新イラスト!秀吉の大坂城天守の<南面>をご覧下さい



新イラスト!秀吉の大坂城天守の<南面>をご覧下さい

大阪城天守閣蔵の屏風絵(部分)とその推定復元/ともに<西面>!

当サイトでは、豊臣秀吉が創建した大坂城天守について、上記の『大坂城図屏風』が伝えるおびただしい紋章群こそ、この天守に込められた深刻な政治的思惑を示すもの… と申し上げて来ました。

それは、まさに宣教師の「地の太陽は殆ど天の太陽を暗くする」(『日本西教史』)という評伝どおりの破天荒な外観であり、当サイトはそうした屏風絵の描写に忠実にイラスト化を行ったつもりです。

ただしそれ以来、長らくこの<西面>イラストばかりをお見せして来たため、この度、新たに<南面>(厳密には南西の詰ノ丸奥御殿の南部付近)から見上げた様子を推定して、イラスト化してみました。


(※クリックすると壁紙サイズでもご覧いただけます!)

こうしてご覧になれば、『天正記(柴田退治記)』が伝えたとおりの「四方八角」の建築であったことが、如実にお判りになるでしょう。

で、この新イラストで申し上げたいことは多々あるのですが、まず今回は「紋章群」の実際についてお話してみたいと存じます。
 
 
 
<紋章群は大型の木彫なのか?それとも錺(かざり)金具か?>
 
 
 
その紋章群とは、具体的にはどのような材質だったのでしょう。

同時代の事例で似たものを挙げますと、まずは醍醐寺三宝院の国宝・唐門にある木彫の紋が連想され、この門が勅使門であることを示した「菊紋」「桐紋」には、かつて金箔が張られていたそうです。

醍醐寺三宝院 唐門

一方、『信長記』『信長公記』類によりますと、織田信長の安土城天主には、京の装飾金工・後藤平四郎が腕を振るったという金銅製の錺金具が施されていました。
おそらくは釘隠し(くぎかくし)の類かと思われ、その仕事で平四郎は信長から小袖を賜ったと記されています。

ならば大坂城天守の巨大紋章群の場合、果たして木彫なのか? 錺金具の応用なのか? と問われますと、それを判断できる直接的な史料は無いようですが、ただし紋は「壁」そのものに取り付けられた例はあまり一般的でないようで、その点では注意が必要でしょう。

つまり建物に「紋」がつくのは大抵、門扉、破風、瓦、幕、提灯といった箇所になりがちで、醍醐寺三宝院も門扉であり、その例に漏れません。

例えば年代を問わずに色々挙げてみますと…

  北野天満宮の門扉        宇和島城天守の唐破風下


  靖国神社の白幕           高山陣屋の提灯

―――ですから巨大紋章群の位置も「壁」ではない、と考えた場合、ここで大きなヒントになるのが、ルイス・フロイスの見聞録にある “秀吉が大坂城天守の戸や窓を自分の手で開いて行った” という記述だと思われるのです。

(※『完訳フロイス日本史4』中公文庫版より)

その後関白は、主城(天守閣)および財宝を貯蔵してある塔の門と窓を急ぎ開くように命じた。
(中略)
彼は城内で登り降りする際には、低い桁がある数箇所を通過するにあたって足を留め、おのおのが上の桁で頭を打たぬよう注意して通るようにと警告した。
そして途中では閉ざされていた戸や窓を自分の手で開いていった
このようにして我らを第八階まで伴った。

 
 
これはフロイスら宣教師など三十人余りが大坂城を訪問したおりのことで、城内で “頭を打ちそうな桁(けた)” と言えば、まさに天守や櫓の階段部分であることは、お城ファンならすぐに思い当たるでしょう。

そして秀吉と一行がわざわざ天守に登閣するのですから、いきなり真っ暗な天守内にゾロゾロ上がっていったとは思えず、事前に窓を開け放つなどの準備は、当然、ぬかりなく行われていたはずです。
 
 
にも関わらず、秀吉が自ら開ける箇所を “残していた” というのは、そこに一行の話題となる何か(つまり興味の対象…)があったとも想像できます。

なおかつ、その箇所が秀吉一人では作業が危ういほど重いもの(例えば巨大な木彫が外側に取り付けられた戸など)であったはずはありません。

このように考えた時、ふと想起されるのが、国宝・犬山城天守にある両開きの窓です。
左右の戸は止め金等でフックするだけの構造であり、秀吉一人でも自在に開け閉めできる程度のものです。

犬山城天守の窓(昭和の解体修理時の復原)

そして「一行の興味を引いた何か」がここにあったとしますと、黄金の紋章群とは、大型の扉金具ではなかったか? と考えられるように思うのです。

―――つまり個々の紋章は、止め金と一体化して左右の戸に打たれた錺金具であり、その窓をあける動作を外から見ますと、巨大な紋章が真っ二つに割れて開き、閉めるとぴったり元の紋章に一体化する、といった面白い(やや不敬な印象もあって大胆不敵、かつ破天荒な)仕掛けだったとしますと、前述の秀吉のエピソードはまことに痛快です。

細工としてこれに類似のものは、例えばこちらは全く時代の異なる錺金具ですが、成田山新勝寺の開山堂などにも同類のものが見られます。

と、今回は、かなり手前勝手な「空想」を申し上げてしまったのかもしれませんが、私が想像するに、そんな仕掛けを宣教師らの前で得意げに開け閉めしてみせる秀吉の表情が、ありありと思い浮かぶのは何故なのでしょう。……

(※次回に続く)
(※ちなみに今回のイラストは、下記の三浦正幸先生による復元CGと、ほぼ同じアングルから作画したことになります)
(※そして両者ともに、実際は手前に奥御殿が建ち並んでいたため、このようなアングルから天守の全身をスッキリ見通せなかったことは言うまでもありません)

別冊歴史読本『CG復元 よみがえる天守』2001年

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