カテゴリー: 駿府城・名古屋城・松本城・米子城・松前城・水戸城

銀山王国ニッポンを強調したのか、駿府城天守に多用された「銀」の錺(かざり)金具

【お知らせ】新規イラストの作成のため、最新記事のアップは、通常よりも一週間ほど遅れそうです。

すでに 最新号が発売 されていて、心置きなく引用をさせていただきますと…


(No.163号の該当ページ / アマゾンのサンプル画像より)

――― まず初めに、前回記事で予告した 西股総生先生の天守の論考に対する「反論」ですが、私なんぞとしては、今回の天守論だけで、「土の城」関連の名著がある西股先生を、あまり強硬に論破したくもありませんので、出来るだけ簡潔に、要点だけを申し上げてまいりますと…

(上記書の西股先生解説文の注目部分より)

 戦国期以降の日本の城は、概して中心部へ行くほど造りが堅牢かつ緻密になる傾向がある。近世城郭の場合だと、惣構(そうがまえ)が土塁でも主郭部は総石垣造りだったり、中枢部では石垣の上に多聞櫓(たもんやぐら)を連ねたり、枡形虎口を多用したり、狭い通路を複雑に折り曲げたりする。
 城の外周部が突破された場合、兵を漸次後退させながら抗戦をつづけ、中心部では残兵を集約的に運用して、できるだけ長い時間持ちこたえられるように、縄張を工夫しているのである。
 こうしたセオリーに則って築かれた城の中心に占位するのが、天守なのである。だとしたら、天守は最初から城内での最終抵抗拠点となるとともに、城内で最強・最大の強化火点として成立したが、次第に戦闘機能を喪失していった、と考えてよいのではないだろうか。

↓           ↓           ↓

【反論その1】
そもそも上記書の、天守は「権威の象徴か?戦闘施設か?」という問題設定じたいが現実的でないのかもしれませんが、まさに西股先生も同書で言及されたとおり、天守は 御殿でも 櫓でもない「てんしゅ」と呼ばれた独自の存在でした。
しかしその後、天守には 意味の脱落 が起きたらしく、諸文献によれば、江戸時代にはもう本来の意味が分からなくなっていたようです。 したがって江戸時代の「ぬけがら同然」の天守が、大名の家格や石高に合致しなかった状況も、当然の成り行きと言わざるをえません。
現在、そうした天守をめぐっては、軍事機能・防御機能が「無かった」とは 誰も言っておりませんし、その点で西股先生が力んでおられる点がまず妙であり、上に引用した先生の力説も、それならば「てんしゅ」とは(櫓とは名前が異なる)何のための 存在だったか? という肝心要の本題・本質について、まだもう一つ、突き詰めてお答えいただけておりません。
(→「ラスボス」とおっしゃった他稿のままでは 定義が不十分でしょう)


(※ご覧の写真はサイト「犬山観光情報」様からの引用です)

(さらに上記書の西股先生解説文より)

 占地に注意してみるならば、相対的に比高の大きい平山城や山城の方が、天守は小さくなる傾向が見て取れる。彦根城や犬山城のように、小高い丘――立ち上がりが急峻で頂部が狭い――に占地する城は、三重程度の天守で済ませており、相対的に低平な地形に占地する城では、五重の天守とする例が多い。
 小高い丘は遠望が利くので、司令塔として背の高い建物は必要なかったが、低平な城では司令塔として大きな天守を欲する傾向にあった、ということだろう。

↓           ↓           ↓

【反論その2】
天守とは、下克上で領主となった(※伝統的な権威とは真逆の存在の)織豊大名らが、平時に自らの領国(移封先)を統治するうえで、領内や仮想敵との国境を威圧する 政治的モニュメント として築き上げたもの、と考える(私なんぞの)立場から申しますと、天守は「周辺一帯から 非常に良く見えること」が建物としての第一要件になります。
ですから山頂の天守が比較的小さく、平城が高い五重天守になりがちだったのは、そうした第一要件を満たすための当然の措置でしょうし、さらに申せば「天守が籠城時に司令塔(=城主の御座所か軍師役の詰め所?)として使われた」との具体的な実戦の記録が、どの文献にあるのか、教えていただきたいところです。…

(ふたたび上記書の西股先生解説文より)

 あるモノが、最初から権威・権力を象徴する目的で作られることと、実用的な兵器・戦闘施設が結果的に象徴性を帯びるという現象とは、別の話として考えるべきだ。天守は、戦いの時代に生み出された戦闘施設であったからこそ、象徴性を帯びることになったのである。

↓           ↓           ↓

【反論その3】
まさに上記写真のごとく、豊臣秀吉の肥前名護屋城の天守台には「十尺間(丈間)」という、歴史的に天皇や公家・門跡等の御殿でしか許されなかった(=武家の城郭建築では過去に例が無かった)格別に広い「柱間」を含んだ礎石が遺されています。
このような建物の構造は、天守を「実用的な兵器・戦闘施設」という範疇(はんちゅう)にくくっている限り、永遠に説明がつかない、不都合な事実でしょう。

