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( 当サイトが申し上げる指月伏見城の中枢部分は、惣構えの中心点に
計画されたものであり、舟入堀の奥正面には天守が見えた… )
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【 発掘写真A 】石英斑岩が6割を占めた石垣跡。指月伏見城の二の丸東南端か
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…… 前回の記事では突発的に「一瞬の寄り道」をさせていただきましたが、いよいよ<指月伏見城の最終章>に突入したいと思いまして、そこでは下記の「明石城」こそ、当サイト推定の指月伏見城や移築専用天守の検討において、現存する城址の中ではいちばん参考になった城である、と白状いたします。
( 「明石城 公式ウェブサイト」様からの画像引用 )

それは何故か?というお話をすべきなのですが、その前に一つ指摘をさせていただきたいのは、ご覧の明石城の坤櫓(ひつじさるやぐら)と巽櫓(たつみやぐら)の様子と、前々回記事の彦根城の天秤櫓を比べますと、或る同じパターンが踏襲されていまして、それは当サイトが一貫して申し上げて来た「天守の向き」=最上階屋根の棟の向きについての解釈を踏まえれば、歴然とする事柄なのですが…
(17年前の記事より)
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↓ ↓ ↓
(彦根城の場合)
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(明石城の場合も)
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といった同一のパターンが踏襲されていて、これは天秤櫓の場合、一階の建物の構造とはまるで関係なく、左右の二階の屋根がそれぞれの向きに振り向けられたものであって、こうした左右の扱いが、今回の結論の大きなヒントになりそうなのです。
<【 考程1 】西国大名への牽制として築かれた明石城は、
あえて指月伏見城に似た地形(剛ノ池)を選んで築かれたか? >
播磨国明石城図(明石市立図書館/明石 郷土の記憶デジタル版より)

さて、私なんぞの勝手な受け止めかもしれませんが、上記の明石城の城絵図を最初に見た時、真っ先に「え…どうして」と感じたのは、城の背後に大きく広がる「剛ノ池」の存在でした。
( 同絵図のアップ / 墨書の名称は「鴻池」)

こんなに大きな池を(ガッツリと)城の背面に取り込んだ縄張りというのは、明らかに意図的な作業だったのでしょうが、明石城は元和5年、初代明石藩主の小笠原忠政(忠真)が二代将軍・徳川秀忠の命を受けて、岳父の本多忠政とともに三か所の候補地から「人丸山」を選んで築城を始めたそうで、本丸の坤櫓のすぐ裏には「人丸塚」があるほどですから、
< 本丸と「剛ノ池」の位置関係は徳川将軍も得心したもの >
という風に申し上げても構わないのでしょう。
ちなみに、現在の空からの撮影でも… 城の背後にはくっきりと剛ノ池が。
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(※ご覧の写真はサイト「飛行機からの景色~お城編 | y.syunjuu-part2のブログ」様からの画像引用です)
これほど存在感のある池が城の背面にあったとなると、思わず私なんぞは、指月伏見城の「治部池」や木幡山伏見城の「江雪堀」を連想せざるをえませんし、むしろ小笠原忠政や徳川秀忠は、そういう連想が起きることを積極的にねらっていたのではなかったか…とさえ感じてしまいます。
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( 現在の治部池 )

(※ご覧の写真は、Googleクチコミの森上智央さんの投稿からの引用写真です)
しかも先ほど、明石城は「三か所の候補地から選んで」築城したと申しましたが、選ばれなかった二か所とは「蟹ヶ坂」と「塩屋」であり、これらがどういう場所かと申せば、「蟹ヶ坂」は人丸山の2km西側のよく似た海沿いの地ですが、あえて違いを申せば「剛ノ池」ほどの巨大な池は見たらない!ことで、一方の「塩屋」は7kmほど東の海沿いですが、東西の丘に挟まれた狭い場所か、その西側の丘を選んだとしても、近世城郭を築くには手狭な印象がいなめません。
――― ということは、やはり「剛ノ池」こそが、人丸山に決着した最大の要因!?とも言えそうな状況証拠があるわけでして、小笠原忠政と徳川秀忠は意図的に指月伏見城の景観をまねて明石城を築城し、それを旧豊臣家臣の西国大名らに“見せつける”ことをねらったのではないか……と思われてならないのです。
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<【 考程2 】城下と正対した本丸&二ノ丸石垣の「白い石英斑岩」や
「黒い粘板岩の間詰石」は、この場所の“格の違い”を物語るものか? >
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【 発掘写真A 】
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さて、一方の指月伏見城の方ですが、ご覧の南北250m余におよぶ本丸の形状(=真一文字に城下と正対)をご覧いただいたのは、平成29年2018年から桃山町下野で行われた発掘調査(株式会社四門)で、南北ほぼ一直線の石垣跡が下記のごとく見つかったことを踏まえたものです。
( 同調査の報告書からの引用画像 )
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(※ご覧の図では、(株)四門2018『伏見城跡 京都市伏見区桃山町下野27-1の発掘調査』から
引用した図の中央に、便宜上、翌年の調査による図や写真を合成させていただきました)
ご覧の一直線の石垣跡と、二ノ丸の南東隅と思われる地点【発掘写真A】で後に見つかった「白い石英斑岩が6割を占めた石垣跡」や「黒い粘板岩による間詰石と裏込め石」の件も含めて考えますと、この一帯は(※正直申しまして、泰長老で出土した指月伏見城かと騒がれた石垣群とは雲泥の差で、美しく、堅固に築かれたもののようで)明らかに“格の違い”を見せつけた石垣と思えてなりません。
とりわけ、本丸西面の長大な石英斑岩主体の白い石垣(=野面石や割石を傾斜角度65度前後で積み上げたもの)の当時の姿を想像いたしますと、日本の城郭史上でも最上級の、空前絶後の見事さだったのではないでしょうか。
さらに注目の「黒い粘板岩による間詰石」
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そのうえ、令和4年2022年の発表で注目された「黒い粘板岩による間詰石や裏込め石」の方は、その目的が「耐震補強」と「空間の区別」の二つだと見られるそうで、例えば京都市文化財保護課の発表では、裏込めへの採用は石垣の耐震補強としつつも、間詰石の方は「石の隙間に黒い板状の石を詰めて縁取る工法を初めて確認」 「石垣に粘板岩を使用した例は、秀吉が伏見城とほぼ同時期に宇治川に築いた堤防「太閤堤」以外にみられない」 「贅(ぜい)をこらした装飾で城中枢部と大名屋敷との空間を区別するため」という風に解説されました。
この黒い粘板岩の使用時期としては、発表では慶長伏見地震で指月伏見城が崩壊した後の“反省”として導入された手法、としておられるようですが、一方の「贅(ぜい)をこらした装飾で城中枢部と大名屋敷との空間を区別するため」との目的から申し上げるなら、地震後に急ピッチで行われた木幡山伏見城の再建時よりも、むしろ、明国使節を迎えた朝鮮出兵の講和交渉を有利に進めるための「指月伏見城の(一年半以上も時間をかけた!)築城時」の方が、よっぽど相応しい仕上げである、と言えるものではありませんか。
ですから「黒い粘板岩の間詰石」が、今後、再建後の木幡山伏見城の中枢部でも数多く見つかるようなら、発表のとおり、なのでしょうが、そうでなければ、やはり<この場所こそが指月伏見城の中枢部!>と考えざるを得ない<<決定打>>になるのかもしれません。!……
――― と、ここまでのお話をまとめて、思い切って、当サイトが申し上げたい指月伏見城の本丸の様子を図示いたしますと、そこには下図のごとき…
< 左右=南北の両端に二つの天守があった可能性 >
をお示しする以外に結論は無いように感じるのです。
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(※なお、現地は一帯が、江戸時代の伏見城廃城から現代までのどこかの時点で、
大規模に「削平」された整地作業の疑いがあることは、一昨年の当ブログ記事のとおりです)
<【 考程3 】伏見城のあらゆる絵画史料は、京都方面から眺めた景観、
との大前提を踏まえれば、左右両端の天守はすなわち… >
指月伏見城天守を描いたと思われる画像
山本眞嗣『京・伏見 歴史の旅』1991年刊より
( 84頁「古地図に見られる伏見城天守閣 若林春和堂所蔵」)
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さてさて、一昨年から申し上げて来た「移築専用天守」の記事において、ご覧の画像に近い建物として白河小峰城の三重櫓を挙げながら、それを基にした山崎城天守の略画イラストなどをご覧いただいて来ましたが、最終的に、指月伏見城でどのような姿や位置で落ち着いたかと申しますと、それを考える手掛かりは「伏見城のあらゆる絵画史料は、京都方面から眺めた景観のはず」という事柄になりそうです。
例えば洛中洛外図屏風において「伏見城」はほぼ例外なく、右隻の第一扇など“右上隅”に描かれるのが常でしたから、当然ながら、その描写はどれも京都方面=北西側から眺めた景観になっていたはずで、上記の画像もまた、例外ではなかったのではないでしょうか。
したがって上記の画像は、これの右側に真一文字の石垣や多聞櫓が続いたうちの、いちばん左側=北端の部分を描いたもの、という風に解釈できそうでして、そうした考え方では、前述の<左右=南北の両端に二つの天守があった可能性>は、具体的には、こんな配置になるのではないかと思うのです。
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ご覧のうち、中央の大天守(台)はあえて「未完」という形を取ったのではないかと考えておりまして、何故ならば、これらを城下側から眺めた場合、左右の天守のあいだの大きな空間(東の空)は、間違いなく、その奥の桓武天皇陵の存在を無言のうちに示した格好になったはず…と確信するからです。
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(※次回に続く)
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