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あえて辰巳櫓から創建天守を「逆算」してみれば、究極の十字砲火(横矢掛り+α)の天守に

【冒頭余談】 911投開票となった沖縄県知事選で、からくも逃げ切った形の玉城デニー知事。左写真は高校時代だそうで、どんな境遇かを物語っているようで…

思えば、あの「ゼレンスキーです」失言をした玉城知事の、琉球「独立」願望に訴えかける政治手法には、根源的な危険性を(※脳天気な安易さも)感じてしまいますし、彼には、習近平政権とともに「沖縄のチャイナ化」を徹底的に進めれば、いつかは在沖米軍を追い出せる(=自ら県外や国外に撤退していく)との長期的な策略(底意・魂胆)を感じるのですが。
 
ましてや、ペロシ訪台や無人機撃墜によって、いまの習近平自身の軍事的な冒険への「言うだけ番長」「腰砕け」がバレてしまった現在は、こちらの沖縄情勢の方が、日本にとって、よっぽど重大な岐路(→ こっちの方がむしろ先!?)を迎えているのではありませんか。

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【 追記 】そして案の定、玉城知事は、安倍元総理の「国葬」に、沖縄県民を代表して、「欠席」するそうです。 政治家としての支持者向けの決断でしょうが、ある種の、ルビコン川を渡ったように感じます。
 
こうなると、佐藤栄作総理の沖縄返還は“余計なこと”だったのか、とも……。

 
沖縄の至る所が米軍基地という状況は、私も何度も見ておりますが、上記のような玉城知事を見ていますと、私なんぞは思わず、「徳川の世に特別な地位を求め続けて大坂落城に至ってしまった豊臣秀頼」を連想してしまいます。
 
――― とりわけ、大坂城が外堀を埋められて「本丸だけの小城」になった時点の、豊臣氏延命への最後のチャンスにおいても、万単位の「牢人」衆(=他所から集められた兵)を城から切り離せず、むしろ主導権を奪われながら、大坂夏の陣の開戦に至った豊臣秀頼の姿が、玉城知事にダブって見えるのです。
 
この先、沖縄県が「独立」に近づくためには、沖縄県民のとてつもないパワーや決意が求められるでしょうが、それも成らない、どうにもならない、混迷だけ深まる一方、となった先には、思いますに、恥知らずの最低最悪の選択肢として、
 
<<< 沖縄本島のアメリカへの再返還 >>>
 
といった「悪魔の声」も、ささやかれる日が、来るのではないでしょうか。

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【追記の余々談】安倍元総理の「国葬」日程、もっと早く出来たはずなのに、なぜ9月27日?? → きっと、岸田総理は最初から、日中国交正常化五十周年をぬけぬけと祝うためのカモフラージュ(目くらまし)として、国葬が利用できる、と踏んだのでしょうが、現状はこの有り様です。(五十周年の式典等は9月29日!) 岸田という人は、政治が下手(へた)なんでしょうね。違いますか?…
 
とりわけ(「聞く力」なので…)支持率回復のアイデアが、自分の中に無い!というのは、致命的でしょう。

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(前回ブログより) 天守を失った後の金沢城の
ランドマークとなった「辰巳櫓」(寛永8年の再建版)

→ → 東と南に張り出した唐破風の出窓が、人々の目を強く引き付けたはず。

さて、前回の記事では、天守に設けられた唐破風の「出窓」について、思った以上の意味や役割が込められたのかもしれない… などと申し上げまして、それと言いますのも、上記のごとき金沢城「辰巳櫓」の強烈なインパクトのせい(おかげ)なのでしょう。

で、思わず、これほどの個性的なデザインは、直接的には、どこから来たものなのか? と想像した瞬間に、金沢城の(私にとっての)最大のナゾ!… 前田利家が文禄年間に築き、慶長7年に落雷で焼失した、とだけ伝わる「創建天守」との関係は、無かったのだろうか……… との疑問に、私の脳の全てがとらわれてしまいました。

