そこで、このまま来年4月からの食料品の消費税1%を実現したら、今度は、再来年の参院選に向けて<<食料品1%だけは永久に固定化する衆参の国会決議>>をアジェンダ設定してみたらどうですか??
これが財務省との約束違反だ何だと言われても、アベノミクスがつまづいた消費税の「増税ショック」=財務省による悪政を繰り返すよりは、ずっといいのではありませんか。
それは現在のような史上最高の税収と、大きな経済成長が続けば、財源論はまるで必要ないわけですし、そのための新「骨太方針」と370兆円投資なんでしょうから。
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現に、片山さつき財務大臣は昨日、「必要な予算要求は十分行える仕組み。もはやシーリング(=天井や限度)と呼ぶべきものはない」とまで発言したそうで。!…………
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( 前回記事より / 本丸南端に移築された聚楽第の御三階櫓を、
ほぼ真北から見下ろした状態で推定イラスト化 )
(※ご説明 → 石英斑岩の本丸西面の石垣は高さ5間を想定 / 二の丸南部には聚楽第の大台所や遠侍など。大広間は画面右外 / その先の坂下には、百閒廊下を下って、秀吉の日常の居所と思われる茶亭学問所=山里曲輪 / そのまた先の崖下には、膨大な工事量で掘りぬいた舟入堀が、比高差90mの御三階櫓に向かって一直線で造成されていた / それに応えるように、御三階櫓の最上階屋根は「南北棟」で舟入堀にちゃんと正面を向けていたはず / 遠方に見えたのは向島城、巨椋池、甘南備山など )
【 +補足のご説明を。】
なお上記の天守画イラストの中段から遠景については、かつて桜井成廣先生が著書『戦国名将の居城』や『歴史読本』昭和52年6月号で紹介された屛風絵を参考にしております。
(説明1.下図の右側)→ 木幡山伏見城の山里曲輪にあったとされる「茶亭学問所」の描写。これが指月伏見城の段階からその山里曲輪にも(=さらにその前身の隠居屋敷の頃から同一の場所に)建っていたはずであり、それこそ指月築城の前後にまたがる有力大名との茶会で使われた建物であろう、と想定しました。
ただ、屏風絵の描写のままでは、どうにも“雨漏り”の心配が気になって仕方ありませんで、イラストの方は屋根の構造を少し変更しています。
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(説明2.上図の左側)→ 同屛風の舟入堀の南端に描かれた「長橋」も、指月伏見城の段階から存在したものと考えました。 この長橋については『甫庵太閤記』の学問所ノ記にも記述があり、巨椋池を眺めた時の景色のアクセントになっていて「日暮らし」と称されたそうです。
【 +前回記事のラストより 】
…… 以上の結果として、右(南端)は最上階屋根が「南北棟」、左(北端)の移築専用天守は逆に「東西棟」で城下に正面を向けていて、そうした<<指月伏見城ならではの特殊事情の使い分け>>が後々にまで影響を与えて、彦根城や明石城での“同一パターン”につながったのではなかったのか、と。
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左右に建つ「覇道」と「権威」の天守。天下布武の維新碑であった天守の
「意味の変容」を見せつけた城か=指月伏見城
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ご覧の「覇道」と「権威」は必ずしも対義語ではありませんので、ちょっと座りが良くないものの、このように指月伏見城に二つの天守を……しかも山崎城や石垣山城に立ち上がった「移築専用天守」と、天皇の行幸を二度も得た「聚楽第の御三階櫓」を並べたことの意味は、この城こそ、羽柴(豊臣)秀吉の「覇道」と「権威」を総括・総決算した城である、といった意味に感じられてなりません。
そして二つの天守が狛犬(こまいぬ)のように建った向こう側には、平安京をひらいた桓武天皇の陵墓がある、という形にしたのは、史上空前絶後の築城プランでしょうし、ひょっとすると、未完の大天守台上には後の木幡山伏見城天守(=唐花文様で飾られた大天守)がすでに準備されていたのかも…と思えば、この城の特殊性が際立ちそうです。
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前回の記事でも「聚楽第と伏見城との、ある種の統合…」などと暴言を吐いてしまいましたが、やはり私なんぞは、指月伏見城はただ単に朝鮮出兵の講和交渉を有利に運ぶための、明使を威圧するための急造の城…とは言えない(それでは納まりきらない)要素を満載していたように思えてなりません。
と申しますのは…
< 【 考程7 】主に羽柴(豊臣)秀吉の「覇道」をめぐって。
秀吉の覇道を語るうえで欠かせない「小栗栖」「明智討ち」「桓武天皇と
平安京」「武家平氏の総領格を意味した上総介(平高望や織田信長)」
といったキーワードから。 >
では初めに、織田信長(上総介)を本能寺で殺した明智光秀が、中国大返しで攻め寄せた羽柴軍に敗れて、琵琶湖畔の坂本城をめざして敗走する途中、土豪の落ち武者狩り(※地元の伝承では小栗栖城の飯田一党の襲撃)で落命した「小栗栖」の位置を、当ブログで何度もご覧いただいた地図上に示しますと、なんと…
→ → 光秀の逃亡ルートが、桓武天皇稜の兆域に踏み込んだのは明らかのようで、
その直後に、土豪の中村長兵衛や飯田一党から致命傷を受けたことになる ! ! …
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これは例えば、宣教師が書き伝えた明智光秀の最期を読みますと、大河ドラマ「豊臣兄弟!」で羽柴秀長が書きまくった「書状」のレベルをはるかに超えて、畿内の民衆をすべて巻き込んだような「大規模なプロパガンダ戦」=織田信長は生きていて明智光秀には懸賞首!がかかっている…といった謀略戦が行われたかのように感じる書きぶりなのですが、その虚実は別としても、上記図の逃亡ルートに対して、ちょっと言葉にならない「怖さ」を感じてしまうのは私だけでしょうか。
