<お知らせ>
次回はまた、新しい天守画イラストの作成を思い立ちまして、例のごとく、一週間ほど遅れて、9月3日前後のアップになりそうです。→ →(追記)明日、4日にアップです。
【冒頭余談】
本当に統一教会が動機なのか?――――
自分の「勘違い」で殺してしまった安倍元総理への謝罪の言葉が、いまだに無い!…という、驚きの山上徹也容疑者。
―― まさか、自分は悪漢を殺害した英雄(ヒーロー)なのだと、「さらなる勘違い」をしているのかも。
(→ 産経新聞「安倍氏への謝罪 口にせず。山上容疑者、銃撃なお正当化か」)
そんな「勘違い」に加担していませんか? 山上容疑者は、法廷でも、銃撃を堂々と正当化するかもしれませんよ。………
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【 追記 】
……やはり、問題の核心は、怪物・阿部正寿(世界戦略総合研究所所長)の暗躍と、文藝春秋1984年7月号での内部告発者をめった刺しにした副島(そえじま)事件でしょう。 この事件の後は、右派の「常識」として、安倍元総理は心の底では統一教会を「嫌悪」していたのですから。
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さて、前回は、日本の城の築き方と、チベット周辺の国々の築き方との間に、いくつも似た点がある「原因」について、かなり大胆な推測を申し上げまして、今回は、そこで写真を引用した城について、どうも気になって仕方の無いポイントがあるため、もう一回だけ、チベット関連でお話をさせていただきましょう。 で、まずは…
< 1.天守の四方の出窓(唐破風の出窓)は、
思った以上の意味や効果が??
→ 金沢城「辰巳櫓」との比較から >
(これも前回ブログより)
石川康長時代の松本城天守も同じく、上から二重目に出窓が。
このような天守(塔)の出窓について当サイトでは、チベット仏教の「立体曼荼羅(マンダラ)」や、チャイナ建築の「抱廈/抱厦(ほうか)」=角楼や苑内の亭など眺望を第一とする建築に特有の、四方に張り出した小部屋、をもとにして、我が国の天主(天守)に採り入れられたものだろう… と推定してまいりました。
ですが、その挙句(あげく)に、次のような強烈な事例までも、江戸時代に出現したことを含めて考えますと、なおいっそう、認識を深める必要があるのかもしれません。!…
天守を失った後の金沢城の
ランドマークとなった「辰巳櫓」(寛永8年の再建版)
→ → 東と南に張り出した唐破風の出窓が、人々の目を強く引き付けたはず。
こんな強烈な事例を見てしまいますと、天守の「出窓」とは、それを設けただけで、何かを示していた可能性を感じるものの、そんな話は城のどの解説本にも書いてありませんので、何だろうなぁ… と想像力を働かせてみれば、一つ二つ、思い当たる節があります。
それは、辰巳櫓の出窓が、櫓台上の「一階」にあった、という点から来るもので……
明智光秀ゆかりの福知山城天守の古絵図(一階)には、
上段ノ間の近くに 張り出した出窓が?
これは内藤昌先生の論考にあった一階の書き起こし平面図を使わせていただき、図示してみたものですが、ご覧のごとく、天正期の古い天守台石垣との関係で申しますと、「上段ノ間」のすぐ西側=二ノ丸や城下を向いた側には、現状の半分程度の幅2間弱の張り出し部分が、さも「出窓」のごとく、突き出ていた可能性があったのではないでしょうか。
一方、我田引水で恐縮ですが、静嘉堂文庫『天守指図』の当サイトの解釈でも、
安土城天主も二重目=天主台上一階の上段ノ間の近くに、張り出した部屋が。
(※ご覧の図は「赤」が板張り、「薄い青緑」が畳敷きの座敷を示していて、
部屋の名称は『安土日記』のとおりで、数や広さもぴったり合致しております)
これらの座敷のうち、特に「黄緑色」に変えた二部屋が、織田信長が対面の場として使った(はずの)「十二畳 鵞(がちょう)の間」と、南側の壁面に半分張り出した「次八畳 儒者の間」であり、ここはおのずと、天主の外から見れば幅2間の「出窓」と見えたことでしょう。
このように、天守の歴史のかなり早い時期の建物で、一階の上段ノ間の近くに「出窓」が張り出した事例が、いくつかあったことを想定できそうでして、これらは当然ながら、「城主」がよく顔をのぞかせる可能性のある「窓」として、家中で認識された可能性が濃厚だったはずです。
この仮称「王の窓」とでも呼ぶべき窓は、城主の存在を示したアイコンだったのかもしれませんし、それを建物の四方に設けたことは、かなり意図的な行為と思わざるをえず、それを高い位置に掲げて城下にも見せつけたのは、まさに天守建造の目的そのものとも合致した行為でしょう。
