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幻の福岡城天守と「切妻破風」をめぐる戯れ言(ざれごと)をひとつ


幻の福岡城天守と「切妻破風」をめぐる戯れ言(ざれごと)をひとつ

4月19日 日本城郭史学会の大会「黒田官兵衛の戦略・築城」
講師の西ヶ谷恭弘先生  /  小和田哲男先生  /  丸山雍成先生

先週は城郭史学会の大会がありましたが、今年は各地で黒田官兵衛の城をテーマにしたシンポジウムが行われていて、西ヶ谷先生は2月の福岡の市民フォーラム『黒田如水と福岡城天守閣』にもパネリストで出席された関係から、話題になった天守復元の件についても一言、印象を述べておられました。

おなじみの福岡城天守の復元CG(佐藤正彦先生の著書より)

西ヶ谷先生の印象としては、ご覧の復元案は「広島城天守などを参考にしたためか、福岡城で多用された切妻の屋根や破風が一つも無く、その点がやはり気になる」というもので、この発言には私も思わず(心の内で)ポン!と膝を叩いたのです。

ご承知のとおり、現実の福岡城は… 例:南の丸多聞櫓の切妻屋根

ということで、今回の記事は、西ヶ谷先生の「切妻」発言にたいへん意を強くしまして、またまた立体的御殿の話題を先送りさせていただきつつ、この際、私なんぞが以前から「幻の福岡城天守」に感じて来ました、ある“戯れ言”をひとつ、申し上げてみたいと思うのです。

(※ちなみに私は天守の存在肯定派でありまして、思いますに、否定派の方々の反論は、黒田家に対する先入観や若い市長への反感が先走りしているように見えてならず、文献上に「天主」「天守」の文字がいくつも散見されるのに、天守そのものは全く無かったという理由を、当時の史料等でちゃんと示せていないのではないでしょうか。
とりわけ否定派の「代用天守説」では、黒田家はなんと、代用天守で徳川将軍を言いくるめようとしたことになりかねません。! ! ! …)

四重天守? と二基の三重櫓が見える

さて、ご覧の絵は、大会講師の丸山先生の発表用資料にもあったもので、キャプションは <『吉田家傳録』福岡城軒唐破風四層櫓(中央)> であり、荻野忠行著『福岡城天守と金箔鯱瓦・南三階櫓』や『福岡城天守は四層(四重)か』でもそのように表記されています。

ですが、見たところ「軒唐破風」?というよりも「切妻破風の張り出し(出窓)」ではないのかと思えてなりませんが、そんな点を踏まえて、是非とも、この見なれた浮世絵をご覧いただきたいのです。!!

歌川貞秀「真柴久吉公 播州姫路城郭築之図」(江戸末期/兵庫県立歴史博物館蔵)

おなじみの姫路城の浮世絵で、「えええ! ? 浮世絵など当てになるのか」と即座に思われたことでしょうが、今回、是非とも申し上げたいのは、もし仮に、この絵に “浮世絵でないバージョンの絵” が存在したなら、話はかなり違って来るはずだということでして、もうしばらく我慢してお読みいただけますでしょうか。

まず、歌川貞秀(うたがわ さだひで)は江戸後期から明治時代(文化4年~明治11年頃)に生きた浮世絵師で、美人画、武者絵、風景画(特に精密な鳥瞰図)を得意としたため、「空とぶ絵師」とも呼ばれる人物です。

そしてご覧の浮世絵は表題のとおり、姫路城の築城を題材にした江戸末期の作で、この浮世絵と福岡城とをつなぐような事柄は、何ら存在しておりません。

しかしこの絵は…

1.羽柴(豊臣)秀吉ゆかりの姫路城として描かれたものの、実際の姫路城天守とは似ても似つかない

2.「切妻破風」を最も多用した天守として描かれている

3.城外からは「四重天守」に見えた可能性がある
  (※浮世絵の下端にかすかに描かれた初重の屋根は、切妻破風の張り出しを伴わない腰屋根 )

4.左右に二基の三重櫓を従えていて、黒田官兵衛を思わせる「天守曲輪」か

5.全体の「築城図」風の描き方が “築城名人” の関与を感じさせる
 
 
といった辺りが、気がかりな現象が重複しているところでして、そのため「これは本来、幻の福岡城天守の描画だったのでは……」という勝手な疑念が、私の頭の中でだんだん大きくなって来たのです。

そしてもちろん、この浮世絵の見所は、鳶(とび)職らの作業風景のようでいながら、それらの人物が「真柴久吉(羽柴秀吉)」など、豊臣家ゆかりの武将らに見立てられた(=差し替えられた)面白さにあります。

貼り札は左上から「真柴久吉」「麻野長正」「畑切且元」「佐藤清正」「滝坂塵内」等々

(※また最上階の屋根は、平側だけでなく、妻側にも「切妻破風」!)

で、ご覧のとおり、この絵は天守築造の作業風景を大雑把に描いたものとも言えましょうから、これには築城図としての「原画」が別途、存在していたのでは?… といった想像も出来るのかもしれません。

現に歌川貞秀は、江戸末期に全国を旅しながら各地の鳥瞰図構図の風景画も描いた人だそうで、どこかの地でそんな「原画」を見い出したのかもしれない、などという都合のいい空想が私の頭の中を飛びかうようになりました。

そう思って手がかりは何か無いのかと浮世絵を見ますと、背景の「海」の描き方が、ひょっとして福岡や博多湾の様子に似ていたりはしないのかと……

背景に広がるのは瀬戸内の海ではなくて、「博多湾」だと したら??

この絵の右下部分 / 港や、ぎっしりと並んだ蔵、水平線上の起伏の連なり

ご参考1)城と港の位置関係  金子常光画「福岡市及附近案内図」昭和7年

(拡大)

(※上図1はサイト「博多湾大図鑑/博多湾古地図ギャラリー」様からの引用です)

ご参考2)博多の蔵や港  林圓策画「福岡・博多鳥瞰図」明治20年(※上半分が福岡と中洲、下半分が博多)

(拡大)

ご参考3)水平線上の様子 「福岡城下町・博多・近隣古図」(※いわゆる「福博古図」文久9年写し)

(拡大)

という風に、ご覧いただいた図は少しずつ時代が違うものですし、まぁ、このような景色であれば、偶然の一致?…ということもあるのかもしれません。

それにしても、幻の福岡城天守から眼下に広がっていた 当時の博多湾 は、右手の方に港や蔵の町並み、その向こうの水平線上には 立花山から名島の丘、海ノ中道の砂州、そして左手の島々まで、ずうっと、この浮世絵のとおりの(!)起伏が連なって見えたことでしょう。

この一件の調べは(歌川貞秀についても)まだまだ不充分であり、やはり私なんぞには、史上最多の「切妻破風」を積み重ねた天守の描写が、どうにも気がかりで仕方がないわけです。
 

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