日: 2010年10月25日

解説!イラスト「白い安土城天主」上層部分


解説!イラスト「白い安土城天主」上層部分

このほど、当ブログは累計アクセス数が20万件を越えまして、望外のご支持を頂戴しておりますこと、心より御礼申し上げます。

さて、前回は不本意な形でお見せしたイラストについて、今回は解説文を加えてご覧いただきたく存じます。

『天守指図』新解釈による復元イラスト(北西の湖上から見上げた角度)

 
 
論点1.やはり安土城天主に正八角形の「八角円堂」は無かった!
    ~仮称「十字形八角平面」の六重目の具体像~

 
 
 
まず、安土城天主の構造に、正八角形の「八角円堂」が無かったと考えられる “理由” につきましては、上のバナーの「2009緊急リポート」やブログ記事「安土城天主に「八角円堂」は無かった!」及び「図解!安土城天主に「八角円堂」は無かった」をご参照いただきたく、ここではイラスト化を進めた過程で新たに判った事柄をお話いたします。

(※最上階の七重目については、記事「七重目が「純金の冠」だったワケ」もご参照下さい)

静嘉堂文庫蔵『天守指図』の五重目

当サイトはご覧の『天守指図』五重目の中央部分、十字形の八つ角のある範囲が高く建ち上がり、六重目を構成したのではないか、と考えております。

正直申しまして、その具体像を考える上で最も迷ったポイントは、五重目の南北に突き出した「一段たかし」と書き込みのある部屋(張り出し)の真上の部屋は、どうなっていたのか? という点でした。

何故なら、その上にも何らかの部屋が無くては、六重目が「八角(八つ角のある平面形)」になりませんし、指図に描かれた「華頭窓」等は当然、五重目についての表現であって、その上の部屋については情報が “皆無” だからです。

「張り出し」真上の六重目は開放的な「眺望」室??

そこで当サイトが申し上げている仮称「十字形八角平面」の論拠に立ち返りますと、古来、中国大陸の各地に建てられた楼閣建築において、特徴的な構造物として「抱廈(ほうか)」があり、それは眺望のためのバルコニー的な用途のあるものでした。

岳陽楼図(原在照筆/江戸時代)

こうした見晴らしの良い「抱廈(ほうか)」こそ、中国の楼閣にとって必須のものであり、これが「十字形八角平面」を形づくったわけです。

したがって『天守指図』の「張り出し」の真上にも、そうした「眺望」を第一の目的とする部屋があっても良いのではないか、と考えた場合、それは例えば、のちの松本城天守の月見櫓に見られるような、戸や縁がぐるりと廻った開放的な空間が想像されます。

その場合、縁は当然のごとく、六重目(回廊)の西側に張り出した高欄廻縁が回り込んできたものと思われ、それによって接続路は十分に確保され、外観的には「八角」がいっそう強調される効果もありそうで、今回のイラスト化に “是非モノ” で盛り込んだ次第です。

『天守指図』五重目の解釈案(今回の訂正版)

そのため以前の記事中の作図に、いくつか “訂正” があります。

例えばご覧の上の作図で、赤い矢印線は、五重目の内部から階段を登り、六重目(回廊)を経て、吹き抜けの真上の「七重目」に向かう場合や、一旦、高欄廻縁に出てから南北の「眺望」室に向かう場合の導線を表しています。

ちなみに別の立体的な図では、その縁はご覧のように表現されます。

この「十字形八角平面の六重目」という考え方は、次の「論点2」の内容にも深く関わって来ることになります。

 
 
論点2.『信長記』『信長公記』類で知られる天主壁面の「飛龍」の絵が、
    実は、宣教師の見聞録では一語も書かれていないのは何故なのか??

