カテゴリー: 秀吉流天守台・伏見城・伊勢亀山城・津城

もしも屏風絵が三連続 ! ! の唐造りならば、木幡山伏見城天守は「ほらの間」を含めて史上最多階層の天守かも…

【 実感 】こんなに醜い(みにくい)態度の総理を、なおも支持したい一部の左翼リベラルは、醜いこと、この上なしの状態へ。………
 
【 追記 】そして、その一方で―――
 
いまや国民の期待=玉木(連立)政権を作るための高市自民党総裁、というアイデアに大賛成です。 これこそ、ただちに積極財政を取り戻して、日本の国内産業を復活させられる、唯一無二の道ではないでしょうか?

思えば、ここ何年か=安倍元総理の暗殺以降の政治というのは、「統一教会」や「裏金」キャンペンーンによる安倍派つぶしなど、要するに、
< 長年の噓(うそ)を証明された形の「財務省」の、逆恨み(さかうらみ) >
に支配されて、岸田文雄(長く冷飯食いだった宏池会から)→石破茂(ずっとアンチ安倍の窓際政治家)を味方に引き込んで来たのだ、と感じざるをえない昨今ですが、それももう弾切れ(あとは野田佳彦くらい?)が近いようで…

2020年、コロナ禍で苦しむ国民と事業者を救うため、総額111.6兆円という空前の規模の巨額補正予算を、「国債」発行で断行した安倍元総理と、その国債の大半を引き受けた黒田前日銀総裁(左)。 ケタ違いの総額にも関わらず、その間、国債の金利は穏やかに安定したまま推移し、何の悪影響も出なかった( ! ! )ため、財務省の長年の噓(うそ)が、安倍元総理によって証明された形になっている)
 
財務省の間違いを問う日本人は、一人残らず、黙らせたい!…という財務官僚のさもしい精神に、いつまで付き合わなくてはいけないのか……… こんな、くだらない政治力学は、早く打ち止めにすべきだと、心底、思います。
 
財務省はいまや、現代の関東軍です。 癌(がん)のように勝手に増殖(増長)する官僚組織、なのですから。 → シビリアン
・コントロールを。! ! !

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【 驚愕の…追々記 】人権弾圧の極悪国家・チャイナの呉江浩大使に「笑顔」を向ける、石破総理の妻・佳子(よしこ)夫人。 しかも「紅い」リボンのブラウスまで着て。

この総理夫人が利用されやすい馬鹿(バカ)でないなら、すべては「意図的」なのだ――と解釈するしかないでしょう。 空恐ろしいばかり…の石破政権です。 この連中はひょっとすると、日本国民を痛めつける事にも、うっすらと、喜悦(よろこび)を感じているのかも。

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さて、いよいよ「伏見城」の話題に戻りたいと思うのですが、その前に、前回に申し上げた安土城の「図1-3調査区平面図の建物」が「当サイトの天主東側の懸造り舞台とどういう関係になるのか」との宿題については…

思い返せば、調査の関係者の方が、これは古建築の先生にも打診してみたい…と報告会の場でおっしゃっていた事柄ですから、そうした筋からの見解が出て来る前に、私なんぞの“かなり異端的な(はずの)アイデア”を先に申し上げてしまうのは僭越(せんえつ)極まりないことでしょう。

ただ、報道記事の中で小和田哲男先生が「礎石は天主の礎石とほぼ同じ大きさで、それなりの重要な建物だったと推定される。(場所が)天主直下ということもあり、重要人物の建物と推定される」(読売新聞オンラインより)と解説されていたものの、「重要人物」と言っても、問題の建物は天主と台所の中間地点にあるため、織田信長以外の人物は、ちょっと想像できない…?ようにも感じる点だけを申し上げて、それ以外は、また折を見てお話させていただきたく存じます。



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それでは「伏見城」の話題に戻りまして、天守「そのもの」に焦点を絞りたいのですが、かつて木幡山伏見城の天守をめぐっては、5年前の記事(伏見城天守と岡山城天守が同一デザイン?→「黒い天守」の始まりは伏見城ではなかったか)で…

ご覧のような比較を強調しまして、この両天守は、
・最上階に高欄廻り縁が無い
・中層に大きな張り出し出窓を設けている
・二重目の似た場所に唐破風の出窓がある

といった共通項のある、ともに三つの入母屋屋根を重ねた構造の(まさに豊臣秀吉流の)望楼型天守であり、しかもこの木幡山伏見城天守から「黒い天守」は始まったのではないか?…などと申し上げた経緯があります。

そういう立場から申せば、今回の記事のテーマは<自己矛盾>を起こしてしまう内容になりますから、あえて話題にすることも無いのかもしれませんが、昨年中の「唐花文様」の件でも触れたように、木幡山伏見城天守というのは、かなり特殊な歴史的な立ち位置の建築だったのかも……との目配せも必要な気がしておりまして、そこで今回は、あえて「両論併記」という形でも取り上げてみたいのです。
 
 
 
< もしも屛風絵が三連続 ! ! の唐造りならば、木幡山伏見城天守は
 「ほらの間」を含めて史上最多階層の天守かも… >

 
 

洛中洛外図屏風(個人蔵)より



↓      ↓      ↓
ご覧の上三重を、三連続の唐造り?という風に考えた場合、

岩国城の唐造り(南蛮造り)天守を参考にしつつ、柱間の寸法などは豊臣大坂城や
肥前名護屋城の手法を踏襲しながら、本当にそれを実現しようと思ったら、
木造部分だけで8階建て
ということにも………


といった結果になりまして、外観ではっきりと唐造り(南蛮造り)を「三つ」見せるためには、図のごとく、もはや望楼型とも言い切れないスタイル(層塔型とのミックス?)にしないと、構造的に納まりがつかず、成立しないことが分かるだけに、この件はけっこう重大な話のきっかけになりそうなのです。

