歴史の証言者「池上右平」の功罪
3回ほど続けて記事にした『天守指図』について、ここで一旦、整理してみたいと思います。
静嘉堂文庫蔵『天守指図』
これは40年ほど前、静嘉堂文庫に収蔵されていた加賀藩作事奉行の池上家の史料群にあった巻物(標題『天守指図』)を、内藤昌先生が見出し、幻の安土城天主の指図(設計図)の写しであると発表し、話題になったものです。
(※ご覧のとおり、前回までご紹介したのは、七重のうち下から二重目、すなわち天主台上の初重の図になります)
内藤先生は天主台跡の実測調査も行い、「天主の建築的・具体的形態を示す技術史料として池上右平『天守指図』に優るものはない」という風に巻物が伝える情報を高く評価し、それを中心とした復元案を示されました。
復元の内容については、内藤昌著『復元・安土城』や『国華』第987号・第988号に詳しく、また安土駅前にある城郭資料館の20分の1模型も有名です。
そして発表の翌年、早くも激しく反論したのが宮上茂隆先生で、先生のキャラクターも作用したのでしょうが、反論のキツい言葉づかいは、一介の城郭マニアの目から見ても “学問の業界はキビしいっ!” と感じたものです。
ところが、いま改めて、宮上先生の文章を点検し直してみますと、意外にも “両先生が合意した領域は大きいではないか” という印象があるのです。
例えば、『天守指図』とは、建仁寺流の名門大工・山上善右衛門から秘蔵の資料を伝授された、加賀藩作事奉行・池上家の三代目・右平が、自筆署名した図の写しである、という経緯について…
(宮上茂隆『国華』第999号「安土城天主の復原とその史料に就いて(下)」より)
『天守指図』を池上右平の創作とみる筆者としては、後で、右平執筆の時期について少し違った意見を述べるが、その他の点については筆者としても勿論異論はない。
(中略)
『天守指図』は、『信長記』(一つは前記『安土日記』。他も前田家本であろう)と、安土城天主跡の資料とに基づいて、延宝七年(一六七九)頃に、前田藩の建築官僚である池上右平が製作した安土城天主の推定復原図というべきもので…
あれほどキツい反論の言葉を連ねた宮上先生も、赤文字にした部分のとおり、やはり現地の詳しい資料か調査が無ければ『天守指図』を書けないことは認めていて、ただ、『天守指図』そのものが実際の設計図の写しであることは絶対に認められない、というスタンスだったわけです。
さて、ひるがえって、当ブログは『天守指図』の新解釈によって、(a)安土城天主と大坂城天守の初重平面は相似形、(b)天主台の石段が鍵型に曲げられた理由、(c)『信長記』等が伝える天主台寸法は南北と東西が逆かもしれない、といった再発見がありうることをお伝えしました。
引き続き、オモシロイ再発見は色々とあって、そうした状況を踏まえますと、『天守指図』をめぐる両先生の論争には “ある折衷案が隠れていた” としか考えられないのです。
すなわち、建仁寺流大工・山上善右衛門が加賀藩に伝えた原資料(天主設計図)に対して、池上右平がかなりの規模で「加筆」してしまった結果が『天守指図』ではないのか、という考え方です。
その場合、右平本人に特段の悪意は無かったものと思われ、おそらくは大工の息子として作事奉行・池上家に婿養子に入った我が身を思い、多数の写本と共に、独学で『天守指図』を書き上げたのではなかったでしょうか。
そこで今回も、そうした歴史の証言者「池上右平」の功罪を浮き彫りにする、仮説の図をご覧いただきましょう。
すでにお気付きかもしれませんが、現状の天主台石垣の延長面と、『天守指図』の天主台上の辺が立体的に交わる線を求めれば、“天主台の高さ” が明らかになります。
その作業をご覧のように図上演習してみますと、天主台は、南部が北部より一間ほど低くなっていた可能性がありそうです。
そしてこのような段差が容認できるのも、新解釈による空き地の効果であって、これで宮上先生の批判の一つ(内藤説の石垣の反り)も解決することができます。
ただし、図に二段目の石垣が描かれていないのは、ひょっとすると南部と北部の段差が “二段式” と見られたのかもしれず、全体の複雑な形状については、改めて別の図で示す必要がありそうです。