肥前名護屋城天守台の発掘調査に基づいた作図(2008年度リポートより)

こんな建て方は、言うなれば「関白太政大臣の天守」=関白太政大臣に駆け上がった人物の!天守だからこそ、可能になった状態であろうと思いますし、おそらくは他の(大坂築城以降の)秀吉の天守もすべて「十尺間」を使って建てられたのだろう、と想像している私にとって、天守の本質とは「政治的モニュメント」以外の何物でもありません。…
 
 
 
<銀山王国ニッポンを強調したのか、
 駿府城天守に多用された「銀」の錺(かざり)金具>

 
 

【ご参考】
徳川家康が鋳造(ちゅうぞう)させた「慶長丁銀」と「慶長豆板銀」

(→ 総鋳造量は新井白石の推定では120万貫=約4480トン!!だとか)


(当時の世界三大銀山は環太平洋に。石見銀山・ポトシ銀山・サカテカス銀山)

(※ちなみにポトシ銀山から250km南に国境がある、隣国のアルゼンチン共和国の国名は、「銀」のラテン語表記 Argentum アルゲントゥム に由来したもの)
(※図中の佐渡金山は、実際には、金よりも「銀」の方がはるかに大量に産出されていて、徳川幕府の貿易政策に貢献したという)

さて、今回の記事で一緒に申し上げてしまわないと永遠にチャンスを失いそうな話題として、是非とも触れさせていただきたいのが、前回に画像を引用したNHK番組「大戦国史」で、もう一箇所、個人的にハッとした瞬間――― 徳川家康と「銀」をめぐる強烈な関係性 なのです。
 
 
(『当代記』の駿府城天守の記録より)

元段  十間 十二間 但し七尺間 四方落 椽あり
二之段 同十間 十二間 同間 四方有 欄干
三之段 腰屋根瓦 同十間 十二間 同間
四之段 八間十間 同間 腰屋根 破風 鬼板 何も白鑞
      懸魚銀 ひれ同 さかわ同銀 釘隠同
五之段 六間八間  腰屋根 唐破風 鬼板何も白鑞
      懸魚 鰭 さか輪釘隠何も銀
六之段 五間六間  屋根 破風 鬼板白鑞
      懸魚 ひれ さか輪釘隠銀
物見之段 天井組入 屋根銅を以葺之 軒瓦滅金
       破風銅 懸魚銀 ひれ銀 筋黄金 破風之さか輪銀 釘隠銀
       鴟吻黄金 熨斗板 逆輪同黄金 鬼板拾黄金



――― ご覧のごとく当サイトでは、家康の駿府城天守の特徴的な意匠として、おそらくは銅板彫刻に「鍍銀(とぎん)」を施した錺金具(かざりかなぐ)が多用されたことに注目しつつ、ご覧のイラストを作成したのですが、その時点では「きっと柱が溜色など特異な色彩だから 銀 の金具類なのか?」といった程度の推測しか持ち合わせていませんでした。

しかしNHK番組が強調していたように、家康は当時の国際的な「貿易通貨」であった「銀」に着目することで、織田信長や豊臣秀吉を上回る量の貿易を実現して、自らの政権構想をおし進めていたのだとなると、「銀」の錺金具の意図は かなり違うものであったのかもしれません。…

そういう観点では、ご覧の本多博之著『天下統一とシルバーラッシュ 銀と戦国の流通革命』2015年刊は私の疑問にぴったりと答えている本でありまして、例えば、当時、世界の産銀量の三分の一を産出する「石見銀山」を掌握していた戦国大名・毛利氏については、こんな指摘もありました。

(本多博之『天下統一とシルバーラッシュ 銀と戦国の流通革命』より)

元就の頃には石見銀山で生産された銀の使途は、基本的に「御弓矢」(戦争)、つまり軍事に限られていた。それは、毛利氏が銀山を掌握した永禄五年(一五六二)から元就が亡くなる元亀二年(一五七一)まで、常に臨戦態勢にあったことが大きく影響していると思われる。
 
 
という風に、当時は鉄砲の大量装備が欠かせない時期に差しかかっていて、必要な火薬(硝石)や弾丸の鉛はほとんど「輸入」に頼っていたわけですから、ふくれあがる経費をどう調達したのか、心配になりますが、実は、「銀」が当時の貿易通貨であったために、銀山・金山が直接的に、高額な鉄砲戦術を支える “打ち出の小槌” になったのでしょう。

そしてご承知のように、天下人の信長や秀吉の軍事力は「豊富な経済力」に支えられていて、これは決して厳密な表現にはなりませんが、<信長は永楽通宝、秀吉は黄金、そして家康は白銀> といった言い方で、三者三様の「力」の源泉を、分かりやすく例えることも出来たのではないでしょうか。…

(同上『天下統一とシルバーラッシュ』より)