そして「木造部分だけで8階建て」になるのは、岩国城天守で「ほらの間」と呼ばれた屋根裏階が、必ず唐造りの下にあって、葺き降ろしや入母屋の屋根がすぼまる空間を作っているせいですが、洞穴(ほらあな)の「ほら」ですから、ここには窓がほとんど無かったのではないでしょうか。

【 ご参考 】 岩国城天守の場合
古図に基づく藤岡通夫先生の作図(『城-その美と構成-』1964年より)

思えば、このような天守の工夫というものは、前々回や前回の記事の「顔を突き出した大櫓」や「犬山城天守の唐破風の出窓」もそうでしょうが、
 <より高い階で眺望を得つつも、そこから足元の監視や銃撃も行いたい>
との欲張りな願望を満たすための工夫と、その様々なバリエーションであった、と言えそうであり、同じく…
 1.望楼型天守の「十字形八角平面」(豊臣大坂城天守など)
 2.下三重を同大にした、登りやすい第二の望楼(水戸城御三階櫓など)
 3.層塔型天守の「唐造り(南蛮造り)」(小倉城天守など)
も全く同じ工夫のバリエーションであったのかもしれず、つまりこれらは、天守の歴史を通じて、ず―――っと工夫が繰り返されて来ていた!?のかもしれません。

そう考えて行きますと、三連続 ! ! 唐造りの木幡山伏見城天守は、さも、天守の歴史の“総決算”を示した建築のようでもあって、ちょっと見過ごせない気分になるのです。

 
さてさて、当ブログは10年前の記事(いわゆる「唐造り」は本来、意匠なのか? 防御装置なのか?)の頃から、唐造りの「発祥」に興味を持って来たわけですが、とりわけ…

当サイト「2011年度リポート」より


( 朝鮮半島の南岸には数多くの倭城天守が築かれた )


順天城の攻防戦などを描いた「征倭紀功図巻」の天守の描写


6年前の当ブログ記事より)
→ 唐造りは本来は防御装置、との仮定で「弾道」を書き加えれば…

すなわち、朝鮮出兵で築かれた順天城の天守が、まるで岩国城天守(※後の関ヶ原合戦後の建造!)のごとく、二重目が唐造りのように描かれたため、ひょっとすると、朝鮮出兵の戦局=倭城による占領地の防衛こそ、天守の唐造りが最も多用された戦いであり、他の倭城天守も、そろって唐造りに ! !?なっていたのではなかったか……という思いから色々と申し上げた次第です。

それはもちろん、倭城天守が置かれた特殊で苛酷な状況が「唐造り」を要求したのでしょうが、倭城についての研究では、高田徹先生が数多くの論述をされていて(→ 正直に白状しますと、天守の本質を政治的モニュメントと思う私なんぞは、高田先生の天守論には賛同できない部分もあったものの)ここへ来て、<倭城と唐造り>という観点では、先生の指摘をすなおに受け止めざるをえず、あちこちで引用された一文を、ここに改めて引用させていただきますと…

(『倭城の研究 第2号』所収 / 高田徹「倭城の天守について」より)

(倭城の天守について)国内の城郭で類例を見出し難いことは、天守台が外郭線の一角に組み込まれ、軍事上では最前線と言うべき要地に構えられている点である。 天守が虚飾的なものであれば、このような軍事的な要地をまかされる筈はなく、軍事機能での期待が如何に大きかったかを如実に語るものである。 恐らく、作事面でも様々な軍事機能が付加されていたものと思われる。
 
 
という風に、先生ご指摘の「作事面でも様々な軍事機能が付加されていた」うちの一つ!として、唐造り(南蛮造り)がそこで大発展を遂げていたのではないか……と思えてならないわけです。

( そんな倭城天守の状況を、最も分かりやすく見られるイラストとして… )

(→ !! 度重なる画像引用で申し訳ございません。
サイト「超入門!お城セミナー 第102回 国外にも日本人が造った城があるって本当?」
に掲載された、香川元太郎先生の西生浦城イラストレーションです )


 
<< ならば、三連続の意図とは? >>

かくして、今回の最後に申し上げるべきは、もしも屛風絵が三連続の唐造りであった場合、そんな姿の木幡山伏見城天守を、最晩年になって建造した豊臣秀吉の意図は何だったか――― について、何事か申し添えなければいけないのでしょう。

時期的には、再び朝鮮出兵の講和の場になるかもしれない城の天守として築かれたのですから、秀吉らの側としても、三連続の唐造りが「倭城天守」を使者に想起させることは十分に想定していたはずで、言わば、再出兵に次ぐ再出兵をにおわせる<恫喝(どうかつ)>の意匠とも言えそうです。

しかしその一方で、昨年の記事でも申し上げたように、この天守の壁面には、秀吉としてはかつてない種類の「唐花文様」をちりばめていたわけで、それが「天下布武の完結と終焉を意図したもの」だったとすれば、後の徳川家康の「元和偃武(げんなえんぶ)」を先取りしたような<泰平の世>の意匠と申せましょう。

そのことと、三連続の唐造りが与える最前線の戦場イメージとは、この上ない大きな落差があるわけで、そんなものを一緒くたに同居させた秀吉の天守デザインというのは、難解というか、混乱というか、とても一筋縄では解釈できそうにありません。

……… ただ唯一、可能性を感じるのは、いわゆる「ダブルミーニング」でありまして、すなわち外国(人)向けには“倭城天守の親玉”のイメージで脅迫的にせまり、それと同時に、国内向けには“桓武天皇がひらいた平安京の守護者”のイメージをふりまく、といったダブルミーニングが意図されたようにも感じるのですが、果たしてどうなのでしょう。
 

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