秀吉の天守は “次の攻略目標” を指し示した


秀吉の天守は “次の攻略目標” を指し示した

前回、天守の「正面」論議についてお話した中で、その「外正面」が “敵方” を意味していた可能性に触れました。

前回の略図(犬山城天守)より

今回は、そうした織豊期天守の驚くべき “模範例” として、天下人・秀吉の天守群の 隠された目的 を指摘してみたいと思います。

豊臣秀吉像(大阪 豊國神社)

主君・織田信長の横死後、天下の覇権をめざした羽柴秀吉(豊臣秀吉)は、その後の生涯で次々と居城を築き、“普請狂” と揶揄(やゆ)されました。

築城開始年
天正10年 天王山城(山崎城)
天正11年 大坂城
天正14年 聚楽第
天正17年 淀城
天正18年 石垣山城
天正19年 肥前名護屋城
文禄3年  伏見城(指月)
慶長元年  伏見城(木幡山)

この他にも、いわゆる妙顕寺城など京屋敷の類を含めますと、もっと数は多くなるわけですが、そうした居城のうち、「天守の位置や向き」がある程度はっきりしているのは、赤文字と以下の図で示した六つの城と言えるでしょう。

(※図はいずれも上が真北です)

天王山城(山崎城)

【天守の外正面=北 北ノ庄城の柴田勝家??】

信長亡き後の織田家中で、厳しく対立した二大巨頭が、秀吉と柴田勝家でした。

秀吉は清洲会議で山城国(京都)を手中にすると、早速、天王山(大山崎町)に築城を開始。それを知った柴田勝家は「憤激した」と伝えられますが、その理由は定かでありません。

天王山

天守台石垣の痕跡

完成した城の本丸(山頂)には、北寄りに天守が建てられ、現在もその天守台の痕跡を見ることが出来ます。

問題はその方角であって、外正面はズバリ「北」を向いています。

つまり(憤激した)柴田勝家の居城・北ノ庄城(福井県)を、次なる攻略目標として指し示したような形で、その天守は山頂に建っていたことになります。

大坂城

【天守の外正面=北 京の朝廷??】

各種の絵図によって、秀吉の大坂城天守は、本丸の「北東」隅にあったとされています。
しかしそれは「鬼門」の方角に当たるため、秀吉は何故そのような位置を選んだのか不審とされて来ました。

が、これについても外正面(この場合も「北」)を考えますと、答えの手掛かりが得られるのかもしれません。

と申しますのは、築城が始まったのは天正11年の夏のことですが、天守台の工事に取り掛かった9月、秀吉はいわゆる「大坂遷都計画」を周囲に語ったという旨の伝聞が、本多忠勝の書状にあります。

この時、秀吉は、城に隣接した天満地区に新たな御所を建設し、都を移そうと画策していたと言われます。

そうした中で、天守を本丸「北東」隅に建てたということは、例えば、はるか淀川上流(北東)の京の朝廷を、新たな攻略目標に挙げ、政治的圧力をかける意思を示した、と解釈することもできるのではないでしょうか。

聚楽第

【天守の外正面=西 「明」帝国??】

しかし遷都計画が朝廷の強い抵抗で挫折すると、今度は、秀吉の方から朝廷に接近するような形で、京の都に聚楽第が造営されました。

この聚楽第の天守の位置はさほど明確ではないのですが、本丸「北西」隅にあったという説が有力です。

そして三井記念美術館蔵の『聚楽第図屏風』を参照しますと、完成した天守は、内正面が東の御所を向き、外正面が西を向いていた可能性が濃厚です。
すでに九州遠征は終わっていたこの段階で、何故、攻略目標が「西」なのか?

それを解くヒントは、秀吉の辞世として有名な「つゆとをち つゆときへにし わがみかな なにわの事も ゆめの又ゆめ」という文言に隠れているようです。

この句は、ご承知のとおり、実際は聚楽第の“完成披露の席”で秀吉が詠んだ句であり、秀吉の死後に孝蔵主が辞世の句に推挙したものでした。

ですから「ゆめの又ゆめ」とは、挫折した「大坂遷都」のことであって、また「つゆとをち~わがみかな」とは、すでに秀吉が計画を表明していた大陸遠征(朝鮮出兵)において、秀吉自身も渡海して「遠征先で果てる」覚悟を詠ったと考えるべきでしょう。

そうした当時の状況を踏まえますと、外正面の「西」は、やはり大陸の「明」帝国を、次なる攻略目標として天下に示したものと思われるのです。

肥前名護屋城

【天守の外正面=西 「明」】

そして現実に朝鮮出兵の本営となった肥前名護屋城の天守も、当然のごとく「西」を外正面にして建てられていて、“作法” をしっかりと踏まえていたことが分かります。

伏見城(木幡山)

【天守の外正面=西 「明」】

その後、14万余の将兵を朝鮮半島に送ったまま、秀吉が没した木幡山の伏見城も、肥前名護屋城と同じく、天守は本丸「北西」隅にあったと言われます。

外正面は、言わば “未完の攻略目標” として、秀吉の妄執のごとく「西」を向いていたと考えられるのです。
 
 
 
さて、ご紹介の順をあえて飛ばして、最後に挙げてみたい城が「石垣山城」です。

この天守の場合は、やや変わった “対象” が攻略目標にされた節があるからです。

石垣山城

【天守の外正面=南西 ???

北条氏の巨城・小田原城を攻囲する「小田原攻め」では、徳川家康、織田信雄などの諸大名が動員され、秀吉の御座所として、小田原を見おろす傘懸山(かさがけやま/別称:石垣山)に城が築かれました。

そしてご覧のとおり、その石垣山城の天守は “妙な方角” を外正面にしていました。

小田原城のある東側ではなく、一見、戦と無関係のように思える「南西」を向いていたのです。

いったい石垣山の南西に何がある?と地図をたどりますと、なんと、その先にあったのは 豊臣大名・徳川家康の駿府城 なのです。! !

記録によれば、秀吉の命令による 徳川氏の関東への国替え は、この小田原攻めが終わるとそのまま実施に移されました。

つまり家康は駿府に戻ることなく、戦支度のまま江戸に向かい、新領地に入ることになるのです。

そうした「関東移封」をいつごろ家康が受諾したかは、様々な研究がありますが、遅くとも小田原攻めに参陣した時点で、すでに家康主従は国替えを覚悟していたと考えられています。

そして家康の陣は、小田原城の東側に設けられ、ちょうど家康の視点からは、小田原城の向こう側(西側)に石垣山が見えるような位置になりました。

そして始まった石垣山城の築城。 見る見るうちに城が形を成し、ついに天守が本丸の南西寄りに姿を現したとき、(北条勢の驚愕よりも)強い衝撃を受けたのは、「家康その人」ではなかったでしょうか??
 
 
秀吉の天守は「無言の 恫喝 (どうかつ) 」となって、豊臣の最有力大名・徳川氏をすみやかに関東へと追いやったのです。
 

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