九月十五日、まさに天下分け目の戦いとなった関ヶ原の合戦がおこなわれ、その日の内に徳川家康を総大将とする東軍が勝利した。注目されるのは、そのわずか十日後の九月二十五日、家康が石見銀山の周辺七ヵ村(大家村・三原村・井田村・福光村・波積村・都治村・河上村)に宛てて禁制を出していることである。(「吉岡家文書」)
内容は、軍勢の乱暴狼藉や放火、そして田畑の作物の刈り取りや竹木の伐採を禁じた三ヵ条からなるが、それは長年 毛利氏の管理化にあった石見銀山の接収に伴う処置であったと思われる。
その後、それまで豊臣政権の重要な財政基盤であった但馬生野銀山をはじめ、国内各地の主要銀山が家康によって接収され、その直轄化がはかられた。

 
 
そこで思えば、安土城天主にも「銀」の錺金具は(建物内の釘隠し等で?)使われていて、それは信長による銀細工師・宮西遊左衛門への恩賞の件から分かるのですが、かの金箔瓦と合わせて、
<<貴金属類を城郭建築(とりわけ天守)の装飾に惜しげもなく使うこと>>
はやはり、信長が先鞭(せんべん)をつけた「名案」だったのでしょう。何故ならば…

(同上『天下統一とシルバーラッシュ』より)

徳川氏による国内の主要金銀鉱山の接収は、中央政権(幕府)が各地の鉱山で生産される金・銀を直接掌握することを意味し、それは貨幣の鋳造・発行権の獲得につながり、家康は慶長六年、いわゆる慶長金銀を鋳造したとされる。
すなわち、金貨では慶長大判・慶長小判・慶長一分金、また銀貨では 慶長丁銀・慶長豆板銀 である。

(中略)
貨幣製造の組織である小判座(金座)は、まず慶長六年に江戸と京都に置かれた後、同十二年に駿府(家康の隠棲地)、さらに元和七年(一六二一)に佐渡に置かれた。一方、銀座は、まず慶長六年に伏見、同十一年に 駿府、そして年不詳ながら長崎にも置かれた。
このように、徳川政権は統一政権として各種の金・銀貨の鋳造・発行をおこなったのであり、国内的には金を中心とする日本独自の通貨体系を構築するとともに、国際通貨である 銀 にも積極的に対処することで、政権主導の貨幣政策や貿易政策を推し進めようとした。

!! もうお察しのとおり「同十一年」慶長11年とは、家康が大御所として駿府城の再築城に取りかかった年なのですから、その天守の錺金具の「意図」は明白だった… と私なんぞは大いに反省しなければならないようでありまして、そこには “銀山王国ニッポン” を、国内外の人々に、強烈に印象づけるねらいがあったのだと考えざるをえません。

※           ※           ※
 
【ご参考】
「人を食う山」
… バーナード・レンズ画のポトシ銀山/18世紀



では最後に、ボリビアやメキシコの銀山と、日本の戦国大名や天下人を支えた銀山との “根本的な違い” を是非とも押さえておきたいのですが、植民地化されたボリビアやメキシコ(※当時はペルー副王領とヌエバ・エスパーニャ副王領)から、言わば「ネイティブの天下人」が出現したか? と言えば、とてもとても、そんな状況ではありえませんでした。

そもそもスペイン王室は、アメリカ大陸など殆どの征服事業には資金を出さず、もっぱら征服の根拠となる法令や許可を出すだけで、コンキスタドールらを送り出したわけですが、インカ帝国崩壊の13年後、ポトシ銀山が発見されて、膨大な量の銀が産出されると、その20%を税として吸い上げ、赤字続きの王室財政を支える “打ち出の小槌” として頼り切ったと言います。

で、残りの「80%」はどこに消えたか? と言えば、結局はスペイン人支配層が「植民地経営」を謳歌するため、母国のセビリア商人らを通じたあらゆる物品・資材の輸入代金となり、そうした国際的な決済は、1571年にアカプルコ-マニラ間の太平洋航路が開かれると、メキシコ産銀も含めて、絹などの中国産品の購入のために、アジアへの大量の「銀」流入にもつながったそうです。

現在のサカテカス銀山(=豚の膀胱!にちなんだ名の奇妙な形の丘 セロ・デ・ラ・ブファで知られる)は世界遺産の観光地だが…

当時、ポトシ銀山で採算性(労働者の稼ぎ)が悪化し始めると、ペルー副王領は、領内のインディオに「ミタ労働」という、徴兵制まがいの「輪番」賃金労働システムを強いて銀山に送り込み、彼らが水銀アマルガム法の精錬による健康被害でバタバタと倒れる様子は「人を食う山」と恐れられました。

したがって、うがった言い方になるのかもしれませんが、アメリカ大陸の「銀」と我が国の「銀」とは(採掘現場の労働環境の苛酷さは同様であったものの)やはり根本的な “意味の違い” があったように思えてなりませんし、その結果として、言うなれば……

天守とは「自主独立」を国内外に印象づけたモニュメントでもあった!?

※当サイトはリンクフリーです。
※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。