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続・甲府城「天守」のゆくえ →再訪の直感、天守台「穴倉」内側も “見られること”を意識している


続・甲府城「天守」のゆくえ


(※大分合同新聞の報道写真を引用)

…… 前々回まで熊本城の話題を続けていただけに、九州の記録的大雨の報道には注視していたのですが、想像以上の被害の大きさに驚くとともに、自分もテレビの仕事を長く続けて来たせいか、ある傾向を感じ取りました。

というのは、民放の某テレビ局は、ご覧のような自衛隊の災害救助の映像を <今回は絶対に映さない> としたようでありまして、そうした意図的な映像の選択に限らず、物事は、見えてはいない部分が、多くを語ってくれるのかもしれません。……
 
 
そこで、当ブログの本題に入りますと、まずは私事で恐縮ですが、自分は小学生の頃に甲府の武田神社(躑躅ヶ崎館)の近くに住んでいた者であり、その後も幾度となく武田神社や甲府城は訪れたはずなのに、先月、20年ぶりくらいで甲府城の中を再訪したところ、自分でも愕然(がくぜん)とするほど、まるで別の印象を受けてしまいました。

それは多少 “やりすぎ” の感もある門や塀の再建、石垣の積み直し、江戸時代の縄張りとは無関係のスロープや虎口や橋の新設といった「新たな装い」のせいではなくて、まったくもって、かつての自分の未熟さから来る、重大な見落としをいくつも見つけてしまったからです。…


(※ご覧の本丸内のはげしい起伏は、石切り場など埋設物の保存用だとのこと)

まずはそのさわりの部分から白状しますと、ご覧の写真は、近代に増築された謝恩碑の台上から、本丸の内部とその東側に建つ天守台を眺めたところですが、背景の愛宕山の尾根に見えるのは県立科学館のプラネタリウムでして、現場の感覚ですと、この写真よりもずっと近くに山が迫っている感じです。

すなわち、詰め城ではなかった山が、これほど本丸に迫っている近世城郭も珍しいのではないか… という風に、今更ながら感じたわけでして、例えば地形的に厳しい制約のあった新宮城とか大洲城とは違い、広い甲府盆地の中のここなのですから、これは城の防衛上、見逃すことの出来ない欠点でもあり、どうしてこんな簡単なことに自分は気づかなかったのかと、のっけから自己嫌悪におちいりました。…

で、このことを踏まえて甲府城の構造を見直しますと、背後の愛宕山から見た場合、天守台はちょうど、すぐ西側の足下の本丸御殿や二ノ丸、楽屋曲輪、大手門などを隠す(=さえぎる)かのような位置にあるのだと分かります。

ですから、もしも天守台そのものが遮蔽(しゃへい)物の機能を負っていたなら、そうした天守台の上に、必ずしも木造の天守建物が建っていなくても、防御上の期待にはじゅうぶん応えられたのではないか……

そんな “予想外の疑念” が頭の中に浮かんでしまい、そこで思い出したのが、数年前、おなじみの三浦正幸先生が復元考察された天守について、じつは先生ご自身が講演会で「甲府城の天守台について今回、寸法を測りました。本当は現地で巻尺を使って測るのがよいのですが、今回時間がなかったので図面に基づいて測りました」という風にして、あの有名な復元案を仕上げたことでした。

ここはやはり、天守台の「現物」をもう一度、じっくりと見つめ直した方がいいのではないか? と思い立ち、改めて天守台をぐるぐると見て回れば、またまた、とてつもない重大事を見落としたことに気づいたのです。

天守台の現状 所々に大ぶりな石(鏡石)を配して圧倒的な迫力を出しているが…

ご覧の天守台の石垣は、近年、間石(詰石)の補充や部分的な石の取り替え(石段の踏み石など?)はなされたものの、基本的には築城時そのままの石垣だそうで、大変に見ごたえがあるのですが、このまま石段を上がっていわゆる「穴倉」の中に入ったとき、その重大事に気づいたのでした。

写真の人物がいるあたりが、天守地階(穴倉)の門や扉になるはずで、

例えば、この人物の右側(北側)の石垣にある縦長の石は、

縦の長さが約170cm。こうした大石がさらに奥まで続いていて

最初に石段を登ったとき、真正面に見えたこの石も、縦の長さが約180cm

似たような調子の石垣が、さらに東面、南面と続いている―――

以上の総括として、もう一度、穴倉の北面の石垣をご覧いただきますと、
左端が穴倉の扉(とびら)のはずですが、そこから奥(右側)の穴倉内部まで
まったく同じ調子で! ! 大ぶりな石が配されつつ築かれていたのです

つまり甲府城の天守台は、穴倉の「奥」の「奥」の方まで、城主や登城者に “見られること” を意識していた ことになる―――

こんなことは他の天守にもあったことだろうか… と思わず記憶をたどってみても、例えば会津若松城、犬山城、安土城、津山城、福岡城、松山城などなど、各々それなりに穴倉内の石垣を築いてはいても、どこか “おざなり” な扱いであったように思われますし、それもふだんは真っ暗闇なわけですから、当然のことでしょう。

ところが、甲府城の天守台は、石段を登ってすぐの位置に立つと、本来なら目の前に天守地階(穴倉)の扉や引き戸があって見えない(なおかつ暗い闇の奥になる)はずの、正面奥の石垣に、大ぶりな石がわざわざ配してある……

見た目の直感 <この 明るい状態 が、この天守台の「完成形」ではないのか?>

江戸時代にはご覧の手前の位置に小さな門だけが建っていたそうですが、もしもこのように天守の地階が無い “明るい状態” が、もとから天守台の完成形だとすれば、そのことが示す「答え」は単純なはずです。

………ただ、江戸時代に天守の無い状態が長く続いたなかで、これらの石垣が(城主や登城者の目を意識した形に)築き直された、というケースも考えられなくはないでしょうから、そのあたりの確認ができないうちに、ここで性急な結論を出すわけにも行かないでしょう。
 
 
ただし一つだけ申し添えたいのは、穴倉の大石はどれも残念なことに「落書き」の跡で汚れておりまして、しかし、だからと言って、これらの石は絶対に取り替えないで欲しい、と強く申し上げておきたく、何故ならば、これらの落書き石は以上のごとく <甲府城最大の歴史の証言者> なのかもしれない… と感じるからです。

城下の多くの場所からよく見える、甲府城の天守台

さて、以上のような天守台は、御殿が建ち並んでいた西側を除けば、城のどの方角からも非常に良く見えるものです。

ですから江戸時代に「天領」の支配の象徴としては、これで十分であったのかもしれませんが、現代の地元の方々にしてみれば、毎日、建物の無い「台だけ」の状態を見せられ続けているわけで、必ずしも地域振興という意味だけでなく、人間の自然な心理的欲求として、天守の再建論議(実在を検証する要求)が起きるのも無理からぬところでしょう。
 
 
ですが冒頭から申し上げたとおり、今回の再訪の直感として、私は甲府城の天守台には、どの時代にも「天守」は無かったはずだと、かなり強く思えて来ました。
 
 
ならば天守台を築いた大名自身が、あえてそのようにした理由や動機は何だったか? という「謎」は依然として残るわけでして、そこで逆に申し上げてみたいのは、例の躑躅ヶ崎館の「天守台」に加藤光康の頃などに天守が築かれ、それがそのまま浅野長政・幸長の時代にも踏襲されて行き、結局のところ “甲府の城” の天守は、解体されて撤去されるまで、ずうっと、躑躅ヶ崎館の方にあり続けたのではなかったのか ! ! ? … という超大胆仮説です。


(※当図は左が北)

この場合、かつて甲府城の天守「実在」説を勢いづけた金箔付きシャチ瓦などは、例えば、躑躅ヶ崎館から甲府城への「天守移築用」として、浅野幸長の時代などに運び込まれたものの、豊臣秀吉の死に始まる動乱の中で行き場を失い、そのまま甲府城内に埋められてしまったのかもしれない…… といった想像も出来なくはなく、私なんぞはますます「躑躅ヶ崎館の天守」がどういうものだったのか、興味が増しているところなのです。
 
 
では最後に、お蔭様で当ブログは6月29日に累計200万アクセスを超えまして、この場を借りて、皆様の日頃のご支援にあつく御礼申し上げます。

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