 
 
(『信長記』岡山大学蔵より)

六重め八角四間程有。外柱は朱也、内柱は皆金也。
釈門十代御弟子等、尺尊成道御説法之次第。
御縁輪にハ餓鬼共鬼共かゝせられ、御縁輪はた板にハ、
しやちほこひれうをかゝせられ、
高欄擬法珠ほり物あり。

 
 
このような六重目の記録をもとに、諸先生方の復元では、多くの場合、八角の縁下の「はた板」(端板)に「ひれう」(飛龍)の絵を描いて来ました。

ご存知ですか? それは海外の出版物でも踏襲されてます…

(Stephen Turnbull『Japanese Castles 1540-1640』)

こんな壁面の飛龍はイラストから想像するに、遠くからでも目立ったことでしょうが、不思議なことに、フロイス『日本史』など宣教師の見聞録では、この飛龍について書かれた部分が一箇所も無い(!)のです。

例えば外壁に関するくだりでも…

(『完訳フロイス日本史』松田毅一/川崎桃太訳)

外部では、これら(七層)の層ごとに種々の色分けがなされている。あるものは、日本で用いられている漆塗り、すなわち黒い漆を塗った窓を配した白壁となっており、それがこの上ない美観を呈している。他のあるものは赤く、あるいは青く塗られており、最上層はすべて金色となっている。
 
 
宣教師の目にも「ドラゴン(龍)」と判るような絵が、はっきりと天主の壁面にあったのなら、少しは記録があっても良さそうです。

ところが一言も無い、ということは、何かそこに理由があったからではないのでしょうか?

織田信長が安土時代に使用した龍の朱印

そこで例えばご覧いただきたいのがこの印判でして、これは「天下布武」の文字の両側を、二匹の降り龍が囲んだデザインであり、信長が安土への移転を契機に使い始めたものと言われています。

それにしても、このデザイン。パッと見た目で、すぐに「龍」とお分かりになるでしょうか。

――このことから、或る可能性が思い浮かぶのです。

仮に、分かり易く作ってみた印判状の飛龍の図案

つまりここで申し上げたいのは、問題の「飛龍の絵」とは、特に宣教師らの西洋人にとっては、遠目ではとても判別のできなかった、複雑な印判状の図柄(!)という可能性は無かったか? ということです。

日本人ならば、“何かが円形にトグロを巻いている” という絵を見た場合、遅かれ早かれ「龍だ」と連想できるわけですが、宣教師にはそれが唐草模様とも何とも判断がつかず、結局、見聞録に記しきれなかった、という特殊なケースが起きたのではなかったでしょうか。

そして、そういう可能性(=飛龍の絵は円形であり判別が難しかった)について考えをめぐらせますと、そこから信長の「壮大な意図」が見え隠れし始めるのです。…

『天守指図』五重目/六本の朱柱?は幅9間にわたって並ぶ

前記『信長記』に「外柱は朱也」とあったとおり、『天守指図』にもその「朱柱」と思われる存在が示されています。

それらは幅9間にわたって並んでいて、全体で六重目の高欄廻縁や屋根庇(ひさし)の軒先を支えていた可能性が想定できます。

(※詳しくは「天空と一体化する安土城天主の上層階」参照)

で、実は、この「幅9間」というのがミソであり、すなわち1間に一匹ずつ「龍」の図柄があったのなら、合計で「九匹の龍」が壁面に並んだことになるからです。

それらは、城下町の広がる西側に向かって。さらには、都や、海のかなたの大帝国に向かって…

九龍壁(紫禁城/太和殿の前門「皇極門」に付設のもの)

九龍壁は、中国の明・清代に正門の目隠しの壁として建てられたものです。

龍が表と裏に九匹ずつ、それぞれ五対に見えるように配置され、縁起のいい「九」と「五」で「九五之尊」を表し、宮殿外から姿の見えない皇帝(天子)の存在を表現したと言います。

(※写真の龍は2匹ずつ波形でくくって「五対」に見せています)

この「九五之尊」という意味では、まさに『天守指図』の朱柱も、九匹の龍を五対に見えるように(!)配置してあることが判ります。

こうして見ますと、文献に伝えられた「飛龍の絵」とは、さながら「信長の九龍壁」とも言うべき確信的な意匠であったことになり、当時の中国の流儀にのっとった、或る政治的なメッセージを発信するための設備だったことになります。

(千田嘉博『戦国の城を歩く』2009年 ちくま学芸文庫版)

竜のデザインは中国の皇帝につながります。そして安土城の天主は唐様、つまり中国風デザインにつくるよう命じていました。これも皇帝イメージに直結します。小島道裕さんもいうように、信長は天皇を凌駕する皇帝を意図していた可能性がきわめて高いのです。
 
 
かくして「飛龍の絵」を各々1間幅の図柄と考える時、信長の歴史的なメッセージが天主の壁面に掲げられたことは、いっそう明確になるわけです。

(※次回に続く)

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