豊臣大坂城・落城の劇的な瞬間とは?
ご覧いただいております季刊リポートは、文脈の関係から盛り込めなかった話題が色々とあるため、そうしたお話を一連でご紹介してまいりたいと思います。
その一回目は、秀吉の遺児・秀頼の大坂城が、ついに落城した劇的な瞬間についてです。
これまで、豊臣時代の大坂城を復元したCGやイラスト、模型等々は、どうしても最盛期の城の姿を再現することになりがちでした。そのため、大坂夏の陣で城が落ちた時、城内がどういう状況だったか、という観点から描かれた画像などはあまり例がありません。
そこで例えば「渾身の第1弾リポート」でご覧いただける例示の画像ですが、これは秀吉の遺児・秀頼の時代、しかも大坂陣の直前の状況を想定して描いてみた絵です。
ご覧になってまず目立つ「秀頼再建天守」に関してはリポートそのものをご覧いただくとして、今日は、その下に鳥居と殿舎が見える「豊国廟(ほうこくびょう/とよくにびょう)」に、是非ご注目いただきたいのです。
この大坂城内の豊国廟こそ、落城の瞬間を想像する上で、欠くことの出来ない重要な存在だからです。
豊国廟とは、秀吉の死去のあと、京都の阿弥陀ケ峰に建立された秀吉の霊廟ですが、その後、十数年を経て、豊臣家に対する徳川幕府の圧迫が強まり、いよいよ風雲急を告げる事態となった時、大坂城の山里丸に「分霊」された社です。
その建立は大坂陣の前年、慶長18年(1613年)春のことでした。
建立の様子は、それに関わった神竜院梵舜の日記に詳しい記録がありますが、例えば「仮殿ヨリ本社迄間廿五間アリ」等と書かれています。
つまり仮殿から本社まで「25間」50m近くもある、壮大な社だったわけです。現に、山里丸跡のその辺りからは、「参道」と見られる計20間ほどの花崗岩の敷石が、昭和初期に発見されています。
「幕府vs豊臣」の緊迫した情勢下で、秀頼や淀殿がこうした豊国廟を城内に遷宮したのは、もちろん京都の豊国廟に詣でることはもはや不可能、といった事情もあるでしょうが、豊臣家の行く末に対する悲壮な覚悟もあったものと思われます。
そして翌年、大坂陣の開戦後まもなく行われた幕府方の砲撃は、この豊国廟に参詣する秀頼(十二月十八日、秀吉の命日)をねらって打ち込まれたものです。
それでは、大坂城がついに炎上・落城し、豊臣家が滅亡にいたる時、秀頼らのいた場所はどのようであったかを、次の図で想像してみて下さい。
ドラマや映画でくりかえし描かれた秀頼と淀殿らの自害(自決)のシーンは、たいがい粗末な蔵の中が舞台になりましたが、それは図の左上、「糒庫(ほしいいぐら)」に当たります。(別称「朱三矢倉」「糒矢倉」)
広さは「二間五間之庫」(『駿府政事録』)と伝わっていますので、4m×10mたらずの狭い場所で、ここに30名あまりの秀頼主従が立てこもったわけです。そしてここはご承知のとおり、『おきく物語』の中で、落城の二三日前から入る支度がしてあったと記された場所です。
では何故「この蔵」だったのでしょうか?
それは上記の図で見れば、「豊国廟」つまり亡き秀吉の 膝元で 最期を迎えるためであり、秀頼再建天守も含めて、これらのすべてが 寄り添うようにして建てられていたのです。