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現に秀吉が後に作らせた新作能「明智討」=光秀を討って主君信長の恨みを晴らした山崎合戦を描いた曲では、最後は、小栗栖で秀吉自身が光秀を討ち取った話になっていて、もし大規模なプロパガンダ戦が本当だったとすれば、それはあながち嘘ではなかった?のかもしれませんし…
ただ、そんな秀吉にしても、武家「上総介」と縁のある「桓武天皇稜」に足を踏み入れた直後に、光秀は落命した、という不思議な成り行きに、一種の霊感を感じたとしてもおかしくは無かったのではないでしょうか。
では桓武天皇と「上総介」の関係についてご説明しますと……
< 桓武天皇の曾孫・高望王が平朝臣を与えられ、いま話題の「臣籍降下」で
「上総介」として上総国武射(むさ)郡に下ったまま、一族で開墾事業を始め、
在地勢力と結びつつ開墾地を「自衛するために」武士団を組織したのが、
武家平氏(坂東平氏)の祖・平高望(たかもち)だった。
この人の子孫に平将門、平清盛、伊勢新九郎(北条早雲)、北条氏康らがいて、
織田信長は「上総介」を名乗り、秀吉自身も平氏を名乗っていた… >
平高望(高望王)=生没年不詳。ただし勅命で平朝臣を与えられて
上総介に任じられたのが、平安前期の寛平元年(西暦889年)

(ウィキペディア「平高望」より抜粋)
…… 当時の上級国司は任地に赴かない遥任も少なくなかったが、上総介に任官した平高望は、長男国香、次男良兼、三男良将を伴って任地に赴き、昌泰元年(898年)には上総国武射(むさ)郡に屋形を造営し本拠地とした。 高望親子は任期が過ぎても帰京せず、国香は前常陸大掾の源護の娘を、良将は下総国相馬郡の犬養春枝の娘を妻とするなど、在地勢力との関係を深め常陸国・下総国・上総国の未墾地を開発。自らが開発者となり生産者となることによって勢力を拡大。その権利を守るべく武士団を形成してその後の高望王流桓武平氏の基盤を固めた。
【 ご参考 】
上総国の旧武射(むさ)郡には「屋形」という地名がありまして、
平高望ゆかりの「屋形神社」が鬼門の方角に創建されたとの由緒から、
この「屋形」地区こそ高望らの本拠地であったと見られています。
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(現地の空撮写真)

ご覧のとおりの海沿いの土地でありまして、見るからに、と申しますか、ことさらに説明が無くても、高望親子が未開墾の土地を進んで選んでいたことが如実にわかる状況でしょう。
ですから「臣籍降下」とはいっても、期限が来れば都に帰る国府長官ならいざ知らず、そこに「根をはろう」とするなら、在地勢力とぶつかるような真似は絶対にできなかったうえに、そこで得た開墾地(財産)は武力で「自衛する」しかなかった状況もよく分かろうというものです。
面白いことに、これは武家の清和源氏(清和天皇の孫・経基王=源経基が臣籍降下して源氏を称した一族)が、どちらかと言えば、都の藤原摂関家に力を貸す武門の家として隆盛したのと対照的であって、一方の武家平氏は“フロンティア精神”と申しますか、都からずっと遠い土地で、自前の領地と、自前の軍事力を育て上げる形で大きくなっていたわけで、そこからは「平将門」のような存在が生まれ、また海洋国家を見すえた福原京造営や遷都を強行した「平清盛」が現れるなど、ある一貫した生き方を見せた家系……という風にも言えるのではないでしょうか。
そうした中で、平高望が任官した「上総介」は、武家平氏にとっては“総領格”を意味した官職になっていたと云います。
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さて、ならば織田信長は、どうして尾張から遠い東国の上総国のナンバー2の官職「上総介」を名乗ったのか?という問題は、以前から言われて来たものの、ここまでご覧いただいたように、そこには<桓武平氏による武家の成り立ち>が大きく関わっていたのではないでしょうか。
現在のところ、源氏にも関わらず代々「上総介」を名乗っていた今川家の当主・今川義元への“対抗心”との解釈が有力らしいのですが、私なんぞが気になるのは、やはり<武家平氏>への信長自身の思い入れと、そしてもう一つ、上総国が常陸国や上野国と並ぶ「親王任国」=親王が国司を務める格上の大国ということが、律令制下で定まっていたことも影響したかもしれません。
すなわち、上総国では、親王が必ず国府の長官であるものの、ナンバー2の「上総介」が事実上、現地の長官であることも制度的に決まっていた、という形が、この上なく、信長の気に入っていたスタイルだった!――からではないですか。
これは例えば、尾張国の守護・斯波氏のもとから守護代・弾正忠家の信長が尾張統一を成したことや、足利義昭を奉じて上洛戦を行い幕府を再興しつつも、最後は義昭を追放して天下人になったこと、そして最晩年は、二条新御所を誠仁親王に進上しつつ安土行幸や三職推任の件で朝廷(天皇)との交渉を深めていた……というナンバー2の戦略が、まさしく織田信長の「覇道」に直結していたのは間違いないように感じます。
そんな「上総介」信長を殺した光秀の最期が、ここ伏見の、桓武天皇稜のすぐ足元であり、やがて豊臣関白政権を築いた秀吉自身の「覇道」もこの伏見が決着点かもしれない、と秀吉自身が気づいたことに、伏見築城の最大の動機があったように思うのですが、より詳しくは次回に申し上げてみたく存じます。
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(※さらに次回に続く)
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