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全貌・遠景イラスト 白亜の大城塞も“仮の宿り”だったのか



全貌・遠景イラスト 白亜の大城塞も “仮の宿り” だったのか

前回、中心部分をお見せした肥前名護屋城の遠景イラストの全貌を、今回は是非ご覧いただきたいと思うのですが、その前に、遊撃丸の「舞台」についてチョットだけ申し添えておきます。

何故なら、そこではひょっとすると、ある “戦慄すべき舞楽” が行われようとした可能性がありうるからです。
 
 
 
<まさに左に唐、右に高麗、倒錯の雅楽舞いが…>
 
 
(大村由己『聚楽行幸記』より)

儲の御所は檜皮葺なり。御はしの間に御輿よせあり。庭上に舞台、左右の楽屋をたてらる。

前回、遊撃丸の殿舎としては、聚楽第行幸と同様の、儲の御所(もうけのごしょ)が建てられたのではないか、と申し上げたわけですが、上記の文中の「庭上に舞台、左右の楽屋」というのは、近世の大城郭に付き物の「能舞台」ではなくて、明らかに「雅楽」のための舞台だったと言えそうです。

それは行幸の演出として「雅楽」が必須であったことに加え、「左右の楽屋」という文言が雅楽用であったことを示唆しているからです。

左舞(唐楽)の蘭陵王(らんりょうおう) / 右舞(高麗楽)の納曽利(なそり)

(※左写真はウィキペディア、右写真は「奈良かんさつブログ」様より引用)

正直、私もこの件を調べるまでは知らなかったのですが、雅楽とは、すべての楽曲が左楽(さがく)と右楽(うがく)に分かれていて、左楽は中国伝来(という伝承・想定)の楽曲で「唐楽」(からがく)といい、これは赤い装束で舞うそうです。

一方の右楽は、朝鮮半島伝来(という伝承・想定)の楽曲で「高麗楽」(こまがく)といい、こちらは緑の装束で舞い、楽器の編成もやや違うとのこと。

例えば上の写真で、左の赤い装束はメディア上でもよく見かける蘭陵王(らんりょうおう)で、これに対応する右舞が、右写真の納曽利(なそり)になります。

つまり雅楽というのは、古代からの変遷を経て、中国大陸と朝鮮半島から伝来した楽曲を、両建てで上演する、というスタイルにまとめられた舞楽なんだそうです。
 
 
で、そうした雅楽の舞台が遊撃丸にあった場合、その配置は「天子は南面す」という原則にのっとって、儲の御所の南側に舞台が造られたはずです。

―――ですが、この城の特殊なロケーションと、戦略上の目的を思いますと、ひょっとすると、これらの殿舎の配置は、真逆(北)を向いていた可能性はないのか… という妙な想像にとらわれてしまうのです。


(※当図は右が南)

こんなことは「天子は南面す」という原則から言えば、ありえないことですが、仮にこのようにしてみますと、儲の御所にいる天皇の視点からは、舞台の背景の向こう側、つまり玄海灘の海の彼方に <左に中国大陸、右に朝鮮半島> という構図がダブることになります。

したがってこの舞台は、実際上も、左に「唐」、右に「高麗」となり、これから征服しようとする「明」と「朝鮮」をダブらせながら、雅楽を両建てで愉しむ、という倒錯の舞楽会を挙行することも出来たわけで、このように狡猾なアイデアを豊臣秀吉ほどの策略家が気付かぬはずはなかったようにも思うのですが…。

 
 
<金色白亜の大城塞も “仮の宿り” だったのか>
 
 
 
さて、肝心の遠景イラストの話に戻りまして、ご覧の前回イラストの下のはるか枠外に、上山里丸の奥(西)で発見された「茶室」が位置する形になります。

茶室そのものの復元に関しては、名護屋城博物館の研究紀要や高瀬哲郎『名護屋城跡』(2008年)にイラストが載ったり、博物館に実物大の茶室が展示されたりと、いくつか参考事例がありました。
 
 
ただし、その周りの「庭園」がどうなっていたのかについては、色々と解釈の難しいハードル(発掘結果)が横たわっているようです。

例えば「山里の風景のなかにひっそりと佇む茶室」(前出『名護屋城跡』)と言っても、周辺から「庭石」の類はひとつも発見されなかったようですし、逆に「池」はどうかと言えば、茶室の東側でS字状の妙な形の堀跡が見つかり、しかもその堀は垣根で囲われていたらしい… などという不思議な調査結果が出ています。

その辺を当イラストは大胆に解釈し、茶室の周辺は、山里と言っても典型的な数寄の庭ではなくて、むしろ「菜園」というか、「百姓家の畑や棚田」が再現されていて、それは秀吉個人の “心の風景” “尾張中村の故郷の断片” だったのではないか――― というアイデアで描いてみたのが下のイラストです。

ご覧のとおり、茶室の山側には「麦畑」を描き、茶室の東側(左側)のS字状の堀は「ワサビ田」として描いてみました。

(※ワサビはちょうどこの頃、栽培が始まったようで、徳川家康に栽培ワサビを献上した記録があるそうです)

そして茶室の壁をすべて「青竹」にして、屋根をカヤの苫葺き(とまぶき)の切妻屋根にしたのは、名護屋城博物館の研究紀要に基づいたものです。

執筆者の五島昌也さんは、山里の御座敷開きに列席した神谷宗湛の日記に「柱も其他みな竹なり」とある点に注目したそうです。

(五島昌也「名護屋城跡上山里丸検出茶室空間の遺構状況と復元根拠について」/名護屋城博物館「研究紀要 第4集」1998年所収)

秀吉が大坂から名護屋に至る折々に建築した同様の茶室は、「青カヤ」「青松葉」「杉の青葉」「青柴」で壁を作り、屋根を葺いたとされている。
彼は、積極的に「青」を意識しているのであり、植物の生命力あふれた青々とした材料を使うことに主眼をおいていたと推定される。
このことは、この茶室の利用形態にも影響を与えそうである。つまり、材料がその青さを保っている間の極めて短期間の利用を前提とした建物であったことも考えられる。

 
 
私はこの研究紀要の指摘に強いインスピレーションを感じておりまして、これがひいては、肥前名護屋城という「城」の本質までも言い当てているように感じます。

例えば「その青さを保っている間の極めて短期間の利用」というのは、秀吉の意識(もくろみ)として、城にも “賞味期限” があるかのような姿勢が透けて見えていて、そうならば、もしも朝鮮出兵が成功裏に進み、秀吉がまだ存命していたら、まもなく肥前名護屋城は廃城されるか、もしくは石垣山城と同様に、大名の誰かに下げ渡されたのではないでしょうか。
 
 
思えば、織田信長が次々と居城を移したり、秀吉がさっさと聚楽第を破却してしまうなど、織豊政権にとっての「城」とは、後の徳川幕藩体制の城に比べて、フットワークの感覚(?)がそうとうに違っていたのかもしれません。

ひょっとすると秀吉あたりは “城は道具に過ぎん” とでも言い放ったかもしれず、ご覧の青竹の茶室と白亜の大城塞とのコントラストは、規模のギャップがありながらどちらも “仮の宿” であったという意味で、いわゆる「見せる城」の本質を露呈しているかのようです。

その好き嫌いの評価はいずれにしましても、このようなことを独断で実行できたのは、日本史上、秀吉ただ一人であったことだけは間違いありません。

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