9月11日。えっ… 実績のない「現職」が、堂々と未来を語る。米国の選挙は未知の異次元に入ったようだ。見習うべき?
What? An incumbent with no track record is boldly talking about the future. It seems that the US election has entered an unknown dimension. Should we follow her example?
9月9日。出た ! ! 日本版MAGA(メイク・アメリカ・グレイト・アゲイン)宣言。高市早苗・総裁選出馬会見にて
「皆さま、私は、日本をもう一度、世界のてっぺんに押し上げたい。そう考えております。できるに決まってます。」
「増税王子」小泉進次郎の出馬会見は、事前にあの「失礼」質問もわかっていて指名し、カッコよく答えましたが、今からそんな調子では、先々、いったい誰を頼りに? この人、自分が言った公約から「増税王子」と呼ばれることが、自分で理解できないらしく…。
【 やはり気になる、コバホーク側近・大塚拓議員の直球発言 】
「小泉進次郎は、結局菅(義偉)さんがここ何週間かやっぱり小泉推しの雰囲気を醸し出していて、それを受けて小泉進次郎自身もすごいやる気になってるけど。人気があるんで、人気にあやかりたいと思って乗る議員はいると思うんですけど、ちょっと実力的にそういうのをやらせるっていうのはどう考えても無理なので」
(※この発言は、文春オンライン《総裁選出馬》小林鷹之氏(49)の“右腕議員”が語った本音からの引用です)
出馬会見で最後列の近くに座った大塚拓議員と、コバホーク支持の議員の皆さん。
どう考えても―――と言うのなら、私なんぞが申し上げたいのは、
<<進次郎がヤラセ会見だとしても、財務省出身の「コバホーク」も絶対にダメだっ、と言い切れる決定的な理由>>
をこの際、是非とも申し上げたいところです。
2020年、コロナ禍で苦しむ国民と事業者を救うため、総額111.6兆円という空前の規模の巨額補正予算を、「国債」発行で断行した安倍元総理と、その国債の大半を引き受けた黒田前日銀総裁(左)。
ケタ違いの総額にも関わらず、その間、国債の金利は穏やかに安定したまま推移したため、そのこと自体に、大方の「日本の経済学者」は驚きを隠せないでいる。… ! ! 何の悪影響も出なかったぞ、と。
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さて、まず思うのは、そもそも自民党の「刷新感」なんて、国民にはどうでもいいはず。
(※むしろ「刷新感」は財務省による国民への目くらましかも。)
――― いま大事なことは、この30年間、日本人の給料が全く上がらず、一人当りGDPは世界の並みの国以下に落ち込み、せっかくの円安も活かせないほどに国内産業がしぼんでいて、「富」は多国籍化した企業や政府機関に仕舞い込まれて、残った財産や土地や技術を外国に切り売りするしか先の道が見えない……
それなのに国民負担率は5割を超えようとしていて、ちょっと物価が上がれば、もう普通に仕事をしてもまともに暮らせない「余裕の無い日本」を、なんとかしてくれっ、という国民の悲鳴に政治が答えられるのか、いや、政治や政府は無策(=無能・処方箋なし・自分らの金儲けだけ…)とあきらめるのか、最後の分かれ目に来ているのではないでしょうか。
(※もし選択を誤って、悪い方に行ってしまったら、その先は、欧米諸国と同様に、背に腹は変えられず、暴動や革命的騒動……なのかも。)
そんなことにならないための、最後の希望を語っているのが、自民党内の積極財政の勉強会「我が国の財政政策~骨太の方針2024に向けて~」講師:西田昌司+柴山桂太であろうと、今は本気で感じているところでして、現に「国債による111.6兆円もの補正予算」が何のハレーションも起こさず、みごとに日本社会に応急措置のマネーを行き渡らせた事実!を思えば、給付金は返済不要ですから、私なんぞはこんな風に“皮膚感覚”として感じざるをえないのです。
