( 引き続きの冒頭余談 / それぞれの苗字は仮のものですが… )
【 質問 】 こんなご家族を、何さん?とお呼びすればいいのでしょう。
→ → 話題の「選択的夫婦別姓」はたとえ本人が満足でも、こういうハレーションを社会に起こして行き、言うなれば、気づかずに悪化する「家族」破壊法です。
こうした法律が出来ると、日本社会のあらゆる場面で、家族を一つの苗字で呼ぶことが(家族外の者は確信を持てないため)急速に避けられてしまう!…のではないでしょうか。それこそ、伝統文化の破壊をめざす左翼リベラルの、思うツボです。
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洛中洛外図屏風(個人蔵)より
――― ご覧の屛風絵のうち、前回のブログ記事では、木幡山伏見城天守の壁面を飾った「唐花文様」の意図や文様の特定についてお話ししましたが、今回もまた同じ屛風絵から、これの公開時に話題になった「廊下橋」の方を、改めて触れさせていただこうと思います。
この廊下橋が話題になったのは、何と言っても、橋の全体にわたって飾られた「桐紋」でありまして、いかにも豊臣家の城にふさわしい紋章のために注目を集めましたが、そうなりますと、前回ブログのごとく、天守の壁面の方は「唐花文様」なのに、どうしてこちらは桐紋なのか?…との疑問もわいて来ます。
私なんぞはここにもまた、桓武天皇陵との関係性がうかがえるように感じられてならず、重要なカギをにぎるのは、廊下橋を渡った先に見える「檜皮葺きの楼閣」であろうと思われ、この右上隅の楼閣は何なのか、何故ここにあるのか?と考えて行きますと、そこから逆に廊下橋の正体が見えて来るようなのです。…
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右上隅の楼閣は、チャイナ・朝鮮・台湾などで普及した煉瓦積みの「城門」なのか?
(※ご覧の古写真は、私の好みでもある台湾の台北西門=宝城門の場合)
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それとも日本の歴史上、様々な宗派の寺院に普及した「竜宮門」なのか?
(※ご覧の写真は、京都府宇治市の興聖寺の山門 / 天保年間の改築)
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はたまた、台形の下層部分から、寺院に普及した「袴腰(はかまごし)鐘楼」なのか?
(※ご覧の写真は、愛媛県松山市の石手寺の袴腰鐘楼 / 室町前期の再建)
…… という風に、一見、どれにも可能性がありそうなものの、例えば、この檜皮葺き楼閣が、本丸から廊下橋を渡った先の曲輪内のすぐ近くにあったもの、との前提で考えますと、まず、そんな場所に城壁都市の煉瓦積み「城門」のごときものが突然に築かれたわけは、防御的にも100%ありえませんでしょうし…
また、そこ(廊下橋を渡った先)に何らかの宗教的な施設=寺院があったのなら、「竜宮門」の可能性もありましょうが、ただし、この楼閣は上層部分にも直接に渡れる「渡廊」が接続していて、これがどういう機能や目的だったのか、ちょっと気になります。
そう考えて行きますと、この楼閣は、各地の寺院に普及した「袴腰(はかまごし)鐘楼」が最有力?とも推定できそうであり、そうであれば上層の「渡廊」は、鐘を直接に打ち鳴らすために、床高の本堂などから廊上を水平移動する設備だった…という可能性もあるのでしょう。
したがって、屛風の右上隅の(外側の)描かれなかったところには、何らかの宗教的な施設=寺院等があったはず、との見方は十分に説得力がありそうですし、話題の桐紋の廊下橋は、「そこ」に向かって、本丸から直接に豊臣秀吉本人が渡るための橋であった(→ だからこそ桐紋!)との推理も、しっかりと成り立つのではないでしょうか。
<< 袴腰(はかまごし)鐘楼とは? >>
( 各地の事例より。境内での鐘楼の位置に注目しながら )
源頼朝の寄進と伝わる、石山寺(滋賀県大津市)の檜皮葺きの袴腰鐘楼
袴腰は白漆喰塗り。上層に縁があるものの、下層内部から撞木(しゅもく)を引いて鐘をつく。
この寺は広い境内に建物が分散して建つため、下層の入口は参道側にある
法隆寺東院の袴腰鐘楼。これは以下の事例と同じく、本堂側の袴腰に入口がある
徳川家康の側室お勝の方(英勝院)が開山、鎌倉唯一の尼寺、英勝寺の袴腰鐘楼
一方、袴腰が廻廊と接続した造りの、瑠璃光寺(山口市)の袴腰鐘楼
神社であるにも関わらず、寛永の大造替で新設された、日本一豪華な日光東照宮の袴腰鐘楼。
写真奥は鼓楼。入口はそれぞれ、中央を通る参道の反対側に設けられている
――― といった各地の事例をご覧になって、境内における鐘楼の位置は、おおむね<本堂の正面手前の右側>が一般的なのだとお分かりいただけるでしょうし、問題の屛風絵のように、鐘楼が完全に曲輪内にあって、参道に面しておらず、本堂などと「渡廊」でつながる距離の場合は、おそらく下層の入口は本堂側を向いていたと想像できます。
< 文献に登場する「鐘つき堂」と「太鼓櫓」の記述が妄想させる、
桐紋の廊下橋の先の曲輪で展開されていた?驚愕の?光景…… >
さて、徳川家康の事績などをつづった『落穂集』には、木幡山伏見城が落城した最後の様子も記されていて、その中に、本丸周囲の曲輪で「鐘つき堂」が炎上する経緯があって参考になります。
(大道寺友山『落穂集』より)
内藤弥次右衛門ハ若年之頃より聞へ有弓の上手に依て今度も自身弓を以て敵を若干射倒、其後組下之安藤次右衛門に向ひ、我ハ自害致す間悴与一郎儀を頼入候と云捨て、鐘つき堂の内に兼て焼草を積置しに火を懸自殺を遂る。
次男与一郎ハ生年十六歳成しが如形相働き数ヶ所手を負ければ父弥次右衛門と一所に自害可致とて走り帰る所に早鐘つき堂焼上り候に付、其辺に於て自殺相遂候と也。其後安藤次右衛門も討死を遂る。
右之通外郭悉く致落去、本丸斗に罷成候を諸方之寄手一所に集り本丸に取懸り候中にも、……
という風に、最後の行の「本丸ばかりにまかり成り候を」の以前に、弓の名手の内藤弥次右衛門が「鐘つき堂」に火をかけて自殺したり、次男の与一郎も「はや鐘つき堂焼け上がり」と見て覚悟して自殺した、などの経緯が記されていて、少なくとも、本丸を取り巻く曲輪に「鐘つき堂」があった、ということは、この文献からも確認が出来ましょう。
そしてさらに、桜井成廣先生が著書で取り上げた『石川忠総留書』にある落城寸前の逸話として、城攻めの軍勢が最後に西丸(二の丸)を占領してもなお、その一角にあった「太鼓櫓」に立てこもる侍たちがいて、降参をすすめたものの応じず、逆に討って出て来て侍全員が討ち死にした、という話を信じるならば…
ここで一つの連想(妄想)が、私の頭の中でバチバチっと火花を吹きまして、こんな光景が脳裏に浮かんで来たのですが、どうなのでしょう。
【 連想 】 桐紋の廊下橋の正体とは…
それはさながら、これにも似た、たたずまいであったのかも、と…
<<日光東照宮>>
( 左奥=鼓楼 中央の奥=陽明門 右奥=鐘楼 )
!――― ご覧の“妄想”を解説させていただきますと、桐紋が飾られた廊下橋の先の曲輪=西丸(二の丸)には、陵墓や尊牌に対して香をたき、花を供える寺院としての「香華院(こうげいん)」があったのではないのか、と。
世間一般に香華院で有名なのは、歴代天皇の陵墓のための泉涌寺(せんにゅうじ)や、仙台藩の瑞鳳殿のための瑞鳳寺(ずいほうじ)などがありますが、木幡山伏見城の西丸(二の丸)の場合を想像いたしますと、桓武天皇陵の本体の南側に香華院が新設されて、その正面手前の左右には、かなり大型の袴腰の鐘楼と鼓楼が並んで屹立し、対峙していたのかもしれません。!……
したがって、話題の桐紋の廊下橋というのは、あたかも!!…
日光東照宮の神橋
(※ご覧の写真は「とちぎ旅ネット」様からの画像引用です)
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