【 お知らせ 】恐縮ながら私の家庭の事情(老母の入退院)により、次回の記事は一週間ほど遅れて、1月7日前後のアップになりそうですので、お知らせ申し上げます。
【 マクロ経済的にボリュームが重要な、18兆円の大型補正予算が成立 ! ! 】
……ご本人は睡眠不足らしいが、表情に余裕が出てきた感じの高市総理。
思いますに、高市さんの本領発揮=高市革命(※簡単に申せば、国の積極投資を足ががりに、日本人も外国人もじゅうぶんに働いて働いてどんどん給料がもらえる、大きくて強い・成長するニッポンに変えて行く革命)はこれから、という印象です。 だって議員定数の削減なんて、成立しなくても、だーれも維新を責めませんし。 勝負はここからです。
(→ そうして社会の不満が減って“出番が無くなる!!”左翼リベラルは、心底、高市さんが恐いわけです…)
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( 前回記事より )
望楼型天守をめぐる、昭和以来の、広く信じられて来た「単純な進化論」
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その一方で、望楼型天守は<<後追いの工夫形>>だった、と仮定すれば…
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さて今回の記事は、本来ならば、ご覧の前回ラストで申し上げた<<後追いの工夫形>>としての望楼型天守、という大変に重要なテーマのご説明を続けるべきであり、しかもこの<<後追いの……>>は、当ブログが申し上げて来ている「上三重が最上階扱いの天守と後期望楼型」や「木幡山伏見城天守」「江戸城天守のD案」そして「羽柴(豊臣)秀吉の移築専用天守」とも密接につながっていく話でありまして、その説明をくわしく申し上げるべきタイミングなのですが……
【 先日放送のNHK「日本最強の城SP」より 】
→ 何故、米子城では先に小天守が築かれ、そこに次の城主大名が
大天守を付け加えて築いたのか??
→ → この「謎」について番組では「なぜ大天守が二つ?」という
ちょっと“妙ちくりん”なコーナータイトルで取り上げていたものの、
これには、当サイトならではの「別回答」あり。! !
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米子城の本丸(左側の小天守台は、幕末の小天守の修築時に石垣が積み直された)
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【ご参考】米子御城門正面之御絵図面(弘化4年/鳥取県立博物館蔵)
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という、おなじみの番組をまたまた拝見しまして、その最初のコーナーで「米子城の大小天守の成り立ち」が答えのない「ミステリアス」だとされて、主演者の間であれこれとトークが交わされたわけですが、この件では、私なんぞにほぼ確信に近い「別回答」があるため、本来ここでやるべき<<後追いの工夫形>>としての望楼型天守…については次回にじっくりお話しさせて頂くことにしまして、今回は、こちらの米子城の話題を取り上げたく思うのです。
ちなみに上記番組のラストでは、レギュラー出演者の千田嘉博先生が「この番組によって、いま学会が騒然としています!」と冗談のように発言されましたが、これも実のところ、NHKのちょっと“妙ちくりん”なコーナータイトルの付け方に対して、思わず、皮肉をもらされたのでは?……とも感じられる印象でした。
< 当サイト独自案。吉川氏創建の米子城天守(四重御櫓)は、
毛利氏の広島城にならって「大天守が天守台だけだった」から… >
有名な『聚楽第図屛風』の描き方に対する疑義。
( 9年前の当ブログ記事「40m四方の天守台 ! ? →『聚楽第図屏風』には
天守が描かれていないのかもしれない…」より )
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さて、今回のお話の出発点になりますのは、古くから「聚楽第には天守が無かったのかも」と指摘される方々が少なからずいらっしゃったことを受けて、9年前の一連の当ブログ記事で、毛利輝元の聚楽第や豊臣大坂城への訪問記(『輝元公上洛日記』)を見るかぎり、豊臣大坂城では秀吉当人が輝元一行を天守に案内して登らせたのに対して、聚楽第ではそういう記述が一切、無いことから、少なくとも、輝元らの訪問時にはまだ聚楽第に天守の類いは出来ておらず、そこは「天守台だけだった」可能性を申し上げました。
そしてさらに、その聚楽第にならった、との伝来がある広島城について、故・西ヶ谷恭弘先生が「今復原されている型の広島城天守の造営は、毛利氏時代ではなく、福島正則時代のことと考えられる」(著書『日本の城〔戦国~江戸〕編』より)と主張されたことに大いに共感した私としては、ならばその時(毛利氏時代)の広島城はどうなっていたのか、と推測してみれば―――