【 良いパターン 】
100兆円でも200兆円でも、自国通貨による「国債=打ち出の小づち」をどれだけ振ろうとも、それが社会や国内産業が求めている「量」とちょうど見合う、ほど良い量で社会的に<<消化される>>ならば、何の悪影響も残さず、国民側の「資産」に化けてずっと社会の役に立つんじゃないのか…
【 悪いパターン1 】
最初はリーマンショック対策だったものの、これが「GDP急拡大」という国威発揚にも使えることがわかって、中国は社会的な必要性を問わない過剰な財政投入に狂奔。そしてある日、各地での惨状を独裁者・習近平が「恥ずかしい?…」と気付いたことから、中国経済の大混乱は始まったような…
【 悪いパターン2 】
一方、日本の財務省が国債の60年償還とか、プライマリーバランスとか、ワニの口とか、世界で通用しない異様な尺度に固執して、国内産業やインフラに必要な国債を出し渋り続ければ、税収が先細りになって、国はますます「増税」しかやることが無くなり、国民負担率は破滅的なレベルに達する…
その国の社会がそのとき必用とする「国債」は、政府側の勘定がどういう数字になっても、しっかりと出す!―――というのが、自国通貨での国債を発行できる政府の正しい国家運営のあり方で、金融市場もそこに余計なギャップが無ければ何も言えない、との法則を、コロナ禍の111.6兆円が我々に証明してくれた格好です。
もう財務省には劇薬を飲み込むような「意識改革」をしてもらわないと、日本社会の維持さえも手遅れになる予感がただよう中で(→個々の財務官僚には感じ入るものがあるのに組織の論理で……)これを打破する「政治家の仕事」=財政法の改正が急務であり、財務省がそうした改革を拒否・妨害し続ける場合は、総理大臣は政権をかけて<<引導を渡す>>ことにもなりましょう。
!! そんな大それた決起行動、安倍元総理も出来なかったことで、財務省出身の若いコバホークに出来ますか。……と言うより、財務省がそんな立場に追い込まれないための「防波堤」「弾除け」「目くらまし」で仕立てられたのが、コバホーク、なのでしょう。
ですから、コバホークを支持する、ということは、<<真の病巣(=財務省)!!!>>を放置したまま、あちこちのマッサージだけで健康体になろう、という政治的なあきらめ以外の何ものでもない、と見えます。
しかし有権者や党員は、こんな状態で、日本の「未来」をあきらめるわけには行きません。この鬱積した怒りは、コバホーク支持の議員(国民の敵?)に必ずや、向かうのではありませんか。
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また、どなたかがやっているのを見かけないため、先日の産経新聞の調査で「党員票の6割を高市早苗さんが占めた」という記事の内容(票の獲得率)を、第一回目の投票結果に反映させたシミュレーションをしてみますと、なんと、なんと……!!
これは、おなじみの青山繁晴さんが残念ながら推薦人が数に届かず、その分が高市さんに乗っかり、仮に7人が立候補できて議員票は全員が同数とし、党員票はコバホークから2~3票ずつ少なくなると仮定した場合のものですが、おそらくは、これに似た調査データが早くに自民党内に出回って、今回の大騒動(=現職のキシダ総理の惨敗予測と不出馬や、十人以上の出馬表明、推薦人引き剥がしの異常な高市包囲網とコバホーク現象など)の導火線になったのではないかと。 そしてエマニュエル退任も、これが決め手か、という気もして…。
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(前回ブログ記事より) 木幡山時代の異様に広くなった二の丸(西丸)。
ほとんどが桓武天皇陵の本体で占められていたのかも…
【 合成写真によるイメージ画 】
ほとんどが桓武天皇陵の本体で占められた二の丸(西丸)を、
南側の帯曲輪から眺めれば「透き塀」ごしに巨大な円墳が!?…
< 続々々・すぐ東隣りで。
木幡山城は桓武天皇陵に「しがみつく」ように築かれた?
