カテゴリー: 小牧山城・松山城・飛騨高山城

「立体的御殿」出現のメカニズムを解く? 天主取付台の見直し


「立体的御殿」出現のメカニズムを解く? 天主取付台の見直し

 【前回記事の大胆仮説】
  山頂の狭い「台」上に、絶対的な主君の館にふさわしく、
  いっそのこと、ひとそろいの書院造の御殿群を建て込んでみたい…。
  ここに「立体的御殿」化が急務となった、直接の動機が見えるのではないか! ?
 
前回記事の最後にまたまた妄言を申し上げてしまいましたが、この件についてもう少し、妄言…の心理的な背景をご説明させていただきたいと思います。

一乗谷・朝倉館の建物群

(※養父市ホームページ掲載の「越前朝倉氏 朝倉館 配置図」を使って作成)

御殿が雁行していた一乗谷の朝倉館は、研究者によって個々の建物の想定が少しずつ異なるため、ご覧の書き込みは引用の配置図どおりとし、一部、「会所」に平井聖先生などがおっしゃる(楼閣か)という一言を加えさせていただいたものです。

あえて色分けしたとおり、接客や対面に使われた「主殿」など、手前の西寄りの建物群が表向きのもので、新たに日常生活の場として設けられた「常御殿」から向こうが、奥向きの建物ではないかと言われています。

で、冒頭の “妄言” は、これらのひとそろいの御殿を、山城の山頂の「台」上に建て込めるだろうか?という仮定の話ですので、試しに、小牧山城の主郭石垣を同縮尺でダブらせてみますと…

やはり、かなり手狭な印象! ! 「立体的御殿」化への直接の動機か

ご覧のように、山城の主郭としては充分な広さがあるはずの小牧山城でも、その山頂部を巨石を積んだ別格扱いの「台」と考えた場合は、そこにどれだけの御殿を建て込めるかという <スペース的な制約> が生じて、その時、初めて「立体的御殿」が現実の課題になったのではないかと申し上げたいのです。

そしてその中では、例えば朝倉館の「遠侍」から一番奥の「数寄屋」等々まで、すべてを立体化して縦に重ねたのか? と言いますと、必ずしもそうではない節もありまして、それは「天主取付台」に関してちょっと気になる点があるからです。…

織田信長の奇妙な行為から推理した、安土城主郭部の「ハレ」と「ケ」の領域案

ご覧の下の方の図は、4年前のブログ記事でお目にかけた図の抜粋でして、これは天正10年、織田信長が家臣らを安土城に招いたおりに、家臣らが差し出した礼銭を信長がみずから受け取り、後ろに投げた、という有名な逸話をもとに、その隠れた意図を推理してみた図になります。

すなわち、信長はその時、ハレ(表)とケ(奥)の境界線上に当たる場所に立っていて、銭を背後に投げるという行為そのもので「銭は受け取った!」という意思表示をおおげさに家臣に見せた、ということではなかったかと思うのです。

もしそうだとしますと、「天主取付台」はケ(奥)の領域のいちばん手前に位置づけられていたことになるため、どうも私なんぞには、天主取付台は“常御殿の一部”として機能していたと感じられてなりません。

ですから、立体的御殿(萌芽期の天守)はどこから奥の御殿を立体化したのか?という先程の疑問については、結局、<常御殿から奥が台上で立体化された> と申し上げざるをえないように思うのです。…



発掘当時の小牧山城の主郭石垣 / 左上が小牧市歴史館のある主郭内


台上に誕生したのは「殿守」か「天主」か「殿主」か

おなじみの木戸雅寿先生は、当時、様々な文献に書かれた天守の文字は「殿守」「殿主」「天主」「天守」と色々であり、それらのうち「殿守」「天主」がいくつもの城で使われた一方、「殿主」は安土城天主を示した別称でもあり、豊臣政権の成立後はすべて「天守」に統一されたと指摘しておられます。(『信長の城・秀吉の城』2007年)

こうした書き方の問題からも、天守の起源について、色々とアプローチがなされて来ましたが、今は小牧山城の発掘成果(とりわけ主郭石垣の重大な意味)によって、新たな段階が見えてきたのではないでしょうか。

と申しますのは、機能を分化した「書院造」や望楼の立体化で誕生した「殿守~天守」と、逆に一棟に機能を集約していた「主殿」建築も網羅して考えるなら、これまでにない建築史的な天守の解明が、いっそう系統的に進むのではないか… といった将来への希望的観測も感じられるようだからです。

ご参考) 天主取付台に大型の付櫓が続く可能性を
主張されて来た、西ヶ谷恭弘先生の復原案

(著書『復原図譜 日本の城』1992年の表紙より)

このように、意外にも「天主取付台」は多くの可能性を秘めていると思えてならず、それは小牧山築城の4年後に早くも移転した居城・岐阜城においても、同じことが言えるのかもしれません。
 
 
 
<峻険な岐阜城の山頂の天守は、手前に「天守取付台」を考えれば…>
 
 

岐阜城 山頂の復興天守

さて、織田信長の時代、岐阜城の山頂(「主城」)に「天守」はあったのか無かったのか。

現状では「無かった」とおっしゃる研究者の方が、多数派を占めておられるようです。

その理由としては、現状の復興天守が載っている天守台石垣はもちろん明治以降に度々積み直されたもので、それ以前の、古図にある天守台も池田輝政時代のものである可能性があり、信長の時代は、険しい山頂部分に大規模な石垣を築けず、「天守」に充分なスペースは無かった、と考える方々が多いからのようです。

復興天守に入る天守台石段の周辺 / 当記事ラストの図の「写真A」の角度から

前掲書の岐阜城のページ(古図に基づく復原 / イラストレーション:香川元太郎)

しかし私なんぞは、そもそも、城内での建てられた「位置」(曲輪群の求心性の頂点)と「台」こそが天守の物理的な必要条件であって、三重から五重の階層が無ければ「天守でない」等とはツユほども感じませんので、多くの方々のような心配はまったく気になりません。

しかもその上、この度の小牧山城の大発見によって、岐阜城にも、ほぼ同じプランの萌芽期の天守(二~三重程度の望楼と御殿の複合立体化)が、しっかりと建っていた可能性が見えたように感じております。

(※香川元太郎先生のイラストレーションをそのまま使わせていただきながら図示してみました。
  前出の小牧山城の図とは、ちょうど反対側から見たような形になります)

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