(これも9年前の記事「毛利輝元らは聚楽第で天守を見ていなかった!? とすれば…
広島城天守をめぐる“ぬぐえぬ疑問”」より)
広島市立中央図書館蔵『諸国当城図』の「安芸広島」
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ご覧の絵図は成立年代がかなり下るものの、本丸の描写は特徴的であり、このように毛利輝元が築いた広島城も(聚楽第にならって)本丸の北西隅はただ「天守台だけ」が築かれた状態であって、その代わりに、輝元ら主従は独自の天守(小天守)を後の萩城天守とそっくりの位置(本丸の南西隅!=黄色い円の位置)に築いていたに違いない、と大胆に推測したわけです。
長門国萩之城絵図
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山麓の本丸(天守曲輪)の南西隅に築かれた萩城天守
( ※一階が石垣よりも半間分、外に張り出して石落しになっていたらしい )

そして今回の本題の、米子城について考えてまいりますと、これら一連の当サイト仮説を米子城に当てはめてみれば、築城開始の天正19年当時、毛利三川の一翼・吉川氏を率いていた輝元家臣の吉川広家としては、やはり宗家の広島城の「形」を無視するわけにもいかず、自らの初めての天守は、やはり広島流に築かざるをえなかったのではないでしょうか。
吉川広家(永禄4年1561年-寛永2年1625年)
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< では、左側の小天守台の上に、創建時はどんな天守が建っていたのか >
さて、吉川時代の米子城の様子をうかがい知るには、米子城小天守の復元等々で多くの実績をお持ちの金澤雄記先生が、ネット上に色々な資料を上げておられる状態でして、特に下記のパネルなどは大いに参考になります。
で、まことに恐縮至極ですが、上記パネルに、ちょっとだけ加筆をさせていただきますと…
( ※緑色の矢印線=吉川時代の天守下を回り込んで本丸虎口に至る城道 )
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!!――― このようにしてみますと、思わず私なんぞは、今年4月の当ブログ記事「吉川広家の岩国城(唐造り)天守は、毛利家中の武断派として、朝鮮出兵の激戦を徳川家康に誇示した「再現」意匠かも」を思い返さずにはいられません。
上下二段に唐造りを重ねた、岩国城の復興天守
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当サイトはかねてより、天守の「唐造り」の本来の目的とは、きっと防御のための設備(=撃ち下ろし用の石落しの連続形)であったはず…と申し上げておりまして、それが最大限に(その位置や上下二段によって)発揮されたケースが、吉川広家築城の固城(コソン)倭城にあって、朝鮮出兵の激烈な戦闘に備えていたようなのです。
固城(コソン)倭城の天守台の古写真
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同縮尺・同方位で並べてみた固城(コソン)倭城と岩国城
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そして固城(コソン)倭城の方だけ、南北を逆にして見れば…
岩国城の唐造り天守が何故この場所になったのか、その答えがここに!?
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(リフレイン)
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――― という風に、吉川広家は天守をぐるっと回り込んで本丸虎口に至る城道を撃ち下ろすため、固城(コソン)倭城と岩国城の天守の位置を決めていた可能性が濃厚でありまして、この形、まさに、朝鮮出兵に向かう直前に築城を始めた米子城の創建天守においても<<同じ構想>>が見受けられ、それはひょっとすると、毛利勢の天守の築き方に共通したものだったのかもしれません。
で、それは米子城天守の場合、唐造りだったのか、萩城天守のごとく一階部分が天守台から張り出す形式だったのか、と申せば、米子城本丸の地形からは、一階部分が張り出す方であったように思えてまいります。
そうした創建天守が、毛利宗家の広島城にならう位置関係で築かれ、結果的に、後の萩城天守との共通性も色濃く感じられるため、すべての結論として、こんな風に、本気で、思えて来てならないのです。………
吉川時代の創建天守とは、
部分的に萩城天守と共通した「白い天守」かも!?
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