…… 天守は徳川再建後とほぼ同じ位置で >
――― さて、前回の記事では、指月伏見城の築城の手順として、桓武天皇陵の「参道」を主軸にした「豊臣秀吉の隠居屋敷」が最初に出来て、それがその後も茶亭学問所や山里丸に引き継がれ、逐次、計画的に指月伏見城が出来上がった可能性を申し上げました。
で、そのラストでお目にかけた上記の作図(図解)は、慶長伏見地震の直後に、すぐ東隣りで!再建された「木幡山伏見城」の二の丸(西丸)の様子を想像してみたものです。
ご注目いただきたいのは、作図・作画のベースにした加藤次郎先生の復元図もそうですが、伝来の城絵図=有名な浅野文庫蔵『諸国古城之図』などで南西の大手門から入城した場合、多くの屈曲を経ながらも、二の丸(西丸)南側の帯曲輪をさも“二の丸を迂回する”かのように通るルートが、本丸に至るメインの城道になっております。
こういう本丸への至り方(迂回?)には、私なんぞは若干の違和感を感じつつもずっと見過ごしてまいりましたが、この度、これが桓武天皇陵の「参道」に由来する可能性が出て来たことで、実は二の丸(西丸)はほとんどが桓武天皇陵の本体で占められていたために、それを「迂回」する形にならざるをえなかったのだ、という風にも言えそうです。
ホントかよ……とお感じの方もいらっしゃることでしょうが、例えば豊臣時代の木幡山城の二の丸(西丸)について、「御殿」の類いで何か記録が残っているかと申せば、意外にも、何も無い ! ! …ようでありまして、かの桜井成廣先生の著書でも、淀殿が醍醐の花見のころに「西の丸様」と呼ばれた以上は御殿があったはず……といった程度の書き方にしかなっておりません。
(※ちなみにこの時期、淀殿と秀頼は、話題の「京都新城」にいた期間も多かったらしく、最後に木幡山伏見城にいたのは約1年ほど)
(※また木幡山城の二の丸(西丸)の具体的な建築例としては、二の丸太鼓櫓とか、鐘つき堂とかが伏見城の戦いの記録に登場するだけであり、しかも何故か、この戦いでは本丸が落ちた後も二の丸は残っていたらしく、不思議です。→そもそも攻略の必要が無かった?)
(※そして逆に、徳川再建後は二の丸(西丸)にちゃんと御殿が建てられて、そこに一時は徳川家康が入ったり、城代屋敷になったり、といった記録があります)
そしてここでもう一つ、留意すべき重大な要素が、前回もご覧いただいたPDF「指月城跡・伏見城跡 発掘調査総括報告書」にある、大正時代の伏見(及び徳川再建伏見城跡)測量図の本丸跡の「形」でしょう。
このように本丸跡の「形」が現状の遺構とずいぶん異なり、また本丸と二の丸の「広さ」を比べますと、むしろ二の丸の方が1.5倍も広かった!?となるようでは、事は重大と言わざるをえません。
――― そこで試しに、本丸跡の「形」を、同縮尺で、冒頭の図にダブらせてみますと、やはり……
!! ご覧のとおり、大正初期まで残っていた本丸跡は、加藤先生の復元図よりも極端に小さかった実情が浮き彫りになり、「広さ」で申せば、二の丸こそが木幡山城の中心であったかのような様相でありまして、全く驚くばかりですが、この結果、前述の本丸に至るルートは、加藤先生の図よりも若干、途中が東側にズレていたのかもしれません。
で、まだまだ疑問をぬぐえない方々のために、前回も引用のレーザー測量図(=明治天皇稜のある現状の遺構)をダブらせて、ダブルチェックをしてみますと…
!!――― という風に、大正初期の本丸跡はその「北面」と「西面」において、現代のレーザー測量図とほぼピッタリであり、さらには、本丸跡の南西側に大きな「盛土」を行って、明治天皇稜は完成したのだ……という経緯もここから見えて来るようです。
さらに、この一連の検討からは、実にオモシロイ事柄も判明してまいります。
( 洛中洛外図屏風に描かれた唐花文様の木幡山伏見城天守と、
当サイト復元の二条城寛永度天守=徳川再建伏見城天守のそのまま移築 )
< 木幡山伏見城の天守は、実は、徳川再建後とほぼ同じ位置だった >
私なんぞもこれまで、木幡山伏見城の天守は伝来の城絵図のとおり、豊臣流の築き方で本丸の北西隅に設けられたものであり、一方、その後の徳川再建による天守というのは、本丸の中程やや北寄りに独立(単立)式天守で築かれた、という見方を信じていて、疑いもしませんでした。
ところが、ここまでにご覧いただいた図を、改めて突き合わせますと…
秀吉が再建した木幡山伏見城と、徳川幕府による再建後(レーザー測量図の現状)は、
天守台の位置は、ほとんど変わらない!?…という意外な結論も。
かくのごとく並べてみますと、二つの時代の天守は、必ずしも「別々の場所にあったもの」とは言い切れないようなのです。!
