安土城「大手道」を天皇はいかに登ったか


安土城「大手道」を天皇はいかに登ったか

今回から天主の話題に戻ると予告しましたが、安土城「大手道」が何故あれほど大規模なものになったか?という話を忘れていたため、今回だけ、どうかご容赦下さい。

で、その「大手道」ですが、以前の小牧山城の倍近く、約9mもの道幅で築かれています。

発掘調査関係者の報告ではこれを「天皇のための大手道」と考証していて、そうなりますと、実際に天皇の安土行幸があった場合、いかにしてあの石段を登るように想定していたのでしょうか?

そこでポイントになるのは、やはり “天皇の乗り物” でしょう。

例えば、京都・時代祭の名物の一つ、桓武天皇の御鳳輦(ほうれん)

行幸の記録によりますと、織田信長の頃の前後では、室町時代に北山第などへの行幸に使われた乗り物は「御こし」「御輿」と記され、すぐあとの聚楽第や二条城への行幸では「鳳輦」と記されています。

でも『聚楽行幸記』には「鳳輦・牛車、そのほかの諸役以下、事も久しくすたれることなれば、おぼつかなしといへども、民部卿法印玄以奉行として、諸家のふるき記録・故実など尋ねさぐり、相勤めらる」とあって、すでに室町時代の詳細が分からず、豊臣秀吉の周囲があわてた様子もうかがわれます。

当時の鳳輦を描いた絵画としては、例えば国立国会図書館の貴重書画像データベースにある「寛永行幸記」や松平定信の「輿車図考」などが参考になるでしょうし、寸法のデータとしては、静岡市文化財資料館にこんな鳳輦が展示されているそうです。

御鳳輦 1基 方輿125.0 高さ72.0 屋根114.0 柄長394.0
徳川家光公寄進 浅間神社収蔵品

いずれにしましても、鳳輦の柄の長さは4m前後、それに片側5人ほどの仕丁が取り付き、左右と中央の前後、そして周囲にも配置して、総勢20人ほどで担いでいく、という形が一般的だったようです。
 
 
もちろん行幸は群集が見守る盛事ですから、安土城に到着して「大手道」の石段にさしかかったとしても、そのまま、鳳輦を担いで登ったはずでしょう。

おそらくは鳳輦を横向きにして、仕丁らが左右に並ぶ形で、ゆっくりと登るつもりだったのではないでしょうか。

そうした姿を想像するとき、初めて、壮大な規模の「大手道」が安土城にとって不可欠の舞台装置であった、と理解できるように感じられます。

二条城 東大手門

さて、城郭への行幸と言えば、ご覧の二条城の東大手門は、寛永行幸の際に後水尾天皇の鳳輦が通過した門ですが、ただ当時は、このような姿ではなかったことが知られています。

門の上の櫓部分がまったく無く、門の柱や冠木の上に直接、屋根がかけられた「高麗門」などの単層の門だったのを、行幸ののちに櫓部分を増築して、現在のような櫓門になりました。

東大手門は二条城の第一の門であるにも関わらず、何故、単層の門にしていたのか… それは御承知のとおり、櫓門では、天皇の頭の上に床(つまり侍の足!)を置く形になってしまうから、と言われています。

というように、幕藩体制の確立に向けて、朝廷に抑圧的な政策を取り続けた徳川幕府でさえ、鳳輦の通過する門の形には配慮していたわけです。
 
 
となりますと、例の安土城の「大手門」についても、織田信長が “本気で” 天皇を迎えようとしていたなら、それを櫓門にするという選択肢は無かったのではないでしょうか?

仮に、前回の「信長廟の門構え説」から百歩譲って、信長の存命中から「大手門」があったとしても、それが櫓門であった可能性は、極めて低い、と言わざるをえないようです。
 

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