクル”は実現できなかったはず。>

 
 

【 ご参考 】螺鈿(らでん)細工とは

(※ご覧のバナーは、サイト「福井7人の工芸サムライ」様の記事
「螺鈿(らでん)とは?意味・値段・アクセサリー完全ガイド【2026年】」からの引用です)

さてさて、今回記事の焦点の「移築された聚楽第の御三階櫓」のお話が最後になってしまいましたが、私が<そのまま移築があった>と考える最大の動機とは、指月伏見城の天守について伝えられる、ほぼ唯一の逸話=「青貝の刻橋(きざはし)」の件こそが、「そのまま移築」を示した有力な状況証拠になるのではないでしょうか。

(『甫庵太閤記』より)
(秀吉は明使の沈惟敬を)六日御城へ召寄られ饗膳下され、其後殿守(天守)へめされけり。 青貝の刻橋(きざはし)を上りければ、段々に金銀を以てみがき立たる種々の調度、様々の屏風、几帳、御座敷の見事さ、興さめ詞(ことば)も及び難しと感じけり。
 
これが「そのまま移築」を示した有力な状況証拠…と申し上げる理由は、「青貝の刻橋」が螺鈿(らでん)細工をちりばめた(城郭としては異例の)階段と考えた場合、その天守が三重か五重かいずれにしても、螺鈿細工が一階から二階への一箇所だけ…などということはありえず、そんな有り様は秀吉の沽券(こけん)にかかわりましょうし、すべての階段が螺鈿細工で飾られていなければ、明使を天守に登らせるなど、指月伏見城の築城目的からして「本末転倒のこと」と言わざるをえないでしょう。

また、これは城郭ファンならばご納得いただけましょうが、天守の階段というのは、その傾斜角度や長さの点から、他の建物のために作られた階段を“流用”できるような代物ではありませんし、もし仮に“流用”があったとしても、肝心の螺鈿細工の方が、どこかの段だけ「無かったり」「文様がそろっていなかったり」したら、これまた興ざめであって、とても明使を登らせるわけにいかないでしょう。

――― という風に考えてみますと、現在の螺鈿細工の納期は小箱などの日用品でも二三ヶ月はかかるそうですから、天守のすべての階段に螺鈿細工をほどこすには、それだけで一年や二年はかかりかねず、ただでさえ、明使を待たせた状態での指月築城だったのですから、まず真っ先に「そのまま移築」が頭に浮かぶのは当然の事柄だったのではないでしょうか。
(※※具体的には元の天守を解体する工程の中で、階段を上下階から外して、そのまま丁寧に運んだのだと思われます)

さらには上記引用文の「段々に金銀を以てみがき立たる種々の調度、様々の屏風、几帳、御座敷の見事さ…」という部分は、まさに天守画イラストでもご紹介した「最上階に摩阿姫が住んだ聚楽第の御三階櫓」を十二分に想起させるもの、と思われるのですが、いかがでしょう。
 

<【 今回の結論へ 】本丸南端に移築された聚楽第の御三階櫓を、
  ほぼ真北から見下ろした状態で推定イラスト化 >


(※ご説明 石英斑岩の本丸西面の石垣は高さ5間を想定 / 二の丸南部には聚楽第の大台所や遠侍など。大広間は画面右外 / その先の坂下には、百閒廊下を下って、秀吉の日常の居所と思われる茶亭学問所=山里曲輪 / そのまた先の崖下には、膨大な工事量で掘りぬいた舟入堀が、比高差90mの御三階櫓に向かって一直線で造成されていた / それに応えるように、御三階櫓の最上階屋根は「南北棟」で舟入堀にちゃんと正面を向けていたはず / 遠方に見えたのは向島城、巨椋池、甘南備山など )

かくして、このように計画的に配置された築城プランこそ、指月伏見城や木幡山伏見城の出来栄えが当時、海外にも伝えられた要因だろう、と考えておりまして、私なんぞはこの指月伏見城こそ、豊臣秀吉の築城ベストワンのはず!と感じられてならない今日この頃です。

以上の結果として、右(南端)は最上階屋根が「南北棟」、左(北端)の移築専用天守は逆に「東西棟」で城下に正面を向けていて、そうした<<指月伏見城ならではの特殊事情の使い分け>>が後々にまで影響を与えて、彦根城や明石城での“同一パターン”につながったのではなかったのか、と。

(※さらに次回に続く)

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