――― これは結局のところ、加藤次郎先生の復元図が本丸を実際より北側に広く復元したために、結果的に、加藤先生が目撃した遺構=徳川再建の天守台跡が(伝来の城絵図に比べますと)あたかも本丸の中央寄りに位置を移したかのように見えてしまい、それが後々の議論にも大きく影響して来てしまった……ということなのではないでしょうか。
もちろん各々の天守台の「形式」は、別々のもの(※本丸隅角の複合式天守と、本丸石垣とは間を設けた独立式天守)であったことは従前どおりでしょうし、ここで申し上げたいのは「位置」に関する思わぬ符号なのです。
古くから言われて来たように「伏見城は桓武天皇陵をつぶした」のではなくて、
むしろ桓武天皇陵に「しがみつく」ように再建がなされたのでは?―――
さて、以上のごとく見てまいりますと、これは秀吉が伏見城を築いた「動機」そのものにも関わる事柄でしょうが、秀吉はいったい桓武天皇陵をどのように見ていたのか? そしてそれを城内でどう扱っていたのか?が非常に大きなテーマとして浮かび上がったようで、興味が尽きません。
と申しますのも、世間的には「伏見城の築城が桓武天皇陵をつぶした」と古くから言われて来たそうで、江戸時代の山陵学者・蒲生君平(がもう くんぺい)が著書『山陵志』において、
「桓武陵は柏原にあり。(中略)すなわち陵の在るところは、想うにまさに城の中央に在るべし。けだし城を築きし時、毀壊せらる。」
という風に「毀壊(きかい/こわしやぶる)」という言葉を使って、桓武天皇陵は秀吉の伏見築城によって跡形もなく壊されてしまったのだ、との解釈を示したため、以後、現代に至るまで、そういう解釈が広く受け入れられるようになりました。
しかし、しかし、ここまでご覧いただいたとおり、秀吉の木幡山伏見城は本丸より二の丸(西丸)がずっと広かったのかもしれず、しかも城道は二の丸を「迂回」するように本丸に至っていて、二の丸の内部は「御殿」の存在が定かでなく、伏見城の戦いでは攻略目標にもならなかった?…などとなれば、
二の丸(西丸)は、ほとんどが桓武天皇陵の本体で占められていたのかも。
という冒頭の想定が現実味を帯びて来て、
秀吉がやったことは、むしろ伝承とは「逆」ではなかったのか?
伏見城の築城によって「桓武天皇陵をつぶした」のではなくて、
むしろ陵墓に「しがみつく」ように伏見城を再建したのではないか―――
といった見方にたどり着きそうなのです。
それは何故なのか……という問題は、前回記事の「A.動機は何だったか」に大いに関わりそうですし、宿題の「深草」説の件も含めて、次回に、じっくりと申し上げてまいりたいと思うのです。
で、こうまで申し上げますと、かの慶長伏見地震の際に秀吉らが避難した先というのは、ちょうど後の木幡山城の二の丸、桓武天皇陵の本体の上!!だったのでは……という気もしてならないのですが、どうなのでしょう。
( 月岡芳年『大日本名将鑑 豊臣秀吉』=歌舞伎の地震加藤の場面を描いた武者絵より )
(※次回に続く)
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