袁江画「阿房宮図屏」に描かれた亭台楼閣(四方に張り出した抱厦の典型)
そこで出窓の「位置」について、もう少し厳密に申しますと、それらが「天守の上から二重目にあった」という点に重きがあるのではなくて、例えば上記の亭台楼閣のような二階建てを想定しますと、一階の四方に出窓があって、その上の二階にまた望楼階がある、といったコンビネーション(上下の組み合わせ)に重きがあったのではないでしょうか。
したがって、例えば江戸城の寛永度天守を例にとれば、そんな「二階建てコンビネーション」がそのまま五重天守の最上部に載(の)った形なのだ、という風にデザインを解釈すべきなのだろう… と私なんぞは感じているのですが。…
< 2.防衛・威かく・象徴のために、
本来の天守は 天守曲輪のいちばん手前だったか
→ 飛騨高山城との比較から >
さてさて、前回も引用しました「コトカイ城」Kotkhai Fort/Kotkhai Palace は、ご覧の矢印のように、塔の真下の位置に主要な入口がある、という構造でありまして、すなわち「塔」が城(宮殿)のいちばん「手前」にあったことになります。
――― こういうスタイルは、我が国の天守においても(独立式=単立式の天守が普及するまでは)十二分に言えたことだと、当サイトは発足時から一貫して申し上げてまいりましたし、前回の記事で比較の例に挙げた「飛騨高山城」も、まさにその一つ、と申し上げてみたいのです。
(当サイトの2010年度リポートより / 豊臣大坂城の場合)
(→ 天守は「本丸(詰ノ丸)の左手前の隅角」に築かれるもの…)
高山城本丸屋形平面図(※イラストに合わせて上下を逆に回転させて表示)
そして重要なのは、天守の一階にあった「上段の間」の向き!なのでは…
↓ ↓ ↓
ということでして、天守一階の「黄色い」部分は開け放つことが出来たでしょうし、室内の城主はこちら側を向いて座った、ということが100%確実なのですから、この飛騨高山城の本丸において、天守は(天守曲輪の)いちばん手前にあった、と申し上げても良いのではないか?… と思うのです。
これは城全体の築造の順序や配置を含めて考えれば、もっとハッキリするでしょうから、現地の案内看板にあった地図も利用しながらご覧いただきますと…
ご覧の看板の中に「大手」「搦手(からめて)」とあるのは、ご承知のとおり、ずっと長い間、本丸の出入り口は南側が「大手」で、北側が「搦手」だと伝承されて来たことに従ったものですが、現代では、これらは逆ではないのか、との先生方の指摘もありました。
しかし、しかし、今回の記事で申し上げている内容からは、やはり「伝承どおりで正しい」ように思えてなりませんで(※図の「大手」の位置はちょっと南過ぎるものの)本丸の南側を通り、上段ノ間の真下などを通って、二の丸以下と行き来するルートこそ、本来の「大手」なのだと。
…… 仮に、もしも伝承の「搦手」が本当は「大手」だった場合を考えてみますと、そちらから登城して、東側から本丸御殿に入って進んだ者は、ようやく天守の一階で(※※前述の福知山城のごとく、そんなに長い導線は本来はありえなかったはずですが)城主に会えたと思ったら、なんと!城主は真逆の向こうを向いていて、後ろ頭を見せていた――― などという形になってしまい(※実際は「床」があってそうはならないものの)実にバツの悪い登城になったのではないでしょうか。
で、そうならないために、わざわざ別途、本丸御殿の広間には(真逆の!)東向きの上段がしつらえられたわけで、そうした措置は、やはり築城後の「拡張工事」のなかで考案されたもののように思えますし、搦手からの登城者との対面もスムーズに行うための、後付けの工夫だった、と見えて来てならないのです。…
天守など最初期の建物は西向きのままで、その後に御殿が拡張されたのでは?
すなわち、本来の天守は、まだ建物が少なかった頃の天守曲輪のいちばん「手前」にあって、攻城者を撃退し、登城者を威かくし、家臣・領民らの目に象徴的に見えるように、建てられたのではなかったか?… と申し上げたいわけなのです。
(※こういう事情からも、私は「天守はラスボス」といった言い方に、必ずしも賛成できないわけでありまして、言うなれば天守とは、ラスボスの「直前の位置で」仁王立ちした最強キャラ、だったのでは。)
今回の記事で申し上げた「ポイント1」「ポイント2」を、両方とも、見事に備えたのが、備中松山城天守、とも言えましょう。 これを「奇跡」…と感じるのは私だけでしょうか。
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※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。