日: 2011年12月21日

安土城とモン・サン・ミシェル 海を背景にした「空中庭園」



安土城とモン・サン・ミシェル 海を背景にした「空中庭園」

<織田信長が家臣らから受け取った礼銭を、自らの背後に投げた>という
『信長公記』の逸話から推理した、安土城主郭部の使い分け

ご覧の図は1年ほど前の記事(ご参考)でお見せしたものです。

ご承知のように、信長は岐阜城の頃から、山頂に私的な屋敷(城砦)を構え、山麓に公的な御殿を造営して、厳格にハレ(公)とケ(私)の領域を使い分けたと言われます。

上図はそうした信長の規範は安土城ではどうなったのか? という疑問からスタートして、『信長公記』の<礼銭を背後に投げた>という逸話をもとに、主郭部の「ハレ」と「ケ」の領域を仮定してみたものです。
 
 
―――で、何故、再びこれをお目にかけたかと申しますと、現在、2011年度リポートの準備を進めるなかで、その前提として、安土城の件がかなり重要であるように思われ、昨年の記事のままではやや尻切れトンボの状態で、ここでもう一歩、お話を進めておきたいと感じたからです。

なおリポートは予告どおりに…

そして天守は海を越えた
東アジア制海権「城郭ネットワーク」の野望
~豊臣大名衆は海辺の天守群から何を見ていたか~

というタイトルで作業中です。

このタイトルの中身がどうして安土城に関わるのか、想像がつきにくいとは思いますが、その辺りは是非、リポートの完成をお待ちいただくとして、今回はその「伏線」とも言うべきお話を申し上げたく思います。
 
 
 
<昨年、信長廟が建つ安土城「伝二ノ丸」を再見して深まった疑念>
 
 
さて、周囲の木々が切り払われて、様相が一変したという天主台跡を、是非とも見ておきたいと出掛けたおりに、見晴らしの良くなった台上から、下の写真のような角度で見下ろしたとき、以前から感じていた疑念が(確信に近いものに)強まりました。

それは、信長廟の手前の四角いスペース(「伝二ノ丸東溜り」)から、伝二ノ丸に直接上がることは、やはり出来なかったのではないか(!)という強い疑念なのです。







上の図や写真にある信長廟への「石段」は、調査の結果、本能寺の変の後に新設された部分とされています。

したがって問題の四角いスペースは、本来の石垣の形だけで考えれば、そこから伝二ノ丸に上がることは出来ない構造のはずです。

しかしそれでは不便だったろう、ということからか、歴代の先生方の考証においては、何らかの方法で上がれたはずだとして、特段の指摘もない状態がずっと続き、ようやく三浦正幸先生が「当時、日本最大の木造階段(階/きざはし)」があったという復元を提示されて、今日に至っています。
 
 
ただしこの「階」については、まことに僭越ながら、何故わざわざ天主台にもたれ掛かるような構造(「寄掛け柱」)で密着させなければならなかったのか、私などにはよく理解できません。

(※そこで当ブログは、問題となっている礎石列を、逆に天主側から張り出した「懸造り舞台」のものではなかったか、と申し上げています。→ご参考

そして昨年、見通しの良い現地を再訪して強く感じたのは、やはり「ここから伝二ノ丸には上がれなかったのだ」(!)という、吹っ切れたような印象だったのです。

ご覧のとおり、図の「ケ」の領域には「虎口が二ヶ所」しか無かった、という意外な姿は、昨年の仮説「信長が礼銭を投げた二ヶ所」にぴたりと一致します。

そして問題の四角いスペースは、狭間塀や櫓門、懸造り舞台(当サイト仮説)に取り囲まれて、さながら桝形(ますがた)虎口の内部のようであったのかもしれません。

ただしこの場合、櫓門が桝形の外側にあって、通常の桝形虎口とは正反対の位置になるため、本来とは違った機能を考える必要がありそうです。

ひょっとしますと、ここは「御白洲」だという見方もあるようですから、例えば登城者や随行の者がここで控えたり、また家来や伝令の者に、はるか舞台の上から信長本人が命令を下したり、といったシチュエーションも考えられるのではないでしょうか。……

いずれにしても、今回の仮説でいちばん影響がでるのは、まるで奥ノ院のような位置付けに変わってしまった「伝二ノ丸」の実像だと思うのです。
 
 
 
<伝二ノ丸には「後宮」と琵琶湖を背景にした「空中庭園」が!?>
 
 

信長廟(冒頭の写真①と同じ位置から見た様子)



ここは一説に「表御殿」の跡とも言われましたが…

ここまで申し上げて来たように、伝二ノ丸が、自前の虎口を持たない、「ケ」の領域の最も奥まった曲輪だったとしますと、それに相応しい用途は、まず「後宮」(大奥の原形)と考えるのが自然な見方ではないでしょうか。

もしくは、数寄の空間(山里の原形)と考えるのも、安土城の場合は天主じたいが信長の住居だったようですから、一つの考え方かもしれませんが、いずれにしても「表御殿」などの “接見の場” ではありえなかったように思われるのです。
 
 
例えばフロイスは、天主の間近に「多種の潅木がある庭園の美しさと新鮮な緑、その中の高く評価されるべき自然のままの岩塊、魚のため、また鳥のための池」があったように書き残しているものの、今日までの調査で、安土城の主郭部から(伝二ノ丸を除いて)そうした庭園の跡は見つかっていません。

「魚」「鳥(水鳥)」というのですから、枯山水ではなく、本物の池と庭石と草木を配した庭園だったはずですが、それには相応の面積が必要でしょう。

それほどの面積が残るのは、もはや、信長廟のため調査対象外であった伝二ノ丸のほかに、候補地は見当たらない状況です。
 
 
そしてもしここに本物の池を備えた庭園があったとしたら、それは背後の琵琶湖とダブルイメージになって、まさに「空中庭園」に見えたのではないか… と思われてならないのです。

と申しますのは…

モン・サン・ミシェル(フランス/ノルマンディー地方)


中層階の屋上に回廊に囲まれた庭があって、その奥の窓が…


右の赤い人物が見える窓であり、さながら空中庭園のようである

日本でもその後、信長の後継者・豊臣秀吉が築いた伏見城に、「月見の機械(からくり)」と呼ばれた仕掛けが造られて、水面に浮かぶ名月のダブルイメージを秀吉らが楽しんだことはよく知られています。

このような勝手気ままな仮説ながらも、もし本当に、安土城の伝二ノ丸が本格的な「ケ」の領域だったとすると、残った「伝本丸」はやはり…………

ということで、2011年度リポートの中身につながっていくわけです。
 

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