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会津若松城「七重」天守の推定イラストをご覧下さい



会津若松城「七重」天守の推定イラストをご覧下さい

平井聖先生の指摘を中心に「七重」天守を現地に再建してみますと…

前回の予告で申し上げたイラストですが、いつもどおりに作ってみたところ、話題の「七重」はまったく現地の天守台等と違和感が無く、我ながらちょっと驚いております。
 
 
で、多少の説明を申し上げますと、現在の復興天守の位置は、江戸時代までと同じく天守台上の北西隅に寄せられていて、その建物中心に合わせて天守台の穴倉が、外側の石垣よりも明らかに新しい手法で築かれています。

そこで「七重」天守の頃の穴倉は、内部が違う形状であったと仮定して、その上の天守台上の様子は、おそらく帯曲輪側(北・西・南)の三方に、等間隔の空地が天守周囲をめぐる形であったろうと想定しました。

その結果、「七重」の壮大さが、本丸御殿(イラストのこちら側)からよく見える状態になりました。
 
 
また外観の意匠については、七重に描かれた『領国絵図』のとおり「白壁」であったのなら、それはやはり聚楽第天守にならったものだろう、と考えるのが自然なアプローチでしょう。

しかも『領国絵図』は七層の屋根のうち、最下層だけ違う描き方にしてあるため、これは現地で出土した金箔瓦が関係しているものと考えて、聚楽第天守の絵画史料と同様に、最下層だけ金箔押しの無い土瓦、その上の軒先はすべて金箔瓦、という使い分けがなされたと推定しました。
 
 
このように会津若松城の「七重」天守は、穴倉内を含めれば「九重」天守とも言えそうであり、これ一基だけで、東北地方全域に存在感を示そうという気概を感じさせる建造物であったと思われます。

さて余談ですが、前々回にお知らせしたとおり、2012年度リポートは以下の内容に変えて急ピッチで作業中です。ご覧いただけるのは2月に入ってからと思われます。

東照社縁起絵巻に描かれたのは家康の江戸城天守ではないのか
~「唐破風」天守と関東武家政権へのレジームチェンジ~

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