手早く筆写された『探幽縮図(たんゆうしゅくず)』がなかなかに興味深い
今年の6月以来、さんざん話題にして来た「聚楽第」ですが、幻の姿を描いた現存の絵画史料は数が限られていて、その中には、あの狩野探幽(かのう たんゆう)が自らの画業の向上のために書写(スケッチ)し続けた、膨大な量の『探幽縮図』の中にも、聚楽第行幸の屏風絵を書き写したものがあります。
東京芸術大学蔵の『探幽縮図』より / 左端の聚楽第や、門をくぐる天皇の鳳輦(ほうれん)など
(ちなみに、聚楽第の上方に描かれた「天守」らしき建物の拡大)
上記部分のさらに右側 / 天皇の鳳輦から、それを追う関白・豊臣秀吉の牛車まで
上記部分のさらに右側 / 関白の牛車に続く騎馬武者などの行列
さすがに書写(スケッチ)だけに、ちょっと分かりにくい感はあるものの、私なんぞは、聚楽第の御殿の上方にポツンと離れて(!!)描かれた「天守」らしき建物に、まず目を奪われてしまいます。
ですが、それは後ほど詳しく触れるとしまして、この絵の全体を見て(私のごとき素人でも)驚嘆してしまうのは、行列の登場人物がいちいち「名前」を記されている点でしょう。
探幽は原画を手早くスケッチしただけですから、当然、これの原画の屏風絵にも「名前」は書き込まれていたはずであり、そんなところは他の聚楽第の絵画史料には見られない特徴ですから、今回のブログ記事では、ためしに、絵を部分的に拡大しながら、有名な『聚楽第行幸記』にある行列の公家や武将の「名前」と照らし合わせてみたいと思うのです。…
【拡大A】
鳳輦に続くのは、近衛信尹(信輔)、織田信雄、豊臣秀長、豊臣秀次、徳川家康、宇喜多秀家ら…
(『聚楽第行幸記』の行列の記録より / 赤文字が【拡大A】に描かれた公家や武将)
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鳳輦。 前後駕輿丁。
次六位史以下役人。
此次。
左大臣信輔公。諸大夫。布衣侍。烏帽子着。随身。雑色。かさもち。
内大臣信雄公。随身。 日野烏丸大納言光宣卿。
日野新大納言輝資卿。 久我大納言敦通卿。随身。諸大夫。
駿河大納言家(康)卿。随身。諸大夫。
大和大納言秀長卿。随身。諸大夫。
(~この間の9名の公家は省略~)
吉田左衛門督兼見卿。 藤右衛門督永孝卿。
備前宰相秀家卿。随身。
関白殿。 前駆。乗馬。
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【拡大B】そして「関白殿」の牛車に続くのは…
(『聚楽第行幸記』の続き / 赤文字が【拡大B】に描かれた武将)
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関白殿。 前駆。乗馬。
左。
増田右衛門尉。雑色。馬副。此以下同前。 福原右馬助。
長谷河右兵衛尉。 古田兵部少輔。
加藤左馬助。 糟谷内膳正。
早川主馬首。 池田備中守。
(~この間の左列26名の武将は省略~)
稲葉兵庫守。 富田左近将監。
前野但馬守。
右。
石田治部少輔。 大谷刑部少輔。
山崎右京進。 片桐主膳正。
脇坂中務少輔。 佐藤隠岐守。
片桐東市正。 生駒修理亮。
(~この間の右列26名の武将も省略~)
松岡右京進。 津田隼人正。
木村常陸介。
雑色左右三十人。
随身。左。
森民部大輔。 野村肥後守。 木下左京亮。
右。
蒔田主水正。 中嶋左兵衛尉。 速水甲斐守。
布衣。
一柳右近大夫。 小出信濃守。 石田木工頭。
三行烏帽子暇衣也。
…
【拡大C】
さらに続くのは、前田利家、織田信包、豊臣秀勝、小早川秀秋、結城秀康、織田秀信ら…
この【拡大C】に相当する『聚楽第行幸記』の記録は割愛させていただきますが、もうお分かりのとおり、行幸記に記録された「名前」に比べますと、絵の方は、各行列の真ん中あたりの人々を大胆にハショリながら、とりわけ豊臣家に関わる有名どころを“選りすぐって”並べたことが分かります。
そしてここで一つ、大きな“疑問”として申し上げなければならないのは、【拡大B】の騎馬武者の位置が、実際の行幸とは大きく違っているかもしれない、という点でしょう。
もう一度【拡大B】を…
どういうことかと申しますと、ご覧の石田三成から木村重成(重茲)・古田重勝までの左右二列の騎馬武者は、関白の牛車の「前駆」とされた人々であって、実際は牛車の “直前” を進んでいたはずなのに、ご覧の絵では(まさに『聚楽第行幸記』の書き順どおりに!…)牛車の “直後” に描かれている点がおかしい、と言わざるをえないようです。
これは例えば、かつて池享(いけ すすむ)先生が、足利義満や義教による室町第行幸との対比から指摘されたように、「義満・義教の場合、前を行く「太刀帯」「帯刀」は、赤松・伊勢・長・松田・佐々木・土肥・土岐・小早川といった「足利家臣団」=奉公衆クラスで構成されている。私は、これとの対比で、「前駆、乗馬」は増田・石田以下の「秀吉家臣団」を指していると考えたい」(『戦国・織豊期の武家と天皇』)と考証されたとおりだと思うのです。
(→もしそのとおりであれば、関白秀吉の牛車は【拡大B】の木村重成(重茲)の直後を進み、随身らを引き連れつつ、【拡大C】の前田利家がそのすぐ後を続いた、というカンペキな!…位置取りであったことになります)
ですから、これの原画の屏風絵というのは、探幽自身はそれを「永徳かと弟子ノ画」と推定しましたが、以上の事柄から申せば、謎の絵師は少なくとも『聚楽第行幸記』そのものや、その他の聚楽第(行列?等)を描いた絵画史料をしっかりと集めたうえで、それらに基づいて(ある意味で)精緻に、工夫をこらして制作した作品であった、と言って良いのではないでしょうか。
<では肝心の「聚楽第」の描き方はどうなのか?…>
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さて、聚楽第行幸は天正16年と20年の2回にわたって行なわれましたが、ここまで申し上げた『聚楽第行幸記』との照合から、ご覧の『探幽縮図』の行列は、まさに天正16年の “1回目” の行幸を想定して描いたことになります。
(※ちなみに、2回目の豊臣秀次による聚楽第行幸では、行列に諸大名の大多数が参加しなかったと言われます)
では、そうした想定を踏まえて『探幽縮図』の聚楽第の描き方に注目しますと、まず本丸御殿の大型の建物群が、屏風絵の左側に大きくはみ出していることが分かります。
そして絵の上端には、ずいぶんと離れた位置に「天守」らしき建物がある、というのは、いったいどういうことなのか? という疑問がふくらむのですが、これの答えになりそうなのが、何度もご紹介してきた三井記念美術館蔵の『聚楽第図屏風』との対比です。
左右を比べてよくご覧になればお分かりでしょうが、両者は、堀際の櫓の様子に似たところが何箇所もある一方で、内部の敷地の御殿については、『探幽縮図』の方がずっと広々と、余裕を持って配置されております。
では、この違いは何に起因したのか? と考えますと、結論は、『探幽縮図』の方に原因があるのではなく、むしろ有名な『聚楽第図屏風』の方に大きな原因(描き方の欠陥!?)があるのだと分かって来ます。
赤く変色させた「金雲」がクセモノか??
最も精緻と言われた『聚楽第図屏風』の方に、むしろ大きな「疑惑」が浮上してくる…
いかがでしょう。ご覧のように、両者の対比では、『聚楽第図屏風』は本丸御殿が異様なまでに手前に “押し寄せて” 来たことが分かります。!
それを可能にしたのが、赤く変色させた「金雲」でしょう。実に巧妙であり、誰かがこう言わなければ、表面的には何の不自然さも感じさせないほどでした。
……これまでの長い間、聚楽第を描いた絵画史料としては最も「精緻だ」と言われて来た『聚楽第図屏風』ですが、このように見直しますと、かなりの変形や省略、合体などが数多くなされていて、そうした点を踏まえれば、ポツンと離れた「天守」らしき建物も、同様に、本丸側へ、異様なまでに“押し寄せて”来たのでは?… という疑念が生じてまいります。
ですから、これはもう、例えが悪くてたいへんに恐縮ですが、『聚楽第図屏風』の聚楽第というのは、城郭の主要な部分が(金雲を巧妙に使って)ギュウギュウの寄せ集めにされていて、それはあたかも、交通事故でペシャンコになった自動車のような??描き方になっているのではないか… とさえ感じられるのです。
(※次回に続く)
【2016年末の年越しにあたって】
ご承知のとおり、この2年ほどは、恒例の年度リポートをまとめることが出来ないまま、また年越しになりますが、テーマは依然として「聚楽第」を考えておりまして、来たる2017年には、次回の年度リポートを(出来れば聚楽第「御三階」のビジュアル化などを含めて)お届けしたいと思っております。
※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。