そこで、またまた思い立ちまして、こんなパターン(→「連想」による妄想に過ぎない仮定)での天守画イラストの作成は初めてですが、この際は、やってしまおう、と。
 
 
 
< あえて辰巳櫓から創建天守を「逆算」してみれば、
  究極の十字砲火(横矢掛り+α)の天守に >

 
 

本丸内の白抜きの四角が、創建天守が失われた後の天守台? とも
言われた城絵図
(加州金沢城図)


その位置に建っていた、との想定で推定復元されたCGページの引用
(成美堂出版『前田利家の武勇と戦略』2001年より)

そしてもちろん、幻の創建天守の姿を想像するうえでは、江戸時代に天守の代用として建てられた御三階櫓も、十分に考慮に入れる必要がありましょうが、今回の基本は、冒頭の辰巳櫓から(→ あくまで寛永8年の再建版に基づいて)思いっきり「逆算」してみれば、どうなるか… ということです。

大工棟梁・松井家に伝わる金沢城「三階御櫓」の絵図(再建用)

 
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↓           ↓           ↓

あえて辰巳櫓から「逆算」してみた、金沢城の創建天守
(北東側から見た想定)

!?――― こうなると最初から自分では薄々分かっていても、作成し終わると、さすがに、異様な立ち姿に面食らったものの、これが意外な発見の始まりでもありました。…

まずは構造的な説明をさせていただきますと、御三階櫓は初重が五間四方であったわけですが、創建天守の場合、それらの下にもう一重二重があったものと考えますと、初重は「七間四方」と考えるのが妥当なところでしょうし、さらに辰巳櫓(寛永8年の再建版)の複雑な構造も踏まえて…

イラストでは、仮に八間四方と想定した天守台石垣の上に、初重七間四方の天守が建ちつつ、その四隅の八方向に、銅版張りの出窓が(内側の半間分を石垣上に乗せる形で)張り出していた、というチョット複雑な形を思い描いてみました。

その結果は、ご覧のとおりで、創建天守は <究極の十字砲火(横矢掛り+α)の天守> であったのかも!… という風に思えて来ました。 しかも銅版張りを施したのは、銃撃の「撃ち返し」でねらわれる部分に特化していたわけですから、そんな武備のそろばん勘定は実に前田利家らしい、と申しますか、きっと豊臣政権の下でも、会津若松城天守に並ぶ存在として、政権の北の版図を守備するにふさわしい建築だったのではないのか、と。
 
 
 
< そうした創建天守は「戌亥櫓」の位置に建っていたはず。… >
 
 
 
さて、今回の件において、是非とも申し添えるべき事柄は、創建天守の「位置」についての当サイト独自の考え方でしょう。

ズバリ申しまして、創建天守とは、前出のCGのような本丸内部の中央付近にあったのではなく、必ずや、本丸北西隅の「戌亥櫓(乾櫓)」の場所にあったはず――― と私はほとんど確信しておりまして、そのため今回は、そんな位置にあった場合の “見え方” も是非、お目にかけたく思います。

ただ、現状の復元された橋爪門続櫓などと、今回の創建天守とが「同時代的に」並存したことは、歴史的に無かったことですので、以下のイラストはその辺を踏まえて、多少、蜃気楼的な(ゴースト的な)表現を加味しながらご覧いただくことにしましょう。

あえて辰巳櫓から逆算した創建天守が、「戌亥櫓」の位置に建っていたなら…

(※ご承知のように右側の櫓は橋爪門続櫓で、この右側に五十間長屋が続きます。
復元される二の丸御殿はその向こう側になりますから、つまり創建天守は
本丸のいちばん「手前」にあって、二の丸も見下ろしていた、と考えます)

!… こんな位置にあった理由(動機)については、実は、現段階でお話できることと、出来ないことがございまして、そんな事情を含めて、すべては、次回の記事でのご説明。とさせていただきたく存じます。
 

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