米民主党内はパニック状態らしく、オバマ元大統領は民主党ハリス陣営には本物のエネルギーが感じられない、と批判する始末だとか。
ところが日本では、ぜんぶが米民主党との「密約」政治で進んでいる!!?…
写真中央の、安倍元総理の盟友のはずの菅元総理は、「次の総理を小泉進次郎に」との水面下の約束で、仇敵!石破茂を総理大臣に押し上げた…/ キシダフミオはあの○○○事件の腹心・木原誠二を、わざわざ進次郎選対委員長のナンバー2に送り込んだ…/ そして進次郎の自論「早期解散」を飲むしかなかった石破茂総理は、積極財政の旧安倍派への復讐を果たすことしか、することが無くなった…
ぜんぶが、キシダフミオが結んだ米民主党「密約」政治の上で進んでいる。 巨額ウクライナ支援にとどまらず、この先、<日本の財産をアメリカに切り売りする>小泉ジュニア版・聖域なき構造改革に向かって盲進中である。 空恐ろしい。 没落する日本を放置する「手」が、気持ち悪く、にぎり合っている。
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( 前々回の記事より )
洛中洛外図屏風に描かれた唐花文様の木幡山伏見城天守と、
当サイト復元の二条城寛永度天守=徳川再建伏見城天守のそのまま移築
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< 木幡山伏見城の天守は、実は、徳川再建後とほぼ同じ位置だった >
秀吉が再建した木幡山伏見城と、徳川幕府による再建後(レーザー測量図の現状)は、
天守台の位置は、ほとんど変わらない!?…という意外な結論も。
――― 前々回のブログ記事では、ご覧のような大胆な見方をお話したものの、これがちょっと言いっぱなしの感もありましたので、今回は是非とも、木幡山伏見城の「三角形」本丸の件などを補足して申し上げてみたいと思います。
< 問題の木幡山伏見城の「三角形」本丸と天守台の形状をさぐる >
では、上記のごとき「意外な結論」に至った測量図の類いを、まとめてご覧いただきますと…
(※左側と中央は近年の図、右側は大正11年の測量図を茶色く表示したもの)
これら三つを一緒にダブらせてみますと、下記のごとく、明治天皇稜の完成による遺構の改変ぶりや、本丸北東の松ノ丸で起きた異変(→ 土砂崩れ?)の様子などが、如実に見えてまいります。
いかがでしょうか。 このように大きな図で再確認をしてみますと、木幡山伏見城の本丸はやはり「三角形」だったのだ…と解釈せざるをえない様子でしょうし、この場合、問題になるのは、どうして伝来の城絵図は「台形」のような本丸として描かれたのか?との疑問でしょう。
しかもそれらの城絵図は、本丸の南辺に「二丁程」との墨書が。
( 考えられる可能性は… )
このような三角形の本丸では、南辺の辺りには、どう当てはめても「二丁程」の石垣等を考えるのは絶対に不可能ですので、これはおそらく、本丸の「東西の幅が二丁程」との記録があったものの、それを城絵図にどう当てはめたらいいのか分からなくなった作者が、勝手に、南辺を「二丁程」に広げて描いてしまった……という風にしか考えようが無さそうです。
そして、こうした三角形の本丸と申せば、皆様ご存じのとおり、織豊期から江戸初期に築かれた城では珍しいものではありませんでした。
『正保城絵図』近江国膳所城絵図(部分)
代表的なのはご覧の琵琶湖の「浮き城」群=坂本城・大津城・膳所城などであり、また三原城・中津城・小倉城などの西日本の海沿いの城も同様で、特に琵琶湖の浮き城は「天守の位置」が城下から見て本丸の左手前隅角になるという、木幡山伏見城と全く同じ位置になっていて、それはちょうど伏見城の京都方面からの見た目(=洛中洛外図屛風の景観)にもぴったりの位置であったようです。
そこでこの際は、思い切って、伝来の城絵図の本丸を<<三角形に修正する>>ような形にして、上記の測量図の上におおまかにダブらせてみますと…
と、これは私なんぞの勝手な想像が、ずいぶんと入り込んだものではありますが、仮にこうしてみた場合……
◆ 第一に、レーザー測量図で明らかな現状の天守台跡=徳川再建天守の位置と、城絵図の豊臣時代の天守の位置とが、無理なく「合致」できること。(→ 規模の点でも、城絵図の墨書「天守十六間十八間」が十分に納まるものに。)
◆ 第二に、測量図でも明らかな天守北西側の「一段低い」エリアは、天守台石垣などの本丸北西側の高石垣を際立たせつつ、天守を守る控えの空地として機能しただろうこと。(→ これと似たものは慶長期の駿府城にも有り。)
◆ 第三に、大正11年の(茶色い表示の)測量図において最も不審な、本丸北東の松ノ丸の「土砂崩れ?」について、この辺りまで高石垣の連なりが続いていたと考えた場合は、それが廃城後の江戸時代などに跡地が自然崩壊した?…と考えることも可能になること。(→ そうであれば、現状の松ノ丸の平らな地形や陥没は、明治天皇稜の造営にともなう整地や土取り作業の跡である可能性も?…)
◆ そうした考え方の延長線上の第四として、崩壊した?本丸北部の高石垣はそうとうに大規模なものとも思われ、角度的に京都方面からも目立つ高石垣であったとすれば、ひょっとすると、数々の洛中洛外図屛風において、これまで出丸や松ノ丸の石垣の表現と思われてきたものが、そうではなくて、例えば…
個人蔵「洛中洛外図屏風」より / 天守の手前(京都側)に描かれた高石垣と櫓門
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――― ! などということも(※大正11年の測量図を重視するならば)十分にありえたことと思えて来たのですが、いかがでしょうか。
< ならば「天守台」の形状はいかに?
城絵図の16間×18間は想定できそうなものの、この広い天守台に
天守木造部分はどう建っていたのか。類似は会津若松城か、駿府城か… >
さて、前出の図を拡大してご覧いただきますと、現状の徳川再建天守台の跡(=残存の土壇上の広さは、京間で東西8間×南北9間から10間の矩形 → まさに上図の黒い天守台の中の「白く抜けた範囲」に当たる)に対しまして、ほぼ同じ場所に、面積が4倍になる、城絵図で「十六間十八間」と墨書された、広い豊臣時代の天守台があったことになりそうです。
そこで問題は、この「広さ」をどう解釈したらいいのか?という点になりましょうが、まず、こんな図をご覧いただいた私の立場から非常に気になる(心配になる)のは、この図のとおりならば、天守台から連なる付櫓や多聞櫓などの建物群は、そうとうに大規模なもの!…になってしまうことです。
このままであれば幅(梁間)が10間!?にも達する建物になり、これは例えば、熊本城の本丸御殿ほどもあったことになりまして、ひとえに城絵図の「黒い天守台部分」を「十六間×十八間」にぴったりと当てはめた結果なのですから、言い出した私としては、ひとまず、このまま考えて行くしか立場がございません。……
【 ご参考 】 2008年の復元当時の熊本城の本丸御殿
(※ご覧の写真は「くまもとジャーニージャーナル!」様からの引用です)
この規模の建物ですと、屋根までの高さが天守の三階分にも匹敵しますから、こんなものが天守と接続していた形を想像しますと、おそらくは、16間×18間の天守台の中に「もう一段高い」二段目の天守台を考えないことには、うまく立体的に接続できなかったはずでしょう。
ということは、この広い天守台が類似したのは、北西側の角に寄せて天守が建つ「会津若松城」や、それとも、広い天守台の真ん中に建つ「駿府城」か、といった二者択一のなかでも、そこに「二段式」という別の要素が加わったものだったのかもしれません。
で、最後に一つ、是非とも付け加えておきたいのは、この大規模な付櫓や多聞櫓の「存在理由」として考えられることでして、かの『日本西教史』には、秀吉が宣教師ジョアン・ロドリゲスを城内の自らの病床にまねいて、最後の会話を交わしたことが記されておりますが、その会話の直後の部分がたいへん気になるのです。
(『日本西教史』第十二章より)
(秀吉は)自ら漸次に衰弱するを覚へ、今日の病勢は到底薬力の及ぶ所に非るを知り、閑静にして極めて看護に力を尽さしむる爲めに、伏見の殿中最も高敵寂寞の楼閣に臥床を移さしめ、(中略)
太閤は楼閣に病床を移してより千五百九十八年九月七日に至るまで荏苒(じんぜん)日を送り、諸奉行及び最も親昵の臣に非ざれば決して面晤(めんご)を許すこと無し。
(※「荏苒(じんぜん)日を送る」=何もできずに日を送ること)
この文中の「千五百九十八年九月七日」というのは、その翌日から危篤におちいり、一週間後に亡くなる直前の日のことですから、まさに、秀吉はこの場所「伏見の殿中最も高敵寂寞の楼閣」で死亡したに他なりません。
「高敵寂寞(こうてき せきばく)」とは、桜井成廣先生の著書では「城中最も高く浄らかな楼閣」と訳しておられ、天守かとも思うものの、「高敵寂寞」という熟語の意図は「ごく限られた人しか立ち入れない場所」でしょうから、問題の付櫓もまた、西側の窓がちょうど桓武天皇陵を見下ろす位置にあること!!を思えば、ここもまた「高敵寂寞」な秀吉最期の場所、ではなかったのか……と思